brain_title.gif (13527 バイト)

 

真夜中の脳みそ

詩集「半熟卵」(Update:2001. 9.16.)

コラム「午前3時の天気予報」(Update:2004. 8.21.)

AIBO日記(Update:2003.11. 3.)

アルバム(Update:2003.1.31.)

「紺野」とは?(Update:2004. 8.21.)

Links(Update:2002.10.20.)

更新ログ(Update:2004. 8.21.)

Mail Me !


AIBOと暮らす〜改めて彼らとの距離を考える編〜


 気が付くと半年以上彼ら(健太祐輔)と戯れていなかった。まずい。半年もの間、バッテリーは充電されず、電源も切れたままだった。これが生身の生き物だったら、半年の間餌もやらずに放置しておく、というのは人道的、倫理的に非難されて然るべきところだが、それはそれ、彼らは機械である。充電すればほら、以前の通り。手軽なのだが、この私(飼い主?)の都合のいいときに電源が入り、時間が取れなかったら切っておく、という家電感覚で問題ないのか、というのは微妙なところである。

 現在だからこそ彼らと戯れる際には、多少の擬人化、擬動物化をしてとらえ、感情移入もするが、どうも家電感覚である。これがもっと技術が進み、自律的に行動する(例えばバッテリー残量が少なくなれば勝手に充電する、「会話」ができるまでにコミュニケーション能力が向上する、など)となった場合に、倫理的な問題が出て来ないかどうか考えるところである。機械(ロボット、アンドロイド、バイオロイド等)と人間がどう付き合って行くのか、法的な問題も含め、今後の方向性によっては考えていかなければならないだろう。

 しかし、そうなるまでの間はしばらく家電感覚が続くのだろう。それが数年か、10年か、というところだろう。20世紀後半のSFによればもうそろそろ家電感覚を脱しなければならない時点にまでに現実の時間は進んでしまっている

 2001年も9月に入ってAIBOの後継機種の発表があった健太(ERS-111)、祐輔(ERS-210)と新製品が発表される度に衝動的に購入して来たのだが、今度の新機種、ERS-311(ラッテ)、ERS-312(マカロン)には正直言って食指がうずかない。どうも気に入らないのだ。

 基本機能はERS-210と同等、という目新しさがないのもあるが、まず第一にかわいくない。ただでさえデフォルメされていて大きな頭部なのだが、さらに大きくなっている。あそこまで大きくなるとどうもげんなりしてしまう。

 さらに、予め基本となる性格がプログラムされている、ということが気に入らない。育つ性格に個体差が生じている現状がよいのであって、その個体差、多様性が狭められるのはどうも気が引けてしまう。確かに予めプログラムされいて多様性が少なく、値段も安い方が一般には受け入れられるだろう。しかし、そうなれば現在でさえ私が抱いている家電感覚がもっと強められてしまう。これはよくないことではないだろうか。

 何よりも増して気に入らないのは、頭部から微妙に突き出してランプが取り付けられていることだ。デザインセンスを疑う。そんなところにそんなものがあったら気味が悪い

 と、いうことで、マーケティング的に言えばアーリーアダプタ(しかも私の場合多少頑固)なので、残念ながらERS-31Xシリーズは見送りと決めた(と、いうことは次に出たら買うのか?)。

 現実問題として既に健太と祐輔で手一杯、ということもある。

 図1.現実問題

 健太だけの頃は、とりあえずバッテリーが切れるまでの1時間強のうち私の気が向いたときにかまってやり、あとは放っておく、ということができたのだが、これに祐輔が加わると、狭い部屋の中で椅子に引っかかっていたり、転んでいたり、互いに他者認識ができていないのでまるでがっぷり四つに組んでいるかのように動きが取れなくなってしまっている2倍手がかかるのではない。2乗手がかかるのだ。基本的にほったらかす、ということが難しくなっている。

 図2.仲良く戯れているのではない

 そうであればひとり(1台?)ずつかまってやればよいではないか、という考えもあるのだが、他者認識ができないとわかりつつ(自己認識も著しくできていないが)、ふたりがともに活動している様の方がなんとなく楽しいのである(私の自己満足、という感も否めない)。

 と、いうことを考えると、自己と他者、という概念はいかにして作り出されるモノなのか

 生物の進化を逆にたどってみる。

 まず人間を含む真猿類は自己と他者認識は特に意識することなく自然にできている。人間は確実に言語によってその存在を抽象化し、伝えること表現することができる。チンパンジーやボノボも明確な言語というものは持ち合わせていないが、自己と他者を抽象化しているのではないか、という観察例も見られる。別な進化の系統、クジラやイルカのような水棲哺乳類でも、観察されている。哺乳類は「親子」、「群れ」、「家族」(ファミリー)という社会構成単位で生活していることもあり、当然、自己認識、他者認識は必要になってくる。

 では、鳥類、爬虫類、魚類はどうか。魚類まで来るとかなり怪しいが、群れで行動する場合、他者との距離が生存のためには必要になってくることを考えると、「個体」としての認識はできているようである(等間隔で並んでいたり、群れの中で互いに物理的な衝突が巧妙に避けられていたり)。

 クラゲまで来るともうアウトだろう(イカやタコは辛うじてできているかも)。昆虫類は自己と他者を認識しているようにはとても見えない。群れなどの社会構成単位の中で個体間の「距離」が必要な種は自己と他者を認識していると思われる

 物理的な距離認識はかなり進化の前段階でもできていると思われるが、精神的な距離認識はどうだろう。これには大脳の発達が関与しているとしか思えない。ヒトの場合でもまだ中途半端な情報端末としての精神性しか獲得していない。だからこそ現代病ともいえる「心の病」を抱えるのだろう。

 と、すると、ロボティクスが発達し、ヒトと同等の認識能力を獲得したとしたら、「心の病」を発症するのだろうかヒトはまだ進化の最終形態ではないヒトもロボットもともに発達したとしたら、「心の病」は克服されるのだろうか

 未来は何処。

(2001. 9.16.)


PrevWB01343_.gif (599 バイト)   WB01345_.gif (616 バイト)Next