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第1回  書評「見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス」


「見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス」(東京大学出版)
著者:岩田 誠 \2,600(+消費税) ISBN 4-13-063314-7


 この本は久しぶりに「買ってみたい」と思ったハードカバーの本である。発行は1997年10月27日となっているので今更書評を書くのはいささか時期外れではあるのだが、私がこの本を目にしたのは1998年4月11日(土)にふらりと入った渋谷Bukamuraザ・ミュージアムで催されていた「モンドリアン展」のときであったのと、私が読むのが遅くて時間がかかったためであることを予めお断りしておく。

 もともと人間や動物の視覚認識の仕組み、システムに興味があったのと「脳」というものに対して「信仰」ともいうべき思い入れがあったので、この本のカバーをミュージアムショップで見た瞬間「読んでみたい」とそう思った。そういう衝動にかられた。そして序章に目を通して「買ってみたい」と思った。この序章では人間を「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)としてでなく「ホモ・ピクトル」(描くヒト)として定義したい、という一節がある。ヒトとして約5万年の歴史のうち約3万年は絵を描き続けてきた、というのが遺跡から証明される、というのである。これは面白い、と思った。なぜ人間は絵を描きたがるのか、自分自身不思議で仕方がなかった(私は絵画を鑑賞するのは非常に好きだが、どうも自分が描く方にはまったく才能がないらしい。でもなんで画家たちがこんなに描く衝動にかられるのか不思議である)。なにかしらの答えがあるのであろうと確信し、私はレジへ向かった。

 読み始めてみると、「描く」ためには「見る」ことが必要であり、それを「描く」という動作に変換する必要がある。そこで「見る」とはどういうことか(第1章)、「描く」ためには脳の働きがどうなっているのか(第2章)、絵画の歴史を脳から分析し(第3章)、創造性、独創性を脳の視点から分析している(第4章)。実に面白かった、と言っておこう。そして視覚認識に興味があるなら、同時に絵画にも興味があるなら一読することをお勧めしたい。以下に軽い解説を書かせていただく。

 第1章は網膜を通って脳に至り認識されるまでの神経回路の解説、脳が視覚イメージを持つということへの解説である。医学用語がちりばめられ、読み進むにはいささかパワーがいる。人間の視野は左右約130〜160度くらいあるが「視力」として判定される「見えている」範囲は実は視野の中心部だけである、ということ、その周りは脳がある意味「こんな感じ」という具合に情報を補完している、ということである。「見る」情報は目の網膜に映った情報を脳が判断している、ということは理科の教科書に記述があるくらい明白なことであるが、「見えている」のはレンブラントの絵の様に中心部だけであって、周辺部は暗くぼやけているように網膜には映っている、ということが本書では書かれてある。

 実際、この人間が「見えている」範囲が思ったよりも狭いために自動車等を運転していて危険を認識できなかった、予想外の動きに対応できなかった、というのは自分でも実感できることであるので、大変興味深かった。脳の中には動きを認識する神経細胞、色を認識する神経細胞、形を認識する神経細胞がそれぞれ独立していて、それらの情報を統括することによって「認識」しているらしい。ただこの情報を統括して「正しい」と判断する「真の"見る"領域」部分は、まだ解明されていないらしい。今後の研究に期待したいところだ。人間の脳はわかったようでわからない部分が多量にあるのだ。

 第2章は認識した結果を「描く」という動作に変換するために使われる脳、脳がどのような運動系を制御して描かせているのかが、著者が神経内科医であることから取得できた症例からの分析が描かれている。病気、事故等で脳損傷を受けた患者の方々の症例から脳のどの部分が視覚認識情報を運動部分へ伝え、手やその他の器官を使って描かせているのかが非常に詳しく、実際の症例も記述されている。

 白状させていただくと、私はこの第2章についていけなかった。難しいのである。記述されてある情報量が多すぎて自分では消化しきれなかったのが自分自身では少し悔しい。かなり図を使ったわかりやすく示そうとしていたのだろうとの意図も読めるが、ついていけなかった自分自身が悔しい。ただ「絵画」の善し悪しを大きく左右するであろう「構図」を形作る能力をチンパンジーやゴリラといった類人猿たちも持っているという点には驚いた。実際、ヒトの子供が4、5歳になる頃にはこの類人猿たちのレベルを超えて絵画能力を身につけていくということらしい。そうなって「ホモ・ピクトル」となるのだと。

 第3章は絵画の歴史を脳の視点から分析している。この第3章が一番面白かった。まずヒトは心象絵画として伝えたいもの、知らせたいもの、見えないものを描いてきた。神話や動物、宗教、コミュニケーションとして。それがルネサンスまで続き、ルネサンスの時代に網膜絵画として目に映る世界を残そうとする。遠近法や透視図法(画像処理でいえば陰線処理、陰面処理等)の開発である。そして抽象画に代表されるような脳の絵画への進化である。日本画や水墨画にあるような筆のタッチ、物体の形態、運動のみを抽象化して文脈的に再構成されて絵画として形成されていく。脳のイメージをそのまま残そうとする現代絵画は進化した形の絵画なのだ。

 確かに文字がない時代(文字が形成されたのはここ5千年くらいのことである)において絵画はコミュニケーションの手段であり、宗教画等にも見られる「示す」「表す」ための手段であった。それが見たままに描くという形の絵画へ進化し、その過程を経てキュビズムに代表される現代絵画へと移っていったのは中学や高校の美術の教科書でも登場する。また、現代絵画は画家が何の情報を抽出してそれを描きたかったのかは見る側の我々が考えねばならぬところなのだが、直接伝わってこないがために一般的に抽象絵画は「難解」とされる。それはこの情報を見出すことができないだけなのではないだろうかと思った。見出すことさえできれば画家の情熱がダイレクトに伝わってくるような気がする。私は絵画を鑑賞する際に、自分自身の好き、嫌いで鑑賞し(実際芸術を鑑賞するにはそれでいいじゃないかと常日頃思っている)、特に現代絵画、抽象絵画においては「パッション(passion)」が伝わってくるものが好き、伝わってこなかったら嫌い、と判断していた。つまりこれは「嫌い」となった場合は自分自身がこの画家が示したかった抽出された情報を認識できなかっただけなのである。自分の視野の狭さを思い知らされた。

 そして第4章では「描く」というヒトとしての特性は、視覚的思考という精神活動において科学者たちが脳を理解していくこと過程を、画家たちが別な手法で追い求めてきた、先取りしてきたということで結ばれている。直感によって画家たちが考え、示してきたことを科学者は問題解決型で後追いしてきたのだと。

 この一節で科学の子である自分は画家のすごさを再認識した。最新科学が未だ追いつけないレベルで画家たちはすでに以前から芸術的な活動を行ってきていたのだ。すばらしい、の一言である。そしてますます脳に対する信仰が強くなったといえるだろう。認識とはどういうことなのか、イメージとはどういうものなのか、というのを改めて考えさせてくれた。絵画を鑑賞するにおいて今まで自分が持っていた視点とは違った別な脳という視点があることを教えてくれた本書「見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス」、そして著者に感謝したい。

 まったくの余談になるが、絵画と並んで私は音楽にも非常に興味がある。この「音」を認識する分野においてもこの「見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス」のような著作があるのだろうか。今度機会があったら探してみたい。

(1998. 5. 9)

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