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第3回 コラム:パンドラの箱「核エネルギー」
人類は今までにいくつかのパンドラの箱を開けてしまったと思っている。爆薬、遺伝子操作(クローン技術も含む)がそれに該当すると思っているが、核エネルギーもそのうちの一つと私は思う。
基本的に科学技術として単純に考えるならば核エネルギーには科学の子である私は賛成だ。非常に魅力的であり、ある意味「夢」だ。しかし、それに政治が介入すると反対の立場を取らせていただきたい。「核の抑止力」「大国としての核武装」そんなものがあってたまるか、と思う。政治家の思い上がった言い訳である。科学技術が稚拙なパワーゲームに巻き込まれてたまるか、と思う。
「核」のもつ圧倒的エネルギーは魅力である(それだけ物質の源である宇宙には多量のエネルギーが存在する、ということになるのだが)。人類は核エネルギーを熱として取り出す技術は確立しているが、その熱と引き換えに放射能の問題を解決する技術を人類はいまだ持ち得ていない。放射能という影の面を克服する技術を持ち得ていない未熟な片手落ちである技術であるが故に、実用原子力発電所等ではコンクリートや鉛で隔壁を作って遮蔽する、という単純な行為に出ているに過ぎないのである(そのコンクリートの廃棄の問題は依然棚上げされた状態のままだ。穴掘って埋める、というのは棚上げと同義だ)。
エネルギー放出を安定してコントロールできている分には設計された通りの隔壁で放射能は(設計上は)遮蔽できているが、人間のミス(操作誤り、設計誤り、管理誤り等)により人間のコントロールを離れた瞬間、その圧倒的なエネルギーの前に人間は無力となる。1979年3月アメリカ・スリーマイル島原子力発電所事故、1986年4月旧ソビエト・チェルノブイリ原子力発電所事故、1995年12月日本・高速増殖炉「もんじゅ」においての冷却材の金属ナトリウム漏れ事故(これは直接放射能漏れとは関係ないが、設計誤りの例)が顕著だ。
人間の欲望に直結した面の技術進歩はやたら早い(逆に言うと直結しない技術は進歩しない)。軍事技術がその好例だ(強くありたい、強くなりたいという欲望に直結している)。それゆえ過去「武器」として核エネルギーを使用してきた(「武器」として使用する範囲内であれば放射能の問題はあまり考慮しなくてすむ。いや、意識的に考慮していないのかもしれない。それゆえ、「武器」として使用された前例のある広島や長崎は悲劇として語り継がれている。語り継がなければならない。一部の思い上がった人間の欲望のためだけにどれだけの人がまったく理由もなく犠牲とならざるを得なかったのか、それを忘れてはいけないのだ、風化させてはいけないのだ。そんな愚劣な行為を正当化してはいけないのだ)。最初の原子爆弾が製造されてから破壊力が1,000倍になるまでに数年しかかからなかった(仕組みも原子爆弾から水素爆弾へと変わった)が、最初の原子力発電所が製造されてから現在まで基本的にお湯を沸かして蒸気でタービンを回し電気エネルギーに変換する、という仕組みに30年ほどあまり変わりがない(最近になって高温ガスを使用する高温ガス炉というものができつつあるが。それでもエネルギー変換効率が向上したに過ぎない)。実用核融合炉はいまだ登場していない。
パワーゲームは技術の預かり知らぬところで稚拙に進む。1998年5月11日にインドが行った行為(3回の核実験)は愚劣極まりない(しかも同5月13日にも世界中の非難を承知の上でさらに2回実験を断行するという暴挙に出た。これにより今後未臨界実験、コンピュータによるシミュレーション用のデータがそろった、ということになっている。それでいてフランスと同様、自分たちの実験が終了したら「包括的核実験禁止条約(CTBT)」に(条件付きで)加盟しようなどという。狂っている)。かといって過去何千回も核実験を行ってきて素知らぬ顔の核大国を棚上げすることを私は絶対にしない(未臨界実験なんてただの言い逃れだ)。過去のソビエトとアメリカの核大国は保有コストに耐え切れなくなって削減策を打ち出してきたに過ぎず、そしてその保有コストゆえにロシアの核の管理は行き届かず、苦慮せざるを得ないのが現状だ。
ある意味現在の「核兵器」大国は喫煙、飲酒が許された「大人」であって、インドは早く「大人」になりたくて「中学生」が喫煙、飲酒するようなものだ。「大人」であっても一度味わってしまった煙草断ち、酒断ちが非常に困難であるように、「中学生」に「子供」だから喫煙、飲酒するなと言っても説得力がない、「子供」の喫煙、飲酒が後を絶たないのと同様だ。みんながみんな喫煙、飲酒する必要がないのと同時に、みんながみんな「武器」を手にする必要がない。大人であっても「武器」は「武器」であって、実生活上はまったく必要無い物なのだ(「核兵器」はだめ、通常兵器ならいい、というのも論理のすり替えで、地雷など卑劣極まりない「武器」も多量に存在する)。「核の抑止力」と言っている間、「武器」が存在する間は「酒がないと生きていけない」アル中であるのと変わらない。
「核兵器」がちょっとの知識と技術さえあればできてしまうこの現代(インドは既に1974年にそれを証明してしまったのだし、今回はそれを更に強く印象づけてしまった)、責任逃れが常套手段の政治家たちには魅力的でしようがないのであろう(インドの今回の核実験のコードネームが「再び仏陀が微笑んだ」とはなんたる愚かさか)。民主主義国家ではそんな無責任な政治家を選んでしまった、選挙で投票してしまった側の責任なのだ(民主主義国家でなければもっと悲劇的だ。国民は黙ってそれについていくしかないからだ)。
インドはパキスタン、中国との稚拙な争いのために自らを辱めたし、不毛な世界に手を染めてしまった。世界中からの非難を受けるだけのことをしてしまったのだ。制裁あってしかるべきだ(同様に全ての核兵器保有国、核兵器保有疑惑国も非難、制裁あってしかるべきだ)。悩むべき事はインド国民の世論は自国の核兵器保有に肯定的な点だ。これでは1960年代のアメリカと変わりがない。彼等は歴史から何を学んだのか。
核エネルギーというパンドラの箱を人類は開けてしまったのだから、純粋に科学技術として放射能と人類は対抗していかなければならない。遮蔽などというごまかしでなく。人類はそのパンドラの箱を開けた責任を負わなければならないし、もっと本腰さえ入れれば実現できるのではないかという希望も持ちたい。
(1998.5.17.)
参考:
◆核不拡散条約(NPT)
1968年7月、米ソ英の核保有3カ国と核を持たない50カ国以上の国々が調印し、70年3月に発効した。中国とフランスが92年に加盟。核保有5カ国以外に核兵器を持たせない仕組みを定めた。5年ごとの再検討会議で、5カ国だけに核保有を認める不公平や、核保有国が核軍縮しないことに非難が繰り返されてきた。95年、条約の無期限延長が決定された。97年5月現在の加盟国は186カ国だが、インド、パキスタン、イスラエルは入っていない。
◆包括的核実験禁止条約(CTBT)
核爆発実験を全面的に禁止する国際条約。しかし、核爆発を伴わない未臨界実験や模擬実験は禁止されず、核保有国による核廃絶の期限も示されなかったため、インドは核保有国の優位が固定されるとして反対した。1996年9月に国連総会で採択されたが、インドやパキスタン、イスラエルなどの「疑惑国」の批准が発効の条件になっているため、発効のめどは立っていない。
(1998年5月13日付朝日新聞朝刊より)
追記:
この後、パキスタンも核実験を1998年5月28日、5月30日と続けて行った。NPTに記される「核保有国」にはインドもパキスタンも入らないこととなった。「1945年に日本も核兵器を持っていたなら広島、長崎への原爆投下はなかったはずだ」というパキスタンの首相の言葉へは嘲笑せざるを得ない。
(1998.6.6.)
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