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第4回 考察:新進のアーティスト「やなぎみわ」氏を考える
やなぎみわ」氏というCGを使用した写真合成によるアートを発表し続けているアーティストをご存知だろうか。私が彼女の存在を知ったのはNHK総合テレビの若手アーティストを紹介する番組(番組名、日時も忘れてしまった。1998年2月か3月くらいだったとは記憶しているのだが。情けない。同時に「ヤノベケンジ」氏も紹介されていた)であった。
紹介されていた作品は「案内嬢の部屋」シリーズであった。テレビの画面に映し出されたその作品に対して強烈な印象を持ったことを覚えている。
案内嬢」。大量生産、大量消費の象徴であるデパートの受付、エレベーターに彼女たちの姿はある。彼女たちに我々が持つイメージは何だろうか。白いパンプス、白い手袋、単色のスーツ、なぜか決まりきったような帽子。ほぼ全てがこれらを纏っている。そして妙に耳にべたつくしゃべり方。微妙な微笑みを含んだ無表情。人間でいながら非人間的な存在。人格、感情の見えづらい人物。実はどこかにオリジナルが存在してそれ以外はすべてコピーしたのではないかと錯覚させるほどの同一性。それが彼女たちだ。
やなぎみわ」氏の作品はこの「案内嬢」をステレオタイプのように西洋建築、デパート、地下鉄のホームに無数に配置し、彼女たち以外の姿をまったく排除している。他に存在するものとしては商品としての植物や、真っ白な建築物の模型ぐらいだ。時にはエスカレーターの上に配置し、時にはショーウィンドウの中に彼女たち自身を配置し、時にはデパートのエレベーターの前、地下鉄のホームに配置する。
私はこの「やなぎみわ」氏の作品を実際に見てみたくなり、作品集がないか、どこかのWebに紹介されていないか、インターネットで探しまくった。しかし、ヒットしたのは彼女の経歴と1997年水戸美術館で行われた展覧会の記録だけだった。しかし、幸運なことに、週刊「ぴあ」1998年5月25日号に「Subterranean<閉じられているという意識>」展に「やなぎみわ」氏の作品が展示されることが掲載された(この展覧会は他に、「横溝美由紀」氏、「浜田涼」氏、「小林のりお」氏を含めて4人の作品を、記憶、生活空間、社会、地理空間において「閉じられているという意識」というテーマでまとめているものだ。開催は1998年4月8日から6月6日まで)。そして実際に作品を目にすることができた。会場である「ギャラリー日鉱」に足を踏み入れた瞬間、「Eternal
City T」(ビルとビルの谷間にあるような通路のような空間に白い都市模型を取り囲む青い服を纏った案内嬢たちが配置されている)という「やなぎみわ」氏の作品が目に飛び込んできた(大きさ:縦180cm×横360cm)。全身に鳥肌が立つような感覚を覚えた。圧倒された。「すごい。」思わず私はつぶやいた。
この「Subterranean<閉じられているという意識>」展のパンフレットにある言葉を引用させてもらうと、「無限(infinite)の広がりのなかではなく、限りある、有限のなか(in
finite)に生きているという意識。あらゆるものが無限の広がりを持っていると、あまりにも楽観的に信じ込んでいたわたしたちが、その限界、そしてその終焉に気づいたのはきわめて最近のことだといえるでしょう。」「閉じさせられているということを意識したとき、それまで不正確で、不鮮明だったものが、より明瞭な姿を見せはじめたのです。」「有限なシステムの内部、つまり閉じられたもののなかに生きているということを、わたしたちはあらためて認識してみる必要があるのかもしれません。」「加速のついた技術の進化というものを、無責任にも無限という言葉で信じ込み、それを敢えて不問に付すような姿勢で現実、そして未来を認識しようとしているのではないでしょうか。」「(限界を認識することで)ルーム、システム、定義、解釈、感覚、真理・・・・・・・。すべてがそこから生まれるのです。」強烈な言葉たちだ。
そして「やなぎみわ」氏の作品を評して「(案内嬢やエレベーターガールを配置するのは)消費文化と社会システムを反映するだけでなく、そもそもわたしたち自身がステレオタイプであることを告発しているのです。」とある。
無機質な人工的な(西洋建築に代表される)空間に無数に存在するステレオタイプたち。無限に拡大し肥大し続けていく消費志向とそれに依存し続ける社会。消費する欲望、衝動に取り憑かれたかのように、産み出し、産み出されたものを欲し、廃棄していく。次から次へと生み出されては消費されていくステレオタイプたち。画一的な枠に閉じ込めたがる社会、その中でもがく日常。代表される言葉一つだけで全てが語られてしまうような中身のない実体たち。デパートの中にあふれている人たち、電車の中にあふれている人たち、社会の中にあふれている人たち、そして我々。実はステレオタイプでしかないのではないか、と。
「やなぎみわ」氏は消費文化にどっぷりと骨の髄まで浸かりきった我々を嘲笑しながらこれらの作品を産み出しているのだろうか、それとも哀れみの気持ちで産み出しているのだろうか、苦しみながら自分自身もその呪縛から離れられないことを自覚しながら産み出しているのだろうか。実際にお会いして話したこともないので憶測でしかないのだが(「象徴」である、ような発言を前出のNHKの番組の中でしていたような記憶はあるが)、これらの気持ちが複雑に絡み合っているのではないだろうか、そんな気がする。
異様でありながら自然であまりにも排他的で我々を映す鏡。ステレオタイプという象徴の中に全てを圧縮し、強烈なパワーをもってそれを示す、表現する。それが「やなぎみわ」氏の一連の作品への私の印象である。案内嬢に社会を、人間たちを象徴させる着想を持たれたことに感服する以外にない。
細かいことを言えば、作品中の案内嬢たちはすべて別人であり(そのように私には思えた)、ポーズ、立ち方も同じようでありながら微妙に異なっている。「案内嬢の部屋1F」は2作品展示されていたが、片方では帽子の色は緑、もう片方はベージュと異なっていたりする。そして、どう考えてもデパート(らしき建物の中)に商品を買いに来る客がひとりもいない(描かれていない)のは、あまりにも無数の案内嬢たちだけが存在するのは異様以外のなにものではないし、ショーウィンドウの中に案内嬢たちだけが存在するというのは「変」だ。
私としてはやはり作品集が欲しかった(もしあったら絶対買おうと思って財布には数万円入れていた)ので、ギャラリーの受付の方に聞いてみた。現在はまだ作品集は刊行されていないようではあるが、この「Subterranean<閉じられているという意識>」展全体の小冊子としてまとめる予定であることが聞けた。何のためらいもなく私は小冊子刊行の際には希望すると告げて記帳した。実際、「やなぎみわ」氏の作品集を欲する人は多いようだ(ギャラリーの受付の方によると)。あと、1998年6月中に刊行される週刊「SPA!」の「ニュースな女たち」コーナーに紹介されるそうだ。
ただのその辺に転がっているアーティストではない、そう私は思う。最近ヨーロッパでも注目を集めているようで、アメリカでも1998年「レオポルド・ゴドゥスキーJr
カラーフォトグラフィアワード」で一席を受賞している。これから日本でもどんどんメジャーになっていくのではないかと思うし、そうあって欲しいと期待する。
(1998.5.24.)
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