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第8回  今、振り返るYellow Magic Orchestra


 Yellow Magic Orchestra(以下:YMO)とは何だったのか、YMOが残したものは何だったのか、明快な答えは多分誰もが持っていないだろう。ましてや当事者としての「下半身ムラムラ、みぞおちワクワク」という怪しげなコンセプトのもと集った細野晴臣氏、坂本龍一氏、高橋ユキヒロ氏であったとしても。音楽業界、その音楽を享受した世代にとっては「伝説」、「巨人」である。今年(1998年)は結成20周年の年である。

 今でこそテクノポップ、テクノミュージックの創始者としてKRAFTWERKと並んで紹介されることが多いが、そのテクノ、というジャンルだけにはカテゴライズできない活動を彼らは行い、周辺に影響を与えてきた。直接関係はないが、彼らの活動なくして山口百恵氏の曲にRoland MC-8が使われることもなかったであろうし、歌謡曲に楽器として(現在では当たり前の)シンセサイザーが取り入れられることもなかっただろう(そして松田聖子氏の「天国のキッス」、中森明菜氏の「禁区」もヒットすることはなかったであろう)。YMOはステージではヴィジュアルでありつづけた。1979年のワールド・アトランティック・ツアーでは怪しげなマスクをつけたり、人民服を着て演奏したりした。1981年のウィンターツアー、1983年の散開ツアーはステージセットにこだわりつづけた。スタイルこそ違うもののヴィジュアル系のバンドだったといってもよいのではないだろうか。それに、今ではいろいろな方面で活躍しているそれぞれの人間がユニットを作って音楽活動する、というのは当たり前になっているし、許容されているが、20年前はまったく前例がなかった。前例がないといえば音楽とはまるで関係ないかのようなお笑いという分野でのスネークマン・ショーの存在も忘れてはいけない(現在のトップアーティストが自分のアルバムの中にあんな毒のあるギャグを挿入するであろうか)。そんな中、映画出演や映画音楽製作、各種方面のアーティストへの楽曲の提供、ゲストミュージシャンとしての参加(矢野顕子氏の「春咲小紅」には松武秀樹氏も含むフルメンバーで参加していたと記憶している)、正式に記録として残っているものだけでも数限りない。今から思うととんでもない多忙な活動をしていたものだ(だいたいワールドツアー中に他の海外ミュージシャンとのレコーディングをする、というのも尋常じゃないと私は思う)。インストゥルメンタルなアルバムとして初のオリコンチャート1位、2度のワールドツアー敢行、これも前例がない。そしていまだに彼ら以外で2度もワールドツアーが敢行できるアーティストは日本から出てきていない("再生"時にスケジュールさえあればワールドツアーができた、というコメントが残っているのもすごすぎるが)。そしてロサンジェルスからのライブ衛星テレビ中継なんてできないだろう。

 私がはじめてYMOの曲を耳にしたのは1980年、小学校5年のときであった。ラジオからがんがんに流れてくる"TECHNOPOLIS"。それが最初だった。その曲が耳に残り、なんだろうと兄に問いかけ、「それ、今流行ってるんだよ、聴け」とカセットテープを渡された(ちょうどYMO人気爆発絶頂期である)。よって、YMOが活動していた時期に彼らの音楽を耳にしていた人間のなかでは「新参」の類の方である。そこから私はYMOに傾倒し、「人民服が欲しい」などという少年であった。YMOを聴き、YMOが関係した音楽を聴き、KRAFTWERKも聴き、はっぴいえんども聴き、JAPANも、ワルターカーロスも、冨田勲も聴いた。「音楽」というものを意識し始めた。

 私の中でYMOが占める割合(音楽のみならず生活も含めて)がほとんど(実際、当時月\1,000円のおこずかいで\2,800もしたLPレコードがそう簡単に買えるはずもない)、YMOとシンセサイザーとコンピュータに染まっていた、という時期になって1983年、突然の"散開"宣言を彼らは行う(彼ら自身の手を離れてYMOがひとり歩きしてしまっていた、というのが"散開"の理由だったような気がする。"散開"の理由には諸説あるし、彼ら自身もさまざまな理由を挙げている)。そして1984年初頭にYMOとしての後始末を終え、活動を閉じた。その後私もYMOメンバーの音楽はある程度は押さえながら、洋楽やニューエイジミュージックも聴くようになり、自分自身の音楽の幅も膨らんでいった。1990年代に入りYMOのビデオ、発掘された音源のCD化が相次ぎ、1993年突然の"再生"によりまた加速した。

 私としては1980年のロンドン、ハマースミスオデオンでのライブが一番完成度が高いと思っていて、このライブを完全復刻して欲しいのだが、当時ライブの様子を放送したNHKにマスター音源が存在するはずなのだが、完全な形では復刻されていない(1980年の記録として「YMO WORLD TOUR 1980」(Alfa Music,Inc ALCA-5065/6)が発売されているがハマースミスオデオンでの「音」は8曲だけである(保存状態が悪い、という理由らしい)。NHKは未だCD化、ビデオ化されていないかなりの数の音源、映像を所有しているはずだ。もっと出してくれないだろうか)。

 1998年7月1日、YMO結成20周年CD-ROMとして「SELFSERVICE」(Alfa Music,Inc/株式会社アスク AHR1-02497)が発売された。CD-ROM2枚組み、ボーナスCD1枚、というボリュームである。出る出ると以前から噂されていたが、お恥ずかしい話で実際の発売日がよくわからず、7月4日たまたま立ち寄った新宿紀伊国屋で見つけ、即レジへ急いだ(調べる、ということを怠っていたせいだと反省している。この点でマニア失格である)。

 「畠山桃内です」という当時のスネークマン・ショーを彷彿とさせる伊武雅刀氏のナレーションからこのCD-ROMは始まる(あぁ、髪が薄くなったなぁ、と思ってしまった。20年だよなぁ、20年)。

 まず驚かせられるのはその圧倒的な情報量である。記録、記念、というのはわかるが、正式に発表されたアルファ・レコード所属時代の(つまり"再生"YMOを含まない)全114曲が2枚組みのうちの1枚に収まっているのである。たかだか600Mbytes程度の容量しか持たないCD-ROMに、である。デジタルデータ圧縮技術の進歩を感じざるを得ない。さらに、ツアー、レコーディングの記録、当時の写真が収まって(詰まって)おり、マニアなら涙流しまくることこの上ない。擬似ミキシングが体験できたり、当時のアナログシンセサイザーの音をシミュレーションして実際に何度でも鳴らしてみることもできる(「弾く」こともある程度は可能だ)。当時アナログ盤LPレコードに針を落とすのは1回だけ(針が溝を削るから)、後はカセットテープで聞く、というスタイルを取っていた私としては、デジタル技術によって必要なときに必要なだけ手軽に再生、再現が可能(しかも劣化なしに)となった現代にある種の恐ろしさを感じる。

 今でこそアナログ盤の復活でレコードプレーヤが一般でも入手できるようになっているが、この先20年経ってCDが再生できる機材が一般に存在するであろうか。そしてこのCD-ROMが採用しているフォーマットが再生できる機材が、ソフトウェアが再生できる機材が一般に存在するだろうか。それを考えると今だからこそできるものなのかもしれない。もしかしたら数年後にはこのCD-ROMは再生できないだろうし、再生するためには新しく焼きなおしたメディアが必要になるのかもしれない(これはデジタルメディアの宿命である。現実に1981年発売の名作アルバム「BGM」のデジタルマスターテープを再生する機材は世界でも稀有である)。

 近年改めてYMO、YMO関連のアルバムをCDで買いなおして聴きなおしてみている(再販している、テープが再生できる機材が壊れた、というのも理由だが)のだが、懐かしさと共に新しさを感じる。類まれなポップセンス、アレンジセンス、センス(感覚)という非常に定義しがたい曖昧なものではあるが、それがなぜか新しさを感じる。YMOは過去の封印されたものではなく、依然新しさを保ったままの「今」のものなのだ。自分たちの技術と機材の技術を融合させてテクノロジーの上を行くサウンドを作り出していた彼らと、テクノロジーの集合体である機材に囲まれて逆に機材に使われている今の音楽には差があるのだと私は思っている(逆にいうと当時は「プロ」と「アマ」に大きな差があったが、現代ではそれなりの機材さえあればその差はほとんどない。差があるのはアイディア、コンセプトのみであろう。差がなくなったこと、安価になったこと、それがデジタル技術のもたらした恩恵である)。実際彼らが活動している最中にも技術は進歩し、初期のころは収納するのに「部屋」が必要なMoogシンセサイザー(アナログ)を駆使し、後期になればデジタルサンプリングシンセサイザーを駆使した(録音技術も進歩を遂げ、初期のころには存在すらしなかった今では当たり前のデジタルマルチトラックレコーダーを中、後期のころは使用している)。それとともに「音」も変わっていった。

 余談であるが、最初CD-ROM中のカルトクイズが全問正解できなくて悔しくて兄に電話すると「お前、甘いな」と鼻で笑われた。悔しい、悔しすぎる(この点でもマニア失格である)。

 さらに余談であるが、レアものコレクションとして紹介されているものの中に私(と兄)が所有しているものが2点含まれていた。ちょっとうれしかった。

 今でも彼ら3人は音楽プロデューサー、作曲家として活躍中である。ある意味YMOは実験的な存在であった。彼らはYMOとしての活動の最中にもソロ活動も行っていたが、ソロは実験、YMOはそれを実現するもの、と彼らは言っていたような記憶がある。しかし、やはりYMO自体が、存在自体が実験だったと思う。細野晴臣氏と坂本龍一氏だけでは本当に「実験的」な存在だけで終わっていたと思うし、細野晴臣氏と高橋ユキヒロ氏だけでは理論と技術が足りない、感覚的なものだけで終わっていたと思うし、坂本龍一氏と高橋ユキヒロ氏だけではコンセプトがまとまらないで終わっていたと思う。やっぱり3人が集まって3人だったからこそ成功した、伝説となったに違いない。私はそう確信している。

 CD-ROM「SELFSERVICE」に収まっているインタビューの答えとして坂本龍一氏の夫人であり、ツアーメンバーであった矢野顕子氏の「YMOに一言」の問いに「楽しかった」というのが非常に印象的であった("再生"の際の「私は反対でした」というコメントしたことに私はニヤニヤしてしまったが)。

 過去であり依然今であり続けるYMO。今後も私は聴き続けるだろうし、まったく新しい世代がYMOを聴くだろう。また"再生"として再結成して欲しい気もあるし、して欲しくない気もある。そして今日もまた、車のCDチェンジャーにはYMOのCDが入っている。

(1998. 7.12.)

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<追補>

 1998年11月18日(木)午前4時17分、YMOの初期から中期にかけてのサポートメンバーであり、1980年の「テクノポリス2000-20」ツアー、同じく1980年の「FROM TOKIO TO TOKYO」ワールドツアーでギターセクションを担当したギタリストの大村憲司氏が心不全のため東京都武蔵野市内の病院でこの世を去った(享年49歳)。"シティ派"としてメロディアスなギターは、過去の音源からしか聞くことができなくなった。語り継ぐ人が世を去ってから歴史は歴史として固着する。

 このコラムで取り上げたCD-ROM「SELFSERVICE」に大村憲司氏はこう寄せている。「(YMOが)僕にとって『変化の時期』だったともいえるでしょう」。この言葉をかみ締め、彼の奏でたフレーズを脳に刻みながら、冥福を祈ります。

(1998.11.20.)


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