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第10回  書評「知の論理」


「知の論理」(東京大学出版会)
小林 康夫/船曳 建夫編 \1,500(+消費税) ISBN 4-13-003306-9

 この「知の論理」は「知の三部作」と呼ばれているうちの真ん中の一冊である。最初の一冊「知の技法」について、なぜ本書に私が巡り合うことができたかは当コラム「午前3時の天気予報」第9回に書評を書かせてもらっているのでそれを参照していただきたい。そして改めて巡り合った偶然に感謝したい。

 「知の技法」に続いてこの「知の論理」も非常に面白い。「知の技法」ではさまざまなジャンルのものを取り揃えて「知の言語の在り方を、専門知識の一方向伝達というモデルから出発して考えるのではなく、行為する知というモデルから出発して考えること」(『知の論理』「はじめに」より)を我々読者に伝えようとしていたのに対し、この「知の論理」では論理学や哲学の方に大きく傾いていると思う。20世紀の論理学者、哲学者がどのようにもがきながら、苦悶しながら論理を発明してきたのか、生み出してきたのか、発見してきたのかの足跡を綴っている。

 本書では「論理の発明」、「限界の論理・論理の限界」、「多元的論理に向かって」、「歴史の中の論理」、「論理のプラクシス」という章の構成において、20世紀の知のダイナミズムを、ダイナミックな現場を巡ることができるように構成されている。とにかく、「次はどうなってるんだろう」、「次はどんな論理が展開されるんだろう」と次へ次へと読みたくなっていく。

 「知の技法」では「次の1歩へ!」という一文が各節についていたが、この「知の論理」では「20世紀のこの1冊!」ということでやはり各節に必ず一文ついている。本書中の「この1冊!」を全て読んでいたらとても人間の一生なんて過ぎてしまいそうであるが、機会を見て何冊か読み進んでいきたいと考えている。

 私の以前より持っていた漠然とした疑問の中に「意味とは何か」というものがあった。それについて、本書ではこのように書かれている。「文の意味は実現した個々の記号(=形態素)の意味作用のたんなる総和としてではなく、現働化した一連の記号の相互関連のかたちと不可分な意味、すなわち、その文に固有な《意味=形式》の出来事として生起することになる。記号の布置(configuration)という新たな次元があらわれ意味の意味に行き当たる」(本書より、一部略)。意味が生み出される時は言語記号が結び付けられ「文」となった時なのだ。意味だけがそこに存在するのではなく、文だけがそこに存在するのでもない。言語記号から生起する別な次元のもの、それが意味なのだ。漠然とした疑問があったがゆえに、自分自身意味をわざと排除してみたり、意味だけを追ってみたりした文を書いてきた、実験してきたわけであるが、なんとなく意味という得体の知れないものが段々見えてきたような気がする。わかったような気がしてくる。それを教えてくれた「構造とリズム」の節の著者石田英敬氏に感謝したい。

 漠然とした「知」に対する興味を持ち続けて追い求めていても、論理を組み立てていても、疑問はあるところまでは解けていくのだが、その先にはもっと届かないところに自分自身の知り得ないところにまだ先に「知」が存在して疑問を解くことができないことを再認識させられた。

 「記号」、「意味」、「システム」、「形式」、「価値」、「差異」、「型」等々のキーワードに代表される20世紀の知の問題。それらは常に発明することで発見され、作ることによって知ることとなってきた。自分自身にこの発明することで発見される、という感覚はもともと持っていなかったため、本書でも「コペルニクス的転回」としてあるが、まさにその通りである。

 私の大学時代の専攻は「情報科学」であったが、教養科目として履修した論理学や哲学の講義がやけに面白かったのを思い出してしまった。確かにあの頃はただ単に「単位のため」で履修していたわけであるが、今こんなに「知の三部作」にとりつかれるくらいだったら、あの頃もっと深く踏み込んでいれば、と多少悔やんでいる。

 「言葉」とか「論理」とか普段何も感じずに使っているが、そこに問題意識をもって考えてみるとこんなにも奥が深いのか、たくさんの人がその問題の渦の中に飲み込まれてきたのか、そしていかにいざその問題について立ち向かった時に自分自身が力不足であるのか、感じずにいられない。これほどまでに難しいことであったのか、と。でも実生活上はやはり何も考えず「言葉」を使ってこの文を残し、「言葉」を使って人と話す。

 こう考えていくと、L.ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』から引用されている「どんな事実も確かとみなさない者にとっては、自分の用いる言葉の意味もまた確かではありえない」この言葉が響く。

 本書は最後に「論文をどう書くか」という点において論理の技法を紹介している。本書が教養課程のサブテキストであるので、対象は大学の卒業論文であるが、「知の技法」で示された作法からより具体的に示されている。どんな仕事であれ、ドキュメンテーションという工程は必ず存在すると思う。その際にこの節は参考になると思う。是非一読をお勧めしたい。正直に実際今自分の仕事を振り返ってみると、このドキュメンテーションの問題を実感している内省もある。

 この「論文」を磨くことについてコンピュータ・ネットワークが大きく貢献し、多くの研究者や学生が利用しているとある。自分自身もこうしてこのコンピュータ・ネットワークの基盤、文化を享受している生活を送っているし、このコンピュータ・ネットワークから今後もたくさんのものが生み出されていくという夢を持ち続けていたい。内にこもらず、自分を開示し、他者との交流を通じて自分自身も、まわりも大きくいえば世界も、成長していくのであろう。

 「論理群はあっても大理論はない」、「論理の共和制、大理論の空位」、「論理を結んでモラルへ開く」と本書は結んでいる。そして、私は次の巻である「知のモラル」を読まなければならない。

(1998. 8. 8.)

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