brain_title.gif (13527 バイト)

 

真夜中の脳みそ

詩集「半熟卵」(Update:2001. 9.16.)

コラム「午前3時の天気予報」(Update:2004. 8.21.)

AIBO日記(Update:2003.11. 3.)

アルバム(Update:2003.1.31.)

「紺野」とは?(Update:2004. 8.21.)

Links(Update:2002.10.20.)

更新ログ(Update:2004. 8.21.)

Mail Me !


第11回  書評「知のモラル」


「知のモラル」(東京大学出版会)
小林 康夫/船曳 建夫編 \1,500(+消費税) ISBN 4-13-003307-7

 この「知のモラル」はいわゆる「知の三部作」の3冊めであり完結編ともいうべきものである。この「知の三部作」の「知の技法」、「知の論理」に関しても同じくこの「午前3時の天気予報」で書評を書かせてもらっているので、そちらについては第9回第10回を参照していただきたい。

 この「知のモラル」は前作までの「学問というものを、単に専門的な知識の集大成として考えるのではなく、なによりも行為、しかも一定の理念と、それから派生する技法と論理とによってコントロールされた言語の行為として考える」(本書より)から発展してモラルという観点から「知」を、学問を、「知」から発生する責任を考える鍵となるように編集されている。

 正直言って通しでこの三部作を読んだわけだが、多少疲れてきた。面白さについては変わりがないのだが、読み進むことにおいて自分自身がある意味追いついていっていないことへの疲れ、である。自分自身の力不足を悔やまざるを得ない。

 モラルとは何か。道徳と日本語でいっても多少ニュアンスが異なってくるのではないかと思う。「よりよく生きること」一言で言ってしまえばこうなるのではないかと思うし、本書でもそう記してあるが、この「よりよく生きること」は知識の積み重ねであり、人間どうしの相互理解、人間を取り巻く環境、他の生物達との共存等それらの実現に関してのある種の方法ではないのか、と私は思う。そのモラルについて本書は序文ともいうべき第T部「知のモラルを問うために」にこう書いている。「行為としての知の責任は、なによりも他者がよりよく生きることに対して向けなければならない。他者とは生です。その生がよりよく生きるためにこそ、知は貢献しなければならない。」

 それを考えると、本書はかなりストーリー性を帯びていると思う。序文としての第T部は「知のモラルを問うために」とあり、人間の営みが人権や国際関係、異文化、歴史といった「地面」に立っているものであり、その「モラルの地平」を第U部で示し、モラルが問われる、現れる「いま、ここ」を示すために「モラルの現場」を第V部で示し、第W部では「人間の場所」を論じている。そしてそれぞれの「いま」を考え、第X部「モラルの希望」へと続いていく。モラルの彼方には「希望」がある。モラルが人間の自分自身たちの力からの応答であるのなら。

 「知の技法」では「次の1歩へ!」という一文が、「知の論理」では「20世紀のこの1冊!」という一文が、そしてこの「知のモラル」についても「21世紀のモラルの鍵は?」ということで各節に1文ついている。現実味を実感せざるを得ない21世紀を迎えるにあたって、何が鍵になるのか、モラルを考えていく上で何が必要なのかが書かれている。その中で「われわれは多くの信条を日本国内に限定して語り、行動してきました。〜略〜21世紀は現代以上にボーダーレス化して主権国家の壁は低くなります。〜略〜信条を一貫させることは、そのための犠牲を覚悟することです。」(第U部「モラルの地平」国際法「国際法と公正」小寺 彰氏著より)や、「学問を不正確にポピュライズする人たちのモラルも問題ですが、第二次、第三次資料だけに頼って、原典にあたらずに論評を行う態度もモラルに反していると思います。科学というものは、非常に裾野の広い積み重ねの上に成り立っているもので、その最上段の部分を、下の段を抜きにして説明するというのは、不可能に近い至難の技です。」(第W部「人間の場所」遺伝子「種と個のあいだ」長谷川 眞理子氏著より)、「人権の境界は常に揺らいでいます。未成年者、胎児、精神遅滞者、痴呆老人、植物人間の権利に関する議論は尽くされたわけではありません。人権(よりよく生きるための権利)のあいまいな最前線にほとんど接する場所で生きている者たちがチンパンジーをはじめとする動物たちだと思います。」(第W部「人間の場所」生物としてのヒト「『奇妙なサル』に見る互恵性」長谷川 寿一氏著より)は常日頃自分が考えていることでもあって、非常に印象深い。

 「知の三部作」に共通することであるが、とにかく内容が広範囲であり、深い。それだけ現代人は過去の人間の営みが蓄積してきたもの(歴史や文化や知識等々)の上に立っている、多くの問題に隣接している、ということであると思うし、その「よりよく生きる」ために「知」は要求され、そして責任があるのだと思う。「知」は時には神話を壊し、「真理」を壊し、権力も壊していく。しかし「知」は、相互理解の出発点であり、社会を形成する出発点であり、人間の探求心の源であり、希望であると思う。そして「知」を伝達していく「教育」を、「教育」の場を考え直す機会を与えていると思う。そう考えてみるとこの「知の三部作」は現代人にとって必読であると思う。「大学」という場だけで読まれる、考えることではなく、全ての現代に生きる自分自身たちにとって。「教養」としてこの三部作に書かれていることを理解していれば、政治的プロパガンダに躍らされることもないし、必要もない恐怖心を煽りたてるカルトな宗教に騙されることもないし、真偽を問わず情報を垂れ流すマスコミに惑わされることもないし、文化と文化の交錯するグローバル化においても迷うこともないだろう。

 「知」は知ることであり、既に知られていることを手がかりとして新たに見出して知ることである。それはモラルと密接に関係がある。そう痛感した。だからこそこの「知のモラル」が「知の三部作」の完結編であり、希望なのだ。本書は言う。「モラルの問題にプロはいない」と。つまりこの世界上に生きている人間全てがモラルを考える、感じるべきであり、生き方の根幹に関わるモラルというものにアマチュアもプロフェッショナルも存在しないのだ、と。教養課程の演習のサブテキストという立場から離れてより一般的な書物としてこの「知のモラル」はあるのではないかと思う。そうすると自分自身は順番、ということで「知の技法」から読んできたわけだが、この「知のモラル」を出発点として「知の技法」、「知の論理」を読んでもいいのではないかと思う。

 改めて「知の三部作」に巡り合った偶然に、そして書かれてある内容に、各節を記した著者たちに感謝をしたい。

 そして、モラルが問う、示す希望をもって、自分自身の言葉を考えながら、「知の技法」のバージョンアップ版とも言うべき「続・知の技法」を私は読まなければならない。

(1998. 8.23.)

003.gif (53518 バイト)


PrevWB01343_.gif (599 バイト)   WB01345_.gif (616 バイト)Next