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第12回  書評「続・知の技法」


「続・知の技法」(東京大学出版会)
小林 康夫/船曳 建夫編 \1,600(+消費税) ISBN 4-13-003312-3

 この「続・知の技法」はいわゆる「知の三部作」の続編であり初巻の「知の技法」のバージョンアップ版ともいうべきものである(「知の技法」発行から4年が経過し、内容がいささか古くなったということで新たに編集した、ということである)。この「知の三部作」の「知の技法」、「知の論理」、「知のモラル」に関しても同じくこの「午前3時の天気予報」で書評を書かせてもらっているので、そちらについては第9回第10回第11回を参照してください。

 「知の技法」では「次の1歩へ!」という一文が、「知の論理」では「20世紀のこの1冊!」という一文が、「知のモラル」では「21世紀のモラルの鍵は?」と同じように各節には「知の未来ここに!」というタイトルで一文書かれている。しかし、何が未来に存在するのか、それを考えるのはやはり読者であろう。そうでなければこの一文の存在する意味はないと思う。いや、この「知の三部作」+1(知のシリーズ)を読んでしまった者の責任として未来を考えねばならないのではないだろうか。

 「知の三部作」が(自分の感覚では)「知」とはなんぞや、どのように生まれてきたもの(「発明」されてきたもの)なのか、どのように扱っていくべきものなのか、というのに重点が置かれていたものに対し、この「続・知の技法」では「知」が存在する土壌について述べられているのではないかと思う。なぜなら本書は「日本」、「言語」、「身体」という3つの軸から構成されており、それぞれについていろいろな論が展開されている。

 特に第T部「知のポリティクス」、第U部「いま、日本を問う」に書かれていることは非常に「過激」であると私は思う。引用させてもらえれば、「(1998年の日本社会は)古い諸制度がほとんど構造的な疲労とも言うべき要因によって次々と自己崩壊していくのを目の当たりにし、新しい現実と旧来の政治原理のあいだにいかんともし難いズレが拡がっていくのを日々観察させられていながら、しかしほんとうに新しい政治のヴィジョンはどこにも見えてこないという閉塞間を誰もが鋭く感覚しているからです」(「知のポリティクス」創造的批判とその責任 小林康夫著より)や「『日本人』であることはあくまでも後天的に意識され、自覚されるものでしかありえません。人は『日本人』なるものを学習することで獲得し、自覚するのだと言えるでしょう」(「『日本人』とは誰のことか」『ある』から『なる』へ 李孝徳著より)という文を読むと私は鳥肌が立ってくる。

 「知の三部作」同様書かれている内容は多岐(政治、教育、数学、情報、スポーツ、呪術まで)にわたっており、どこから読みはじめてもいいように編集されている。しかもどれも面白い。どんどん次を読みたくなってしまう。大学在学中に読むもよし、こうやって大学を卒業して年数が経ってしまった自分自身にとっても非常に有意義であったし、楽しかった。実際、「大学は世界と同じ広さをもつネットワークです。出たのちにまた入ってこれるところなのです。実際に、再び大学生になることから、大学の講演などの催しに参加すること、または大学での学びの延長として、書籍などをふくめたさまざまなメディアを通して自習することまで含めて、誰でも大学に『入る』ことはありえます」(「大学で学ぶということ」船曳建夫著より)ということが書いてあると自分自身がその「場」にいるような気がしてくる。体感できる喜びがある。

 書籍は書店にいくらでも並んでいるし、図書館は自由に利用できるし、なによりも今現代はインターネットという世界中を繋いだネットワークの中にありとあらゆる情報が散在している。その中には大学での学びの延長のものが数多くある。あとはそれに触れるか触れないかだけだ。利用できるものは利用する、このスタンスで自分は生きていきたいと思っている。

 しかし考えてみるとこうやって自分自身は約2ヶ月にわたって「知の三部作」+1(知のシリーズ)を読んできて、ここの書評のようなものを書かせてもらっているわけだが、実は全く「知」的なことをしているのではない、ということに気がつく。「知は表現である」「経験的な一人称単数『私』から形式的な一人称複数形『われわれ』への移行こそ知の表現を可能にするもの」(ともに「知の表現と創造」小林康夫著より)ということをしてこなかったためだ。

 自分自身で書いてきたことはすべて一人称単数である「私」であって「われわれ」ではなかった、そういった表現を用いてこなかった、つまりそれは「私」の行為は「知」的ではなかったのだ、という自分自身を否定するところに落ち着いてしまう。今となっては悔いることしかできないが。

 しかし、やはりこの「知の三部作」+1(知のシリーズ)はそれぞれが出発点であり、ここから自分自身が「私」から「われわれ」へと進歩していく、進化していくやっとその鍵を持ち得た、ということなのであろう。そう思いたい。未来を考えるためには、捉えるためには根本的なところにたちかえり、考え直す必要がある。「『知る』ことの謎がもっと意識化されるべきだ。誰が、いつ、どこで、どのようにして知るのか、という問題を多面的に捉える試みがなされるべきであろう」(「ハイデガーにおける論理の身体」 あるいは『女と論理』北川東子著より)については非常に共感を覚える。まさに、その通り、ではないだろうか。

 改めて「知の三部作」+1(知のシリーズ)に巡り合った偶然に、そして書かれてある内容に、各節を記した著者たちに感謝をしたい。そして自分自身には何ができるのか、何が残せるのか模索したい。この「知の三部作」+1(知のシリーズ)を読んだことが自分自身にとってなんだったのかを言えるのは、残せるのはその後になるのだろう。

(1998. 9. 6.)

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