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第18回  制度としての日本の臓器提供と自分


 臓器提供の話しをする前に、まずは「脳死は人の死か」ということを考えねばならない。しかし、ここでその議論をするつもりはない。ここで取り上げる脳死と臓器移植法については医療面、科学的面から捕らえた団藤保晴氏のコラム「臓器移植法と脳死・移植の行方」にあるので、そちらを参照して欲しい。

 私は「脳死は人の死」と考える。「肉体は脳の入れ物」という脳信仰(ほとんどの場合大脳を指す)といもいうべき考えを私は持っているので、個人としてのアイデンティティは脳が作り出すものだから、その脳が「死」を迎えたのだから、やはりその人は「死んだ」と考えるべきという立場を私は取る。ただし、脳死とは「脳機能停止」を指すわけで、呼吸などを調節している脳幹といわれる部分も含めて脳全体の機能が停止し、もとには戻らない状態のことを指すが、心臓が停止したわけではない。感情論としてでも、医学的でも生命活動の証しである心臓の停止は明確な人の死を指すが、脳死については賛否両論となっているのが現在の状況である。

 私が「脳死は人の死」と考えるからと言ってそれをこのコラムを呼んでくださっている方々に強要するつもりはない。しかし、「死」というものに対して個人個人が明確な考えを持つべきと思う。よって、それぞれの考えで「脳死は人の死」と主張しても構わないし、「脳死は人の死ではない」と主張しても構わない。それを蛇足までに付け加えておく。

 1997年10月16日、臓器提供法が施行された(ただし、「脳死」→「移植」というのはいささか短絡的と思わざるを得ない。脳死の判定はあくまでも診療行為の一環であって、それが移植と直結しているわけではない。この辺のところを議論して決められた法案でないことは否めないであろう)。この臓器移植法によれば、以下の条件を満たす脳死状態の人からの臓器の移植が可能となる。

  1. 書面による本人の意思表示がある
  2. 臓器の状態が良好である
  3. 移植手術を行える医療機関が指定されたもののみ
  4. 家族の承認がある
  5. 提供者、提供を受ける側ともに15歳以上である

 実は法律が施行されてから一年が経つが実はいまだに臓器提供の意思を示す「臓器提供意思カード」を所持していながら提供された例が存在しない、という現実がある(1998年10月12日放送NHKクローズアップ現代より)。この臓器提供の意思表示となる「臓器提供意思カード」は、昨年(1997年)2,500万枚発行された。1997年の脳死患者は120人を超えたが、そのうちこの「臓器提供意思カード」を所持していたのは38人。しかし、一例も移植手術は行われていない。

 理由は、脳死患者の搬入先が指定医療機関ではなかった、「臓器提供意思カード」を患者が所持していることを家族が知らなかった、家族が拒んだ、患者が癌に侵されていた(転移の可能性があるため)、感染症を患っていた可能性があった、等々さまざまだ。

 現代の医学では移植しか治療法がない人たちがたくさんいる。それは先天性のものであることが多い。よって、臓器移植法の対象となる15歳以上という条件に当てはまらず、比較的条件の緩い海外での移植手術に踏み切らざるを得ない場合も多い(これには一千万円単位の資金が必要だ)。また、日本では「脳死は人の死と認めない」と考える人も多数いるため、脳死段階での移植に抵抗が大きいのも事実である。よって、1998年10月28日(水)岡山大学で行われた生体肺移植のように「生きている」人から患者への提供手術が現在の日本の移植医療の主流だ(生体臓器移植は、提供者にかなりの負担がかかる。上記の生体肺移植の場合、患者ひとりに対して2人の(肉親の)提供者が必要であったし、その双方の提供者の肺機能は3分の2程度に落ちてしまう。生体肝移植に関しては、提供者の肝機能回復までに数年を要する)。それゆえ、臓器提供意思確認のための条件は他の国に比べて日本は格段に厳しい。どちらにせよ、臓器移植は不治の病の「最期の手段」という考え方は拭えない。

 しかしながら、欠陥のある法律であろうが、議論の余地が多分に残る法律であろうが、わらにでもすがりたいであろう難病に立ち向かう人たちに対して道はひとつ切り開かれたことには変わりはない。

 私は「脳死は人の死」という立場を取っているため、「臓器提供意思カード」が配布開始された際に入手しようと思ったが、配布もとが自治体等に限られていたため、平日仕事がある身ではなかなか実現しなかった。そんな中、この「臓器提供意思カード」は形式さえ合っていれば、イメージデータのプリントアウトしたものでも自筆の署名があれば有効であることが確認された。そこで、1998年10月19日、岩手県(偶然にも私の故郷でもある)が運営しているサイト(http://www.pref.iwate.jp)から意思カードイメージを取得できるようになった。記入例や、記入に際しての注意事項、FAQ等きちんとまとめてある。

 私は自分の臓器(使用できるものは全て)を提供する意思がある。仮に私が脳死状態に陥ったとして、脳機能が停止しているのだから私、という個人を主張するものは何も存在しない。故に私は私でなくなっている状態と言えよう。そうであれば、その脳の入れ物に過ぎない肉体、臓器は私のものではなくなってしまう。その状態では私はその臓器を満足に使うことができないのだから、私の臓器で病気が治る人がいるのであれば、瀕死の状態から回復することができるのであれば、必要としている人がいるのであれば、社会的に貢献することが可能であれば、惜しむことなく私は自分の臓器を提供したい(これはあくまでも私個人の考え方であるため、全ての人がこう考えるべきとは思わないし、「脳死は人の死か」はこれからも議論していく必要があるだろう)。

 私はためらいもなく臓器提供意思カードのプリントアウトに、全臓器の提供にマークし、サインをした。

(1998.11. 1.)

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今回参考にさせていただいたWebPage

  • 岩手県 http://www.pref.iwate.jp
  • 三重大学医学部 http://www.medic.mie-u.ac.jp/Welcome-J.html
  • NHKクローズアップ現代の感想を綴る近藤駿至氏のページ http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4176/mokuji.htm
  • 団藤保晴氏のコラム「インターネットで読み解く!」 http://www.alles.or.jp/~dando/

あとがき

 1999年2月28日(日)、臓器提供法が施行されてからはじめて脳死患者からの臓器移植が行われた。脳死判定の難しさ、レシピエントの選定の問題、報道のあり方とドナーの家族のプライバシーの問題を改めて世に問うファーストケースとなった。今後ある程度の試行錯誤はあるだろうが、日本の移植医療は新しい時代へ進み始めたことは確かだ。

(1999. 2.28.)


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