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第20回 「平等」という名の不平等
私は、人間は誰しもが平等であるべきと考える。人間だけではなく、この地球上に生きるものたち全て平等であるべきと考える。しかし、自分の身の回りに存在する事象は誤った「平等」感による不平等が蔓延していると考える。
ここでいう平等とは。自分の手元にある角川新国語辞典によると「すべてみな差別がなく等しいこと」とある。ここから派生した誤った「平等」とは「何でもかんでも全てが均一、同じでなければならない」という解釈のことを指す。この誤った解釈は主に学校で子供たちに植え付けられるため、この誤った「平等」と平等とのギャップの発端は日本の教育、教育制度が深く関わっていると考える。それと日本人の根底に存在する「村社会」(閉鎖的な、社会として成熟されていない状態)も深く関わっていると言えるだろう。
私は両親が共に教職者、という環境で生まれ育った。そのような環境であったため、社会人として独立している現在でも教育に対して高い関心を抱いている。しかし、学校は北朝鮮と同様、「外」の情報がなかなか入らないので、嘆かわしいことであるが一般社会の常識はまったく通用しない。グローバル化の流れから最も取り残されているのは子供たちを育てる環境であるべき学校であると言えよう(本来ならば「外」のことを積極的に子供たちに教えるべき存在であるにも関わらず、である)。
学校というある種の閉ざされた「村社会」を子供たちに半強制的に押し付けているがために、押し付けられる側のストレスが「多動性症候群(ADHD)」といった精神的症状として現れてくるものであったり、「学級崩壊」という教師の言うことを全く聞かなくなる事態もあちこちで見られる。子供たちにとっては学校が社会のほとんどであるがために学校が「村」であり、全てにならざるを得ない(そうやってますます閉ざされていく)。これが教育の機会を「平等」とすべく存在する(公立)学校なのだ。
以下に挙げる動機が希薄な少年/少女の非行も誤った「平等」感の歪みが引き起こしたものだとは言えないだろうか。
- 1997年3月〜5月、神戸市須磨区の連続小学生殺人事件(動機はわからない)
- 1998年2月2日、東京都江東区の中学3年生の警察官襲撃事件(発作的な拳銃欲しさ)
- 1998年8月26日、東京都港区「偽やせ薬事件」(いじめの報復ともみられる)
- 1998年12月7日、大阪市城東区の中3男子による中2女子傷害事件(受験のストレスでいらいらして)
等々。一連のバタフライナイフを使った傷害事件で、ナイフを手にすることで「自分が強くなった」と感じてしまう心理もこの誤った「平等」感の歪みかもしれない。
現在の(公立の)教師は、受験教育に象徴される成績評価を「平等」に反することと考えているようだ(誤った「平等」感による「同じ」という状態でなければ即、いじめへつながる)。運動会では、順位をつけるような徒競走やリレーは行わない(行ったとしてもできるだけ同じ能力の組みを作って順位差が発生しないようにする)、クラスでは勉強のできる生徒が手を挙げても指名しない。
これでは真面目な生徒は、成績をあげようという意欲を失ってしまう。これは大きな損失であると言わざるを得ない。こういった過度の「平等」主義が、やる気を失わせるというのは、すでに共産圏でさんざん見られた失敗である(それゆえソビエト社会主義共和国連邦という国は崩壊したのだ)。日本ではそれが教育界で行われているといえよう(ただ、共産圏の国々では国威発揚のために徹底したエリート教育も行っていた。このこと自体、共産主義に反しているとは思うのだが)。
私の通った公立小学校でもここまでひどくないにしても(時間的にも約20年前であり、地方の公立小学校であったのだが)、「勉強のできる生徒が手を挙げても指名しない」ということは頻繁にあった。抜きん出ているとまではいかなかったが、そのクラスでは私はわりと勉強ができる方だった。最初は積極的に挙手していたのだが指名されることが皆無であったため、だんだん自分が挙手しても無駄だと思うようになり、授業そっちのけで内職(他の教科の宿題等をやること)をするようになっていた。当然授業が面白いわけでもなく、学校自体がつまらないものになっていった。授業参観においても私は授業そっちのけだったので、後から参観に来ていた母親になぜ手を挙げないのか、積極的に授業に参加しないのか、と正された際に「手を挙げても僕には答えさせてくれないから」と言った覚えがある(公立小学校の教諭だった母にとっては驚きであったらしい)。少なくとも私にとっては不平等な授業だった。
こういった生徒の無気力化は「内申書」という生徒にとっては印籠にも値すべき恐怖となってふりかかってくることにも関連していると言えよう。何か目立つようなことでもすれば、何か突出するようなことでもあれば「内申書」に悪く書かれるかもしれない、と。そうしてある意味教師の絶対権力が生まれている。できるだけ目立たないように、突出することがないように、誤った「平等」でいようとしている(「内申書」以外でも目立ったり、突出すれば即、恐喝やいじめが待っている)。それゆえ無気力と恐喝、いじめの中に放置されている子供達への平和、平等はないと言っても過言ではないだろう。これが「平等」教育の実態なのだ。
個人個人様々な何らかの能力差があって当然であると思うし、その能力差、個人差を互いに認めあってこそ社会として成り立つと思う。認めあってこそ社会が成熟へ向かっていくと思う。その互いに認めあい、理解しあい、互いにそれぞれ固有な人格を持つことを認識することが真の平等であり、成熟した社会であると考える。
早急に教育の現場に意識改革が必要であろう。また今までの誤った「平等」感は日本的企業の根底にも存在した。グローバル化がさけばれる今日では企業の方は変革しつつあるが。そして自分たちも平等の意味をかみしめなければならないと思う。
(1998.12.13.)
- 多動性症候群(ADHD:Attention Defect Hyperactive Disorder) 注意欠陥・多動性障碍とも呼ばれる。じっとしていられない、注意力が持続しない、急に奇異な行動を取る等の症状がある。実際にその様に行動すればよいのかはわかっているが、衝動性が高いため、その場では不適切となる行動をとることが多い。
- 学級崩壊 教室で児童、生徒が教員の言うことを聞かず、授業中に勝手に歩き回ったり、授業に関係ないお喋りをしたりして、授業が成立しないこと。
今回参考にさせていただいたサイト
- 「Japan on the Globe」(国際派日本人養成講座) http://come.to/jog
- 「朝日新聞」 http://www.asahi.com/
- 「毎日新聞」 http://www.mainichi.co.jp/
- 「Yahoo!ニュース」 http://news.yahoo.co.jp/headlines/
- 「筑波大学心身障害学系前川久男研究室」 http://www.human.tsukuba.ac.jp/lab/mhlab/
- 「ディリー・こねっと中学生新聞」 http://www.jeims.co.jp/daily/tyu/
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