brain_title.gif (13527 バイト)

 

真夜中の脳みそ

詩集「半熟卵」(Update:2001. 9.16.)

コラム「午前3時の天気予報」(Update:2004. 8.21.)

AIBO日記(Update:2003.11. 3.)

アルバム(Update:2003.1.31.)

「紺野」とは?(Update:2004. 8.21.)

Links(Update:2002.10.20.)

更新ログ(Update:2004. 8.21.)

Mail Me !


第25回 考察:「やなぎみわ」氏について再び


 CGによる独特な合成写真の作品を発表し続ける気鋭のアーティスト、「やなぎみわ」氏についてはこのコラムの第4回で少し述べているので、その後のことについて再び書かせていただく。

 第4回で予約した「Subterranean<閉じられているという意識>」展全体の小冊子は待ちに待った1998年8月末になって届いたが、「Subterranean<閉じられているという意識>」展全体の小冊子ということもあって、「やなぎみわ」氏の取り扱いはわずか4ページで、あまり大きくなかったのが残念である。新作である「Eternal City」のTとU、「案内嬢の部屋 3F」の1998年に発表された3作品だけが取り上げられていた。私としては1997年の発表作品であっても「Subterranean<閉じられているという意識>」展には「案内嬢の部屋 1F」が展示されていたのでこれも収録してもらいたかったのだが、期待が大きかっただけに残念である。

 1998年6月17号の扶桑社発行の週刊SPA!の「ニュースな女たち」というグラビアで「Subterranean<閉じられているという意識>」展に出品しているという紹介で載っていた。文章を書いている中森明夫氏にとっても「やなぎみわ」氏の作品については消化不良だったような印象を感じた。文章も全然面白くない。まぁ、SPA!という雑誌自体が美術雑誌ではない(ただの週刊誌)ので、深く書けない事情もあったのだろう。

 その後、アメリカの服飾ブランド「Max Mara」の1998年秋冬コレクションのプロモーションアートを担当し、「パラダイス・トレスパッサー」T、Uを発表、1998年10月15日〜11月23日まで目黒区美術館において開催された「日韓現代美術展 Between the Unknown Straits 自己と他者の間」にてその作品が展示されていた。惜しむべきことに、この「日韓現代美術展 Between the Unknown Straits 自己と他者の間」の図録では「パラダイス・トレスパッサー」のT以外はすべてモノクロで収録されていた(「案内嬢の部屋」シリーズも何点か展示されていたのに。ただ、正面階段を登ったところの明るい開けた空間にバーンと「パラダイス・トレスパッサー」T、そしてその床面に対比する様に「パラダイス・トレスパッサー」Uが飾られていたのには全身が総毛立った)。それだけに、「やなぎみわ」氏のカラーでの画集が欲しい、という気持ちがますます強くなった。ただ特筆すべき点としては、この図録の「やなぎみわ」氏の紹介文に「(『やなぎみわ』氏が示しているのは)我々がその中で生きている『風景』だけではない。制服の案内嬢はこの風景を際立たせるためのものにすぎながら、表情を持たず、お互いに無関心−そのようにしか存在できないのは、この我々自身にほかならないだろう。その姿はどこか人間離れしていて、異様なのである。」とあり、ステレオタイプと化した我々自身がそこに映っている、と「やなぎみわ」氏に告発されているのではないかという私の感じたことがやはり示されているということだ。私の感覚が間違っていなかったことを確信し、「やなぎみわ」氏が注目され始めてきていることを感じた。

 そして1999年、「案内嬢の部屋 B4」(200×204cmという大作)でVOCA賞(The Vision of Contemporary Art:ヴォーカ)を受賞した。わりと早いうちから海外での評価が高かっただけに、やっと日本でも評価されだしてきたのか、という気持ちになった。このVOCA賞は、日本全国の30人あまりの美術館学芸員や美術ジャーナリストが推薦委員となって、それぞれひとりずつ40歳以下の若手作家を選んで出品し、4人のレギュラー選考委員と1人のゲスト選考委員がVOCA賞と奨励賞を決める、というものだ。当然VOCA賞受賞作品である「案内嬢の部屋 B4」を観に東京上野の森美術館(VOCA展'99「現代美術の展望−新しい平面の作家たち」1999年2月20〜3月7日)へと足を運んだ。

 「案内嬢の部屋 B4」は、既に1997年に発表されている「案内嬢の部屋 B3」(つまり地下3階)が地下鉄のホームだったので、さらにもう1階下った世界というタイトルだ。地下鉄のホームよりも深い地下といえば通常はただの土がある世界、一般の人間が目にすることがない世界である。それまでの「やなぎみわ」氏の作品では地上階、もしくは通常人間が立ち入ることができる世界に案内嬢を配置してきた(案内嬢以外を排除した"異様な"空間を作って案内嬢を配置してきた)のだが、この地下4階はこれまでのものとは変わり、水没した店舗空間に忘れられた存在のように、うっすらと堆積物をその身体に付着したかに見える水紋を映して案内嬢が配置されている。水中から臨む地下4階から上の階は無限に聳え立つ摩天楼を形成しているかのように見える。それでも中心部の柱(らしきもの)には「水」の存在が伺える(巨大な筒状の水槽という感じ)。これは建物(デパート、つまりこれまでの一連の「案内嬢の部屋」シリーズ)から都市(「Eternal City」シリーズ)へと広げてきた環境的モチーフの中に、新しく「水」というものを取り入れるようになった、ということであろうか。

 選者の国立西洋美術館館長、高階秀爾氏は言う。「賞の選考にあたって、委員たちのあいだで長時間にわたってさまざまな議論が展開されたのも、作品の投げかける問題がきわめて今日的な意味を孕んでいることを物語っている。選考委員もまた、同時に試されているのである。」「現実とは似て非なるパラレル・ワールドであって、それ故に現実世界のもつ混沌とした猥雑さを免れており、水晶の塊の中に閉じ込められたように冷たい透明性を獲得しているのである。」また、推薦者の静岡県立美術館学芸員、李美那氏は言う。「壁に囲まれることではなく、遥か遠くに消えて行く点によって空間が閉ざされ、近未来的な感じすら漂う世界はどこまでいっても抜けられない緊迫感ごと浮遊している。」「われわれの生きている現実がすでに、互いに共有するものの少ない個々の小さな世界がときどき事故のようにニアミスを起こしながら漂流する、そのような世界であることをやなぎは喚起させるように思う。」さすがにたくさんの美術作品を常日頃観ている方々だけに、言葉が強い。

 大量生産、大量消費世界を水没させ、光の屈折を表すかのように歪ませることは、ステレオタイプである我々を静かに告発している。たたずむうつろな視線の案内嬢たち、その定まらない視線は混沌とした沈みがちな現実世界を嘲笑しているのだろうか。無限の彼方まで聳える摩天楼が水没するということは、豊かさ(物質文明)の限界がそこにあることを示しているのか。水没した地下4階から見上げる現実世界、それはまた欲望の疾走した20世紀を記すことで存在するものなのだろうか。それほどまでに「やなぎみわ」氏の作品は私にとって重い。

(1999. 3. 7.)

spiral2002.jpg (35858 バイト)


PrevWB01343_.gif (599 バイト)   WB01345_.gif (616 バイト)Next