一応説明までに、宮崎勤被告は1988年〜89年、埼玉県と東京都で連続して幼女を誘拐し、殺害し「今田勇子」(報道では「いまだゆうこ」となっていたが、「いまだいさこ」と読むらしい)という名前を使って遺骸を被害者宅へ届けた事件(自室に存在する5,787本ものビデオテープが山積みになったニュース映像を記憶している人も多いだろう。逮捕後、ホラー映画、ホラービデオに規制が加わるようになった)、少年A(事件当時彼は14歳であったため実名は伏せられた)は1997年神戸市須磨区で起きた「酒鬼薔薇聖斗」(さかきばらせいと)を名のった連続小学生殺傷事件(ホラー、オカルトの定番であった生首が喋るというシーンはこの事件後規制されることとなる)の被告である。大事件であるが故に激しい報道合戦が繰り広げられ、被害者側、加害者側へは行き過ぎとも言えるほど興味本位なマスコミの脅威にさらされることになった(少年Aの実名や顔写真を公開した雑誌社すらもあった)。
が、実際のところ、なぜこのような事件は起きてしまったのか、宮崎被告、少年Aとはどのような人間だったのかを本当のところはあまり知られていないのではないだろうか。結局我々はマスコミが流したマスコミの主観による二次情報しか受け取ってきていないのではないだろうか。そう思うからこそ、私はこの2冊の本を手にしたのかもしれない。
宮崎被告の場合、心神耗弱(しんしんこうじゃく:自分の行為の結果についての合理的な判断能力が欠如している状態)であったのかが裁判で問われた。検察側は心神耗弱の状態になかったと主張。弁護側は心神耗弱の状態にあったと主張。この心神耗弱を巡って1回めの精神鑑定と2回めの精神鑑定で結果が異なった(2回めの鑑定では多重人格ではないのか、という結果まで出た)。猟奇的事件の場合、この心神耗弱は弁護側にとって被告を守る最後の砦であるような気がする。外から見て明確な境界線というものもない。しかし刑はこの心神耗弱を境に大きく変わる(心神耗弱であれば大きく減刑される)。宮崎被告の場合は心神耗弱の状態にないとして1997年4月14日、本来ならばもっと事件の本質である被告内面の状態まで深く踏み込んで判断すべき事柄であるのに対し、単純な性犯罪の結果としての死刑判決が下された。
私は事件当時宮崎被告は心神耗弱の状態になかったと考える。自分の行為を理解し、自分の行為の結果がどの様になるかも理解し、そして行動した(事件の前に世を去った祖父の復活を願うための儀式であったと本人は供述している)のではないだろうか。しかもその行動の発端は裁判で問われた「性欲」ではなく、被告本人も認識できないほどの巨大な「恐怖」ではないだろうか。それが極端に自分自身以外の存在を恐怖した結果であるが故に(ただ何故その行為が必要だったのかは本人には全く認識できていない)。恐怖するが故に自らの裁判自体には全く関心はなく、供述は警察側、検札側、弁護側それぞれの見解(主観)に合わせるために二転三転させる。自分自身を語るはずのこの本の中でも自分の発言(書簡)の内容も二転三転させる。
少年Aの場合、逮捕時14歳、というのが大きくとりあげられていた。逮捕前事件のニュースが流れるたびに犯人は結構若いだろうな、多分ハイティーンか20代前半だろうと私は思っていたが、私の予想をこえてそれよりもはるかに若い年齢だったのがショッキングだった。彼にとって不幸だったのは自分の自我を認識するよりも前に自分に振りかかってくる情報が多すぎたためではないだろうか(いや、自我を認識したくないがために自分やその他の存在についての興味を急速に失って行ったのかもしれない)。
我々人間は肉や魚を食べる。食べるために動物を殺す。害があるからといって虫や動物を殺す。その行為を正当化している。だが人間を殺してはいけないと教えられる。何故?と問うても、誰も明確な答えを出せないだろう(モラルだの宗教的概念だのを持ち出して焦点をぼかしているだけに過ぎない)。しかも、一人殺せば殺人鬼と言われ、戦争で百人殺せば英雄とたたえられる、この不条理。大半の人間は「ふ〜ん、そんなものか」とか「仕方がない」、単に「人を殺すことは『悪い』こと」でいい加減に済ませてしまいがちだが、少年Aはそれで納得できなかったのだろう(逆に言うとそのいい加減さが彼にはなかったのかもしれない)。
両親の躾が厳しすぎたからではないし、放任であったからではない。少年Aにとってこの自分達が生きている現実世界そのものがよくわからない認識できないものだったのではないだろうか。よくわからないから、わからない不安を消そうと思い煙草に手を出したり、猫を殺して解剖してみたり、単純なスリルを味わうために万引きを繰り返した(殺傷に使われたナイフ、ハンマー、ノコギリ等全て少年Aが万引きしたものであった)のではないだろうか。
両親の手記からは特段少年Aがホラーものに興味を示していたわけではないことが読み取れる。さらに、幼少のころは特段変わりばえもしない「普通」の男の子だったことが読み取れる。どこから少年Aは変わっていったのか、ではなぜ少年Aは凶行に走ったのか。やはりわからない(両親もわかっていない)。仮に少年Aに問うても多分わからないだろう。自というもの、他というものがわからないまま、まわりに押し流されていったのだろうと私は思う(少年Aには困惑と意識の彷徨だけが存在したのではないだろうか)。
果たしてこの2人は、我々と同じ現実に存在している者なのだろうか。それとも違う現実、違う世界、パラレル・ワールドに存在している者なのだろうか。我々の認識しうる事件として起きている以上それは紛れもなく我々の生きている現実世界で起きたことであり、彼らも我々と同じ現実に存在しているものなのだが、どこか現実離れしているようにも思える。なぜだろうか。その答えを探すために私は、3種類の人間が現実世界には存在すると思っている。それがこの2人の被告を考える場合のキーだと思っている。自我を完全に意識している人間、自我を中途半端に認識している人間、自我が全く存在しない人間、の3種類だ。
多くの人は自我を中途半端ににしか認識していない(できていない)ため、誰かの生き方や考え方に依存したがっている(依存の先は宗教であったりもするのだが)。数多の有名人のエッセイ本、数多の教訓めいたビジネス書がよく売れるのは、長いものに巻かれたがるのはこのせいだと思っている。自我を完全に意識している人間や自我が全く存在しない人間にはそんなものは必要ないからだ(自我を完全に意識している人間のよりどころは自分自身のみであり、自我が全く存在しない人間は自分すらも認識できないためよりどころも認識できない)。この2人は自我が全く存在しないタイプに分類できると思う。自分というものが著しく欠落しているため、自意識、欲望、衝動といったものが認識できず、「何かが自分を支配している」(「ネズミのような男」とか「バモイドオキ神」とか)ような感じを漠然と持っているだけに過ぎない。そして自分の言葉を持ち合わせていない。よって、自分を誰かに伝えることができない。伝える術を持ち合わせていない。それでいながら悲しむべきことに機能的には人間であるので、自分の行為や行為の結果を理解することもできる(しかし行為の動機や行為の必要性については全く関心がない。理解し得ていない)。このような状態は心神耗弱ではないはずだ。多重人格ではないはずだ。言ってみれば「自己という存在の外にいる者達」なのかもしれない。
人間とは何者なのか。多くの人は理性を人間性、欲望のおもむくままや残虐性を人間性ではないと考えているだろうが、これは妄想ではないだろうか。多くの生物では自己の生存に危険性が発生した場合のみに排他を行うことがあるが、排他のためだけに殺傷することは(基本的に)人間しかしない。排他のためだけに憎悪を持つことは(基本的に)人間だけしかしない。(私の誤解であってほしいのだが)本当の人間性とは残虐なことも指すのではないだろうか(奇妙なことに、類人猿も人間に近くなればなるほど、知性と理性と同類を死に至らしめる残虐性を併せ持つ。類人猿だけではない。高い知性を持つシャチは、ハンティングを楽しむという習性(残虐性)を持っているのではないかという観察例もある)。
悲しむべき自分自身を全く持ち合わせていない、人間という多面体のうちの多くの面を持ち合わせていないと思われる彼らを救済することは現実的に難しい。紛れもなくモラルに反した凶悪犯罪の被告であり、世間的には猟奇的な「異常」者でしかない。それがある意味マスコミに作り上げられた虚像でもあることを世間一般では認識していないし、世間では理解しがたいことだと思っている。マスコミに作り上げられた虚像を払拭する必要はないと思っている(マスコミは自分たちの報道がそのような結果になったことについて責任を取るつもりを全く見せていない)。私自身も、彼らを救済するのではなく、自分自身を認識し得ないある意味かわいそうな存在として静かに葬り去るべきかもしれないと思っている。そう思うこと自体、私が存在の外にいる者達ではないだろうかと思うことで彼らの存在を理解していながら(理解したつもりになっていながら)、それが全く彼らを自分達とは異なるものとしてしか理解していない者たちと全く変わらない行動でしかない、ということに他ならないのだが(そのことに私自身の力不足を感じずにいられない)。
この2人の手によって亡くなられた方々の御冥福をお祈りいたします。そして被害にあわれた方々に今後御多幸あらんことをお祈りいたします。
(1999. 4.18.)