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第39回 コラム:溝口肇氏の音楽


(文中の敬称は省略させていただきます)

 「溝口 肇」(みぞぐち はじめ)と聞いてすぐに曲を思い浮かべることができる人は多いかもしれないが、少しだけ紹介めいたことを書きたい。一番の有名な曲はテレビ朝日系列平日午後9時54分から放送の「世界の車窓から」という番組のオープニングタイトルではないだろうか。暖かなメロディーを奏でるプレイヤーでもあり、コンポーザーでもある東京芸術大学音楽部器楽科チェロ専攻卒のチェリストである。

 ソロ・デビューは1986年、アルバム「ハーフインチ・デザート」。私が初めて聴いたのは同1986年に発表されたセカンドアルバム「水の中のオアシス」に収録されている「パノラマ」という曲である。当時高校生だった私は毎夜毎夜NHK-FMの「クロス・オーバー・イレブン」を受験勉強そっちのけでエアチェックするのが習慣だった。無数の曲がオンエアされる中で、「パノラマ」が流れた。そのデジタル・シーケンサがつむぐクールなビートにメロディアスなチェロの組み合わせに引き込まれていくのを感じた。音楽に対して貪欲になり始め、私にとって自分が聴く方向性を広めつつあった時代であり、溝口肇はそれまでまったく聴いたことのないインストゥルメンタルな音楽だったことがある意味衝撃であった。

 今でこそ溝口肇の音楽には「ニューエイジ」というジャンルづけがされ、ニューエイジミュージックとして数々のアーティストが音楽を発表しているが、1986年当時はまだジャンルが確定しておらず、ジャズともフュージョンともクラシックとも違うそのスタイルは、ファーストアルバム「ハーフインチデザート」では「イージーリスニング」とされ、やっとセカンドアルバム「水の中のオアシス」から「ニューエイジ」とジャンル分けされる(「ニューエイジ」としての先駆は溝口肇だ、と言っても過言ではなかろう)。

 しかしながら「ニューエイジ」としての溝口肇の方向性は1988年に発表された4枚めのアルバム「Best Wishes」でほぼ行き着くところまでは行ったのではないかと私は思っている(一応「ニューエイジ」として1989年に「Precious」を、1991年に「太陽の南〜Southbound」を、1992年に「日曜日の印象」、1995年に「Aqua Colors in Paris」を発表してはいるが)。

 オリジナルアルバムとしてのほかに、映画やテレビドラマのサウンドトラック(代表作はフジテレビ系列「この世の果て」、日本テレビ系列「星の金貨」)も担当するようになった(現在ではサウンドトラックの方が有名なのではないか)。

 そうしてレコード業界も溝口肇の音楽をジャンル分けしにくくなったのか、本人がアコースティック(アン・プラグドと言うべきか、非デジタルとも言うべきか)に向かっていったことも起因しているのか、1998年に発表された「Far East〜世界の車窓から〜」のジャンル分けは「アンビエント/クラシック」とされ、1999年9月1日に発表された最新作「Eternal Flame」では「ヒーリング」とされてしまっている。

 私としては溝口肇オリジナルの音楽がそこに存在すればジャンルなんてどうでもいいと思っているが、ジャンルが確定していないと他人に紹介するときには多少面倒である。私が思うに多少のクラシックの香りはするものの、ヒーリングか、と言われてもそうでないような気がするし、彼が作り出したとも言える「ニューエイジ」というジャンルから、彼自身が離れつつあるのかもしれない。私の少ない語彙ではちょうどいいジャンル名が思いつかない(週刊「ぴあ」のCD紹介ではかなり焦点をぼかした「イージーリスニング」になっている。ある意味「ハーフインチ・デザート」に戻ってしまった。サウンド的には全然戻ってはいないのだが)。

 私は小学生の頃ヴァイオリンを習っていたこともあって、弦楽器の音は特に好きである(だからこそクラシックの中でも好きな曲には弦楽器が重要な地位を占める交響曲が多い)。それも溝口肇の音楽に惹かれる理由の一つだ。同じ弦楽器でも私は、ヴァイオリンは響きや輝きや繊細さ、ヴィオラは艶、チェロはやわらかさと暖かさを感じる。そういうイメージを持っている。

 森の様に優しく、深く、緩やかに流れる河の様なロマンティックかつ(ヨーロッパの)都会的なメロディは読書的でもあり、メロディ自身が休める場所でもあり、内省的な雰囲気を持ち合わせている。フレーズから香りたつアロマ、漂う午後の思索のイメージ、自己主張をしない家具的な雰囲気でいながら重厚な存在感、それが私が溝口肇を聴き続ける理由なのかもしれない。

 「風景」や「心象」といった言葉たちも浮かんでくるが、そんな抽象的かつ的を得ていない、焦点をぼかした言葉たちよりも、彼の音楽は深く、重く、激しさを秘めながら、胸に響くメロディという想いであり言葉である。

(1999. 9. 5.)

余談

 高校の時分はCDプレーヤを持っていなかったのに、私は当時1枚3,200円もした溝口肇のCDを買っていた(現在、初期のころのアルバムは廉価で再販されている)。そのとき私の月のお小遣いは3,000円。CD1枚買うのに1ヶ月では足りなかったのだ。大学に入って少ない仕送りをやりくりしてやっと買ったCDプレーヤで聞いたときの感動は忘れられない。当時所有CDが数枚だったのに、10年以上経って200枚以上(ちゃんと数えていないので正確な数は不明)のCDが私の部屋に転がっている。聴いているジャンルもクラシック、ジャズ、ポップス、ロック、テクノ、へヴィ・メタル等々節操もない。常に増大の一途をたどるのみ。

 NHK-FMの「クロス・オーバー・イレブン」で数多くの音楽と出会った。流行りに流されない深い、幅広いジャンルからの選曲、静かなナレーション。音楽市場が今から考えれば極端に狭かった10年以上前はFMラジオが(私にとっては「クロス・オーバー・イレブン」が特に)重要な音楽ソースだった。懐かしい。


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