先日、セザンヌを観に横浜美術館に行った。
- セザンヌ展 Cezanne and Japan
会場:横浜美術館
1999年9月11日(土)〜12月19日(日)
(2000年1月5日〜3月12日に愛知県美術館でも同展が開催される)
ポール・セザンヌ(フランス:1839〜1906年)といえば静物画というイメージが強い(私だけかもしれないが)。特にりんごをモチーフとした静物画の印象が強い(「りんごとオレンジ」(オルセー美術館蔵)等)。セザンヌが世界的に認められるきっかけになったのはちょうど100年前(1895年)のこと。今でこそ「近代絵画の父」と呼ばれているが、生前の評価は決して高くなかった(芸術の世界ではよくあること)。
今回の展示は、油彩65点を中心に、水彩やデッサン等41点を含めて、「初期絵画」、「風景画」、「人物画」、「静物画」、「水浴図」5つのカテゴリーに分けられている。20代の頃に必死にルーブル美術館の展示作品を模写し続けたという逸話が残っているように、常に自分の表現方法としてのスタイルを追い求めている感じを受ける。静物画や人物画しか記憶になかった私にとっては、ずいぶんといろんなモチーフに挑戦していた、それでいて早くからそのスタイルを確立し、通してそれを崩していないところが凄い、素晴らしいと素直に思った。
一通り作品を観終わって展示室を出ようとしていたとき、私の耳にある声が聞こえてきた。
「つまらない、面白くない」
企画者には申し訳ないが、他人の影響を受けやすい私はすぐそれに同調した。合計106点の作品を観ながら私もそう思っていたからだ。(芸術のなんたるかもわからないような輩である私が)決してセザンヌの絵画に対して芸術的価値が低いと暴言を吐いているのではない。展覧会としての構成、コンセプトがなんとなく不透明なのではないかと感じていたからだ。それ故つまらないと思うのではないだろうか(デッサンや習作も芸術的価値が高いかもしれない、研究者にとってはそれらも画家、作品を探求する上で必要だと思われるが、私のような下世話な一般人には完成作品だけで充分のような気もするのだが)。
冷静に会場を見渡してみると、セザンヌという美術の教科書にも載るような有名画家(巨匠である)の展覧会だというのにやけに人が少ない。それに対して設けられている休憩所にあふれている人。作品を観ている人よりも休んでいる人のほうが多いのではないかと思えるくらいだ。これはやはり展覧会としての構成、コンセプトがわかりにくいことを表しているのではないだろうか。
展示作品の(私の感覚では)約半分が分類上日本の「個人蔵」とされているもので、個人で所有しているわけだから必然的に作品の大きさが小さくなる(一般にサイズが大きくなればなるほど高額)。よって人の目を引くような大作が少ない。これはと思う作品は当然といえば当然だがオルセー美術館所蔵のものだ(同時期にオルセー美術館の所蔵作品を集めた展覧会が国立西洋美術館で開催されているので多分そのうち観に行くだろう)。
なぜここまで個人蔵のものが多いのか。セザンヌの画風が日本人好みであるというのもあるだろうが、日本語で今回の展覧会のタイトルは「セザンヌ展」であるが外国語表記、サブタイトルでは「Cezanne and Japan」である。直訳すれば「セザンヌと日本展」であるはずだ。確かに作品それぞれに日本との関連(なんという美術雑誌、文学雑誌にいつ紹介されたのか)について解説がついていた。なぜ日本との関連を解説する必要があるのか最初は疑問であったが、これで納得がいく。要するに目的は、日本美術と西洋近代美術との関係をセザンヌの絵画を通して示すことであって、オルセー美術館とかサンパウロ美術館とか国立西洋美術館とか笠間日動美術館とか所蔵の作品で補いつつ、日本との関係を示す個人蔵のものを多く展示しているのだ(と勝手に解釈している)。
そういう観点でもう一度作品を観直してみると、小品とはいえ個人蔵の質は高い。たとえば「3つの髑髏(どくろ)」(後期作品:デトロイト美術館所蔵)よりも「城館の入口」(初期作品:個人蔵)の方が私には良い作品に思えた(単に色使いが私の好みであるだけかもしれないが)。基本的に個人蔵の作品を目にする機会は少ない。誰がどの作品を所有しているかなんて一般人には知る由もないし、個人は自分のために所有しているのであって他人に見せるのを目的として収集しているわけではないからだ。まったくをもって羨ましい。
(1999. 9.19.)