日本の教育について様々な問題が紛糾するようになって久しい。近年取り上げられているものでも、大学生の学力やモラルの低下、歪んだ受験、いじめ、不登校、(教師、生徒の)校内暴力、学級崩壊等々。問題だらけであるといっても過言ではない。しかしこれら問題は近年になっていきなりわいて出たものではない。問題となる地盤はもともと存在し、対策をせずに悪化させる方向にのみ社会が動いてきたのではないのか。
そもそも学校というものが日本に出来上がったのは明治時代に入ってからである。徳川幕府、鎖国体制が崩壊し、西洋列強諸国との差を見せつけられた明治政府は、富国強兵政策のもと1872年(明治5年)8月に学制発布を行い、学校教育を整備し始める(学制が発布されても教科書はすぐには充分に整備されず、外国書籍を翻訳した民間の出版物が主であった)。これが現在の日本の学校の原型である。
近代教育以前の教育というと江戸時代の町人の寺子屋、武士の道場、塾が思い浮かべられるが、どちらかというとこれらは学校、教育というよりは現代の「おけいこごと」に近いと私は思う。
さて、近代教育を推し進めつつ天皇の権威を決定付けるものとして教育勅語が1890年(明治23年10月30日)に発布されるわけだが、今回教育というテーマで資料を探していてこの教育勅語を私は全文初めて読んだ。せっかくなので引用したい。「勅(ちょく、みことのり)」は天皇が発する事象に対して使われる字、言葉で、「勅語」ということは「天皇のお言葉」という意味である。
教育に関する勅語
朕惟ふに
我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり
我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥の美を濟せるは此れ我が國軆の精華にして教育の淵源亦實に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し進て公益を廣の世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし
是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず
朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ
第二次世界大戦後の民主主義教育にどっぷりつかりきっている私から見れば、このくだり「博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し」は「お言葉」として有り難く頂戴してもよいかと思うが、「緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」がかなり問題であると思う。明治という時代背景を考慮するとしても、現代に生きる私から見れば歴史に埋もれているべきものだ。
第二次世界大戦終戦直前の記憶として祖母が私に話してくれたショッキングなエピソードがある。当時祖父はある中学校の校長をしていた(祖父は終戦から15年ほどで結核により他界)。当時の学校には教育勅語が壇上に掲げられているのが当たり前だった。米軍の無差別爆撃や機銃掃射(いわゆる「空襲」)の最中、祖母や母は家の押し入れに隠れたり、蔵に隠れたりしていたが、祖父はそんな家族を守るよりもまず学校に駆けつけ、教育勅語を守ったのだという。そういう時代だったとはいえ、間違った天皇の神格化はこういったところにも歪みとして現れていたのか、と私は思った。
狂った第二次世界大戦が終わり、連合国軍総合司令部(GHQ
:General Headquarters)の占領政策は平和憲法を制定させただけでなく、教育勅語や全体主義を捨て、教育理念、教育方針を民主主義的なものへの転換を要求した。その結果生まれたのが「教育基本法」である。一部を引用する。
「教育基本法」全11条 1947年(昭和22年)3月31日公布
第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように務めなければならない。
この部分を一読するだけで(私の好まない「国家」という語が含まれるのはさておき)思想、理念として賞賛すべき内容であることがわかる。この教育基本法の制定のきっかけを与えたのはGHQであったけれども、この思想を作り上げたのは当時の日本の教育学者や有識者たちである。当然この当時の教育学者や有識者たちは教育勅語のもとの軍国教育を受けてきた、さらにその軍国教育を広げる立場にあった、天皇を神格化してきたにもかかわらず、終戦後おとずれた旧来のイデオロギーの崩壊を体感しつつも新しい時代の思想、理念を作り上げたのである。このことには非常に高い評価を与えねばならない。
しかし、このような高い理念が掲げられながら、当時の現場の教師たち、生徒たちは非常に混乱した。社会システムやイデオロギーが根底から変革することになるのだから、混乱しない方がかなり困難であろう(つい昨日まで全体主義を唱えていた教師が今日からは民主主義、個人主義で行きましょう、などと言えば信頼を完全に消失するだろう)。混乱と試行錯誤が続く中、他国の戦争によって潤う産業と経済成長によって大きな渦の中に飲み込まれていった。この渦の中で混乱は歪みとなり陰に隠れてしまったのだろう。
やがて経済の急成長は止まり、大きな渦が消え失せると歪みだけが残った。理念は時間と共に風化し、さらに歪みを隠すものがなくなったため、数々の問題が目に見えるようになったのではないか。だから私は今存在する問題は根底から考え直さないと今すぐには解決しないだろうと思うのだ。
さらに教育の現場と親側の意識の乖離がある。親は知識やモラルや躾もすべて学校にお任せで、ある意味責任放棄という意識であるのに対し、学校側はモラルや躾は親の責任であり学校は「教える」という作業に徹する、という構図が私には見える。教師すべてが人格者であるわけがないし、責任を負える範囲も限定されているが親側がそれを認識していないのではないのか。これが問題を顕在化させているのではないか。
大学で教育課程を履修している学生の中で道徳心と責任を感じているものが全体の何割いるだろうか(私は責任を負うのが怖かったので教育課程を履修しなかった)。少子化が進み教員採用枠が減少している中で教員採用試験予備校と化している大学が多くはないだろうか(社会の情勢に合うよう制度、考え方も変化すべきで、いつまでも国力と人口は右肩上がり、という旧時代の発想は誤りだと思う)。
本来なら(小学校から高等学校までの)教師は個人である生徒を育成するために多様性、様々な価値観を認めるだけの広い見聞をもたせるために導く行動をしなければならないのに、私の両親をはじめ(私が接した)教師は教育界という狭い社会にとらわれすぎているせいか著しく視野が狭く世間知らずだ。教育界が非常に特殊な環境であることも理解しているようには私には思えない。
モラルも責任もない世間知らずの教師が「教える」という作業だけを遂行し、生徒もそれを見てそのうち教職に就き、また作業だけを遂行する。それがさらにモラルや責任を削ぎ落としていく。現代はそういった悪循環に陥っていないだろうか。だからこそ生徒はすぐキレるし、教師をナメるし、学校は学習指導要領にすがる。そして社会は集団にとけこむ協調性だけを要求する。学習指導要領を改訂したり、国立大学を独立行政法人化したところで何が変わるのか。何の問題が本当に解決できるのか。
だいたい文部省は実態を知らず、「問題」という意識が薄いのではないか。たとえば学級崩壊についてはその事実を文部省は未だに正式には認めていない。明言を避け、しかもその原因の大半は教師の指導力不足にあるとしている。本質的問題ではなく指導力ということで片付けたいのかもしれないが、それが教育の現場と親側の意識の乖離や文部省の失策の結果であるとは思っていないらしい。
問題の本質を見ない、実情を知らないその場しのぎの付け焼き刃のような対策は何も根本的な解決にならず、16〜17世紀の天文学者が惑星の軌道を算出するために周転円に周転円を重ねている行為に似ているのではないか。教育基本法の理念をかみしめ、この高い理想を風化させない心構えをもちたいと思う。どのようなものであれ、責任は自分自身の中にあるのだから。
(1999.10. 3.)