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第38回 コラム:来たるべき世紀 partX


 社会的に情報化、ネットワーク化がこのまま進んでいけば、国家、民族といった枠組みがだんだん希薄になり、意味をなさなくなっていくものと私は推測している(何年先かはわからないが)。ナショナリズムもナンセンスなものになるだろう(そうなるべきと考える)。私は紛争の火種となるくだらない領土、領海から想起されるナショナリズムが消滅すれば、楽観的であるが数々の国際問題が解決されると思っている。民族固有の「文化」、「歴史」は尊重するべきと考えるが、それに固執するあまり排他、憎悪となるのは誤りである。

 ナショナリズムの枠組みは撤廃すべきと考えるが、何か利己的な単一の主義主張によって暴力的に全世界を制覇する(侵略する)のも間違っていると考える。相互理解の上に成り立つ多様性を持った柔らかな統合、というものを目指すべきと考える。

 言語の問題こそあるが、実際ネットサーフィンをしていてサイトが置かれている「国」を意識することはまずない。これは「国」という枠組みが情報化、ネットワークによって希薄になってきていることを示している例だと思う。これが私の推測の根拠でもある。

 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国(以下:米国)的民主主義の強制導入によって、日本から急速にナショナリズムが低下した(私の「ナショナリズムはナンセンスだ」という発想もこの強制導入された米国的民主主義の結果なのかもしれない)。第二次世界大戦前は、ナショナリズム→ファシズム→侵略戦争という道を日本は辿ってきたので、それを繰り返させないためでもあったのだろう。現在では右翼のような一部組織を除いてほぼ日本の国民はナショナリズムを持ち合わせていないと考えても差し支えないと思われる。が、第二次世界大戦が終結して50年以上経って、日本国民に知らず知らずのうちに政治の舞台で急激にナショナリズム復活の兆しがある。

 例によって例のごとく政党間のごたごた、議論よりも金、頭数がそろえば主義主張が異なっても寄り集まる、政策を実現したという実績だけを持ちたい何の節操もない人間達の集まりによって、たて続けに勝手に決められた重要な法案がある。「周辺事態法」(「ガイドライン関連法」とも言われている)、「国旗国歌法」と呼ばれるものだ(国民の代表たるべき「代議士」には国民の声は届かない、どうでもいいということを露呈した)。「周辺事態法」についてはつたない文章ではあるが、このコラム31回に書いているので参照してほしい。直接ナショナリズムとは関係が薄いが、国家権力を増大させる法案として「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案」も同じごたごたにより衆議院で可決された。

 ここにきてなぜこんなものが必要なのか。このような前時代的ナショナリズムに固執するような考え方はばかげている。国旗とか国歌がなくても別に困ることはない(オリンピックとかワールドカップとかそういう国際的なスポーツイベントに困る、という考え方もあるかもしれないが、これ自体ナショナリズムから派生していることなので、やはり意味があるようには思えない。「君が代」を「試合の前に歌う歌じゃない」と言って斉唱を拒否した有名サッカー選手がいたが、私はこれは「正しい」判断だと思う)。ちなみに私はずっと「君が代」斉唱を個人的に拒否してきた。

 ナショナリズムを復権させて第二次世界大戦前に戻りたいのか、米国の傘に入って何処かと戦争したいのか、そんな疑念がわいてくる。

 この米国という利己的正義の国が暴力を振るうことによって国際問題を複雑化している。その暴力によって形骸化されるを黙って見過ごすしかなかったのが国際連合(以下:国連)である(国連が紛争解決の手段ではなく、紛争そのものを引き起こしているとも言えなくはない)。

 国連とは何か。英語で"United Nations"である。"united"とは「連合した」、という意味であるが、"nation"とは「国家」という意味である。日本語で「国連」であっても、英語の意味に忠実に解釈すれば、「連合国家」である。そのことは現在の安全保障理事会常任理事国のメンバーを見れば明らか、第二次世界大戦の「戦勝国」とされている国々である。結局は「戦勝国」のナショナリズムの集合体にすぎない。

 確かに名目的にはナチスのような過激な政権を抑えるためだとか、地域間紛争に中立的立場で介入するだとかはあるが、国連が本当に中立的立場で介入したことはほとんどない(現場レベルでは理想としての「中立」という意識をもっているとは思うが、上層部ではちょっと事情が異なる)。特に平和維持活動と呼ばれる"Peace Keeping Operations"(以下:PKO)に関しては、その活動資金の31%を米国が拠出することになっており、当然軍隊も派遣する。しかも、米国は常任理事国であり、拒否権もある。国連誕生当初からこの米国の利益中心主義によって蹂躙されてきたといっても過言ではない。

 例えば、「世界で最も不幸な民族」とされるユダヤ人であるが、国というナショナリズムの枠組みを持たなかったユダヤ人がナチスの標的になったのは非常に不幸なことであるし、痛ましいことであったと言わざるを得ない(そのことは「事実」として私は受け止めている)。が、このユダヤ人は無理やり第二次世界大戦後、パレスチナに侵攻しイスラエルという国を建国してしまった。この手引きの中心は国連の権限を越えて、米国、イギリス、(当時)ソ連である。しかも国連において1947年11月29日「パレスチナ分割決議案」が採択される。市場拡大、勢力拡大をもくろんでいた米国が貿易の相手を作りたかっただけではないのかと私は思っている。かくしてパレスチナ人は米国からやや一方的に「テロリスト」の称号を与えられることになる。「長い間、祖国がなくて困っていたのだからいいじゃないか」と思う人もいるかもしれないが、長い間祖国がなくてしかも今現在、トルコとイラクから迫害を受け続けているクルド人はどうなるのか。彼らの国を作ろうと国連は動いているのか。それは否だ。しかもユダヤ人の全員がイスラエルを祖国と認めているわけではない。

 例えば、1994年。政治情勢不安から起きたアフリカのルワンダの民族間紛争内戦には当初からPKOの部隊が入って監視をしていた。が、結局内戦を止められずに、拡大を許してしまったし、一時はPKOが撤退した。ナチスの行った民族虐殺(約80万人)そのものが起きていたにも関わらず、である。安全保障理事会では当時の事務総長を中心に大規模なPKOによる介入をすべき、との声があがっていたが、米国はこのルワンダの情勢を"genocide"(ジェノサイド、大量虐殺)とは認めず、"acts of genocide"(大量虐殺的行為)という言葉を使うことによって派兵を拒んだ(これは日本の政治家のお家芸の「言い逃れ」だ)。日ごろから「人権」にうるさく、内政干渉も当たり前の米国だが、ルワンダに介入したとしても米国には何も利益がわいてこない。利益がないなら介入する必要もないし、勝手に殺し合いでもしていても構わない、という論理に他ならない。これは米国に根強く残る人種差別以外のなにものでもないし、日ごろから「人権」を口にする国のやることとは思えない。

 例えば、1999年。ユーゴスラビア、コソボ自治州で発生した民族紛争。米国はこれを(ルワンダでは頑として認めなかった)"genocide"だ、と決めつけ(しかしアルバニア系住民が迫害を受けたことと、数は不明だが虐殺が起きたことは事実だと思う)、安全保障理事会を無視して直接武力行使に出た。「世界の警察」を勝手に自認する米国を主体としたNATO(North Atlantic Treaty Organization:北大西洋条約機構)の地盤はヨーロッパであり、そのヨーロッパで発生した事態であったため、「参戦」は米国の国益に合致する。よって米国は堂々と介入したのだ。舞台がヨーロッパだったからこそ米国は武力行使に出たのだ。このアメリカの横暴には国連はなすすべもなかった。結局NATO軍の介入はかえって民族対立を増大させただけに終わった。ルワンダの例と照らし合わせると米国の対応に一貫性がなく、(米国的「ヨーロッパの安全保障」という)ナショナリズムが人種差別へとつながり、利己的正義を振りかざす暴力へ発展するのがわかるだろう(1991年のイラクのクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争も舞台が世界の石油の大半を握る中東だったから)。

 平和ボケした日本は(欧米先進国の所有物と化している)国連に対して「中立的な正義の味方」のような幻想を抱いている(それ故に日本は常任理事国入りを目指している。仮に日本が常任理事国になったとしても今の米国の腰巾着状態では何の意味もないだろう)。が、決してそのようなものではない(中立の平和の番人であってほしいとは思うのだが)。加盟国全体(約190ヶ国)に対して国連を牛耳っている欧米先進国は数ではその一割にも満たない。平和とは何か、戦争とは何か、何が殺し合う憎しみの材料となるのか、きちんと考えねばならないのではないか。国連は万能ではないし、この国連の誕生のもととなったナショナリズムも考えなおさなければならないだろう。

 だとすれば、ナショナリズムなんて最初からない方がよいのではないのか、と私は思うのだ。そのためには差別や偏見や諍いのもととなる「相手を知らない、認めない」という状態をなくすこと、これには情報化が欠かせない(そもそも紛争の火種のひとつとなっている「宗教」も互いに「認めない」という状態だからこそではないのか)。平等に相手を理解し、認め合うモラルも欠かせない。そして情報伝達としてのネットワークも欠かせない。これらがあれば、「国」などという枠組みは必要がなくなるだろう。

 絶え間ない紛争によって日々次から次へと生み出されてしまう難民。これは不幸なことであるが、ここしばらくは根絶しないと思われる。この難民に対して何が一番救済策となるのであろうか。確かに風雨を避けるテントや衣類、食糧も必要だろう。だが、それだけではないはずだ。基本的人権に則り、社会的に自立できるように教育の機会、雇用の場を作ることが本当の援助、救済なのではないのか。そのためにも「国」、ナショナリズムという枠組みは邪魔になる。

 ナショナリズムを捨て、情報とネットワークとモラルを手にしよう。未来をよりよく生きるために。

(1999. 8. 7.)


今回参考にしたもの

  • NHKスペシャル「世紀を越えて」 1999年1月から月2回、42回にわたって放送中
  • アジア国際通信 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2070/
  • ワールドダイジェスト http://www9.big.or.jp/~w-digest/

 


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