第58回 現実感を超越した「Avalon」と押井守
文中(タイトルも含め)、敬称は省略させていただきますことを予めお断りさせていただきます。
1995年「攻殻機動隊 -Ghost in the Shell-」(原作:士郎正宗)の超越した現実感と演出技法で世界を震撼させた鬼才、押井守監督の新作映画、「Avalon」(アヴァロン)を観た。第13回東京国際映画祭の招待作品として、2001年1月20日からの全国ロードショウに先駆けて公開された。私とこの会場(渋谷オーチャードホール)にいた者たちは、試写を除いて一般の劇場でその衝撃を目撃した最初の人々である。
押井守といえばその超絶した映像感覚で全世界的に有名な映画監督だ(日本ではわりとマニアックな知る人ぞ知る、という感があるが)。第13回東京国際映画祭という性格もあってか、会場内には外国人プレスの人数の多さが目に付いた(プレスの人間にのみ配ったパンフレットが欲しくて欲しくてたまらない)。試写を除けば世界初の公開なのだから仕方がないかもしれない。ここでは予め押井守を紹介することは省略させていただく。詳しくは押井守公式サイト「ガブリエルの憂鬱」(ちなみにガブリエルとは飼い犬(バセットハウンド)の名前である)http://www.oshiimamoru.com、世界最強を誇るファンサイト「野良犬の塒(ねぐら)」http://www.sa.sakura.ne.jp/~straydog/を参照してほしい(「Avalon」に関しては公式サイトhttp://www.avalon-net.com/を参照のこと)。
実は私は事前に公式サイトから予告編ムービー(MPEG 約12Mbytes)をダウンロードして何度も何度も繰り返し観たのだが、これはある意味危険な領域に踏み込んでしまったのではないかと思った(なぜ危険なのかは後述)。さらに、2000年10月30日(月)にNHKで解剖学者の養老孟司と対談した内容が放送された際にも数カット「Avalon」からの映像が紹介されたが、とんでもないものが出来上がっていることを確信していた(この対談は異色以外のなにものでもない(企画したNHKも凄いといえる)のだが、養老孟司が押井作品を未消化であるような感じを受けた。しかし、対談としての質はかなり高く、S-VHS標準で録画するだけの価値があった)。
この彼の超絶した映像感覚を表現するのに、彼と20年近く仕事をともにしてきた脚本家の伊藤和典(「Avalon」でも脚本を担当。平成「ガメラ」シリーズの脚本でも有名)は「映像でしか表現し得ぬことを表現し、映像によってのみ構築可能な世界を構築する」と評する。この表現は非常に正しいものだと思われ、作品の随所に言語で考えているのではなく、映像で物事を考えている様子がうかがえる(また、彼の描くコンテ(演出意図等を伝えるためのもの)を読む(見る)ことでもうかがえる)。
しかも、押井守は物語を撮らない。物語を物語によって破壊する映像は既にビデオシリーズ「御先祖様万々歳」(1989)で実践済みだ。だからこそ「難解だ」という評価をよく受ける(今回の会場の中からでも「わからねぇ〜」という声もあった)。しかし、彼のスタンス、彼のバックボーンとなっている知識を受け手(観客)が理解していればその真髄が見えてくる。凡人たる私はその知的挑発に追いつくのに精一杯だ。
この原稿執筆時点でまだ「Avalon」は一般公開前なので、その内容については一切触れないでおく。それが礼儀というものであろう(作品を観る前に余計な先入観があっては「鑑賞」は難しいのではないか、との持論から私は事前に内容に関する情報は集めないことにしている。「Avalon」に関しては集めた情報といえば前述の予告編ぐらいだ)。ここでは押井守が創り出す映像について書いておきたい(当然ロードショウ公開が始まれば私は絶対に観に行く)。
よくハリウッド映画を評するときに迫力や凄さ、自由な発想を「良さ」として強調する場合があるが、実は著しく制約に満ちていることにあまり気が付いていないと感じる(確かに迫力は認めざるを得ないが。迫力を追求してハリウッド映画と対抗したとしても結局それは2番煎じにしかならず、あまり意味をなさないばかりか、興ざめである)。ここではその制約の一例として「英語でしか創ることができない」という点を挙げておこう。
なぜ私がそう思うのかの答えとして、この「Avalon」は全編ポーランドで撮影し、キャストも全員ポーランド人、台詞も全てポーランド語だ(ポーランドにもコアなファンがいたらしく、撮影現場によく出没していたらしい)。純粋な日本映画なのに、である(まぁ、彼の個人的趣味で旧ドイツ軍の銃器や、旧ソ連の戦車を撮りたかったという理由もあるのかもしれないが)。つまり、押井守は日本映画の制約とされてきた日本語というものを他の言語で映画を創ることによって突き破ったのだ(上映前の挨拶で彼は「日本語でない、あまり自分の聞いたことのない言語で撮りたかった」と言った)。それが日本映画にとっては制約ではないということを証明したのだ(ハリウッドの商業主義ではこれを許すまい)。これは日本だからできた自由な発想である。
スティーブン・スピルバーグ、ジェイムズ・キャメロン、ジョージ・ルーカスといったSFXを得意とする世界に名だたる監督は、高画質をフルに使うために映像をデジタル処理することによってその情報量を高めてリアリズムを構築する手法をとってきた(そのためにお金や機材、時間をつぎ込んできた)。が、押井守は今回の「Avalon」では逆に情報量を少なくする、情報をコントロールすることによってより強烈なリアリズムを創り出すことに成功させている(早くからデジタル技術を自分の作品の中に取り込んできたその蓄積が可能にした技であるとも言える。どう使えば効果的なのかが身体に染み付いているのかもしれない)。
簡単な例を挙げよう。例えば「写真写りの悪い人」を写真にあえて撮る。なぜ写真写りが悪いのか、といえば、人間は無意識のうちに見ている対象物の情報量をコントロールしているため、普段は見ていない情報がその写真には記録されているからだ(写真のときに人相が悪くなっているのも、普段その人と接しているときは人相がいい状態、光の当たりがいい状態の情報を用いて目にしている情報を補完している)。人間はその人の顔のしわとかほくろとか肌のしみとかそういうディテールを気にするときはそれに注目し、気にしないときは脳に伝える情報をカットしている(つまり見ていない)。
映画でも同じことが言える。失礼だがアップになったとき女優の顔に無駄毛や肌のしみがあったら観ている方が興ざめてしまう。普通はメイクとかライティングによってそれが目立たないようにしている(SFXに夜のシーンが多いのはライティングがコントロールしやすいから)。
が、「Avalon」の中の仮想現実空間の戦闘状態に濃いメイクは不釣り合いだ。埃っぽい戦場で強いライトもおかしい。そこで押井守は何をやったかというと、CG(Computer Graphics)や手描きのアニメーションを使ってその「不要」な情報を全編ひとつひとつ落としていったのである(それらをデジタル合成した)。実写映像も、手描きアニメーションも、CGも全てデジタルデータの素材として扱って再構築した(そのおかげで真昼間の仮想現実空間のSFXに成功している)。逆にこの手法により、より観客の脳の中に構成される、見る人によって必要だと思われる選択された情報に近づいたといえよう。スクリーンの中に映し出される仮想現実が、脳の中に再構成される現実に近づいたのである。これは逆転の発想であり、「映像」としては大きな進歩である(現実とは常に脳の中に創り出される主観的な仮想のものでしかないからだ)。
仮想現実と現実との間にはいろいろな人がいろいろな基準を設けて勝手に線を引こうとしているが、実は脳の中では明確な線など存在しない、ということを「Avalon」は表現している。もはやスクリーンに映し出される仮想な空間と脳の中で再構成される現実空間には差がない。その意味で一般には境界線が存在すると信じられていたことが崩壊する。だからある意味危険な領域なのだ。
そういう主観的な情報量をコントロールするデジタル処理にクランク・アップから半年以上かけて出来上がったのが「Avalon」である。逆に考えれば、撮影中は処理を加えた後のものがないために「イメージ」だけで撮影しなければならず(デジタル処理は全て日本で行った)、「映像で物事を考える」押井守のイメージをスタッフが共有するのにずいぶんと苦労があったと思う(彼独特のコンテが役に立ったのかどうかはわからない)。
私は上映後、3階席まで満員の会場において万雷の拍手の中、全身が総毛だっているのを感じた。まさにスクリーンに投影されていたものは衝撃だった。そして衝撃を目撃したものたちは賞賛したのである。私が押井守のファンであることを差し引いても、「Avalon」は一見の価値がある。絶賛すべき作品であることには間違いない。押井演出が冴え渡っている。あのエンディングは押井守以外は多分撮れないだろう。
ハリウッドは4年かけてやっと「マトリックス」で「攻殻機動隊」の映像に追いついたが、いまだに追い越してはいない。しかし、当の押井守は「Avalon」で次のステージ、そして誰も到達していないレベル、現実感、現実の超越を構築する段階へ進んでしまった。ハリウッドが追いつくにはまた数年を要するだろう(ハリウッドの持つ商業主義のためにもはや追いつけない可能性もある)。しかし、押井守は常にエッジ(Edge:先端)に立ち続ける。彼はそれをやめない。
(2000.11. 4.)