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第62回 書評:未完の「国鉄改革」


「未完の『国鉄改革』 -巨大組織の崩壊と再生」 (東洋経済新報社)
葛西 敬之著 \1,600+税
ISBN 4-492-06122-3

 日本国有鉄道、つまり国鉄(英語名で"Japan National Railway"ということから"JNR"ともいう)がJRになって改革は完了した、と思っている人間は少ない。多分完了したと思っている人間は当時の運輸省の人間のみだったと思われる。ただ単にJNRからNを取っただけ、と考えるのが妥当ではないだろうか。

 国鉄は1949年にマッカーサー司令部によって公共企業体として発足し、1987年にJRが発足したことにより解体された(実はたかだか38年の歴史しかない)。その際、地域ごとに旅客6社、貨物、情報システム会社、鉄道技術総合研究所と大きく9つに分割された(世間には旅客6社、もしくは貨物を入れて7社に分割されたイメージが強いが)。

 本書は現在東海旅客鉄道株式会社(JR東海)の社長である葛西氏が社内の若手社員に口述したものをまとめたものである。以前JRという組織の中に身をおいていた自分にとって常々「民営化はよしとしても"改革"のやり方は失敗だったのではないか」という疑問があった。たまたま行きつけの書店で平積みされていたので、手に取った。帯に田原総一朗氏が推薦している、ということが書いてあっただけで読む気が30%ほど失われたが、とにかく読んでみなければ始まらないと思い購入した。

 そもそも本書では「国鉄の誕生から矛盾を内包していた」とある。その矛盾とはこうだ。(敗戦により荒廃した鉄道の)近代化・復興増強投資をやり、同時に効率的な運営を行う」である。私の考えとしてはこれは全く矛盾しない。鉄道の"公共性"から、社会資本としての使命がある以上、荒廃した状態から近代化し、復興に投資が必要なのは当たり前だ。敗戦直後で自己資金があるわけもない。占領統治下であった時代背景からも考えて、世界銀行や戦勝国となったアメリカ合衆国から融資、投資を受け、それを整備に充てていく、ということはしごく当然のことだ。そしてその運営に関して、主要な収入は輸送運賃、というのも輸送機関たる企業であれば当たり前だ。当然効率的な運営が必要で、コストを抑えつつ、社会の需要にこたえていかなければならない。そして得られた収入の中から債務を返済する、これも企業であれば当たり前のことだ。何が矛盾だ。

 問題があるとすれば、国鉄がこの当初の設立目的を忘れてしまった、ということだろう。それを設立当初からの問題であった、と国鉄内部においてその改革の推進者であり、現在もJR東海の社長でもある、当事者(著者)が逃げてしまうのはいかがなものか、と私は思う。

 なぜならば、国鉄は最初から赤字体質だったのではなく、1963年(東海道新幹線が開業する1年前)までは黒字だったのだ。が、高度経済成長が始まりかけていたこの時代、特に東海道本線の輸送能力は限界に達していた。需要に供給が追いつかない状態に、起死回生の切り札として東海道新幹線が開業した(当時の国鉄内部では東海道新幹線が開業するまではそのプロジェクトは冷たい目で見られていたが、いざ開業してみると昨日まで冷たい目で見ていた者が手のひらを返したように賛成論者一色に染まった、といういかにも日本的な事情が隠されていた)。

 問題はここからである。戦前の国営だった時代に作られた採算の全く取れない路線、政治的に通された路線や、東海道新幹線の成功が「新幹線神話」となり日本全国に新幹線を通そうという首相が現れたり、政治が企業経営に過剰に介入したこと。敗戦の復興として雇用の確保のため職員の数が発足当時は60万人を超えていたのは仕方がないとしても、ある程度近代化されてからも40万人をこえる体制が30年も維持されていたこと(現時は旅客6社合計で20万人ほどに減少しているが、それでも余剰人員の問題はある)。職務怠慢を戒めたり、効率化を推し進めようと努力しなかったことこの3点において国鉄は失敗だった。

 公共企業体であろうが、民間企業だろうが、日本が資本主義社会を標榜している限りにおいては、採算が取れないものを維持しておくほど無駄なものはないし、非効率なものはない。国有とはいえ当初は独立採算を掲げて発足しておきながら政治の介入を許すような施策を行ったらずるずると赤字が膨らむのは当たり前である。企業としても自分の「お金」ではないし、なにせ彼らは自分たちの「利権」のためならなんでもする連中だし、税金を使う(国の予算を決定する)権力を持っている。

 "公共性"をはきちがえ、不採算路線維持のために国から補助金を受け入れた。これを著者は「仕方がないことであり、もっと早くからそうすべきだった」と記述しているが、明らかに誤りである運賃を値上げしてその収入増を見込んでいたが政治的に阻止された、という記述もあるが、それも大きな誤りである。運賃値上げは最後の手段である。それに最初から頼ろうという姿勢が間違っている。現にJR発足から消費税導入を除き、本州3社(JR東日本、JR東海、JR西日本)は運賃値上げをしていない。やればできるのである。不採算路線はさっさと廃止にするか、維持費のかからない代替手段を考えるか、人員整理するかをするのが経営者の考えであろう。

 それは職員の数、質、体制の問題にも言えることである。著者は本社採用である。国鉄では、本社が直接採用する「本社採用」(通称「マル本」)と地方の支社が採用する「地方採用」と2種類の採用方式を採っていた。「マル本は後々の幹部を養成するためのエリート採用であり、末は局長、天下って関連会社の役員、というコースが決まっていた。地方採用は昇進しても駅長止まり(本社の課長クラスよりもランクが下)で、多くは定年までほとんど昇進することがなかった。このような構図がわかっていれば、だんだん職員もやる気を失うばかりである。人間は強制力と意欲がなければ働かないものだ。職務怠慢に陥っても仕方がない面もある。だから自分たちの狭い立場しか考えずストライキを起こす権利を得るためのストライキを頻発させたのだ。そういう事情を当の「マル本」はご存知ない。人間とは悲しいもので常に自分の尺度でしか物事を判断できないからだ。

 しかし、いかに職員に経営的視点、公共性の視点が欠けていようとも、先がない未来を悲観しようとも、怠慢は怠慢であり、ストライキも違法であり、処罰に値する。が、どういういきさつか労働組合の組織力が強く(数の面で押されるという面もあるだろうが)、減俸処分にしたとしても助役(労働組合員のすぐ上の非組合員である管理職)がその減俸分を裏から補充していた、というお粗末なことが常態化していた。当然、このような状態が続けば組合は自分たちを過大評価し、力が過剰に強くなり、管理職は萎縮する。健全な労使関係は結べない。破綻する(本書中には助役が過労死してもおかしくない状態で働き尽くめの中、組合職員は総出でソフトボールに興じていた例が載っている。他にも例はたくさん挙げられている。それだけでもいかに国鉄がダメだったかがわかる)のは当たり前。

 この問題体質を問題としないまま放置し続け、国からの補助金と言う麻薬に溺れ、湯水のように予算を食いつぶし、また補助金に頼る、という悪循環を続け、過剰投資を続け、問題解決を先延ばしにし続けた結果、推定で28兆円という膨大な債務が残る結果となる(これは確定額ではない。現時点でも解決が先延ばしされている部分があるため、利子分は膨らんでいる)。

 このような問題を一気に解決する荒療治として民営化、というのは正しい選択だったと私は思う。この点においては民営化推進論者だった筆者と私は意見を一にするところでもある。が、「分割が正しかったのか、と言えば、疑問符がつく分割フレームを描いた3人がそれぞれ本州3社の社長に収まっており(既に会長となって第一線から退いてもいるが)、その本州3社だけは株式も上場し、着々と民営化の成果を上げつつある優良な会社になっている。が、分割案当初から採算性の問題があった北海道、四国、九州の3島は本州3社の売り上げから3島の救済措置である「経営安定基金」の拠出、貨物の旅客経営からの分離いうことでお茶を濁している(3島の経営問題に関しては非常にJR東海としても微妙な問題であり、かなり曖昧に記述されているが、JR貨物の扱いを含めて疑問がある、という点では私も著者と意見を一にするところである。ただ、情報システム会社の扱いが全く記述がなく、不意なのか、意識的政治的判断で抜いてあるのかはわからない)。

 つまり、最初から民営化の成功を享受できるのは本州3社だけだ、というのはわかりきっていて、3島は曖昧にされてきただけに過ぎない。旅客会社から線路を借用する形になっているJR貨物の問題はもっと深刻である。例えば長野新幹線開業に伴なう信越本線の一部JR東日本からの切り離し、東北新幹線伸延による東北本線の一部JR東日本からの切り離しは貨物輸送にとってみれば大打撃である。これらの路線は第三セクターと言う形で経営される(経営的観点から見れば採算性の低い路線を二重に運用するのは無駄である)が、コストの面から夜間の運行を通常停止する(夜間の保守作業もコストがかかる)。貨物輸送は旅客輸送が極端に少ない夜間に行われる。せっかく二酸化炭素を出さない輸送手段が役目を果たせなくなる。ただでさえ赤字のJR貨物がさらに苦しくなるのは火を見るより明らか(二酸化炭素削減目標にも影響が出るだろう)。無理に政治力で新幹線を通すとこういうことになる(北陸新幹線や九州新幹線でも同様となるだろう)。

 貨物の場合だけではない。先に触れた情報システム会社についてである。まず、存在意義がない。アウトソーシングとしてのシステム開発の役目を負うのであればまだ意義はあるが、各社は同じ情報システム会社を独自に子会社として設立し、開発、保守を任せている。共通の子会社的立場である情報システム会社をわざわざ使う必要はなく、もし使うのであれば他の旅客各社の調整が必要となる。経営的観点から見れば、融通の利きやすい純粋な子会社を使うだろう。指定席の座席管理システムの運用保守、乗客が旅客会社をまたがる際の収入精算など、各社間で予め取り決めをしておけばよいことだ。わざわざシステムを運用管理する会社が存在する必要はない。

 と、まあ、いくら本州3社の株式がすべて売却されて民営化色が強くなったとしても結局はJR全体としてはそれは成功とはいえないのである。確かに著者も株式がすべて売却されても国鉄改革は完了しないと記しているが、結局のところJNRからNが取れただけでは「改革」なんて大それた事はしていないのである。田原総一朗氏の推薦文には「国鉄大改革のウラのウラまで」と書いてあるが、そこまで本書は深くは書かれいない。私にとって彼は所詮その程度の評論家である、ということを再認識したに過ぎなかった。

 読後感として、本書に払った金額と時間が無駄だった感が強い。やはり一般消費者が割を食う、ということに再認識した。つまり無能な"お上"を持つと民が苦しむ構図は昔から、そしてこれからも変わらないようである。

(2001. 3.11.)


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