第61回 コラム:現実感を超越したAvalonと押井守 partU
文中(タイトルも含め)、敬称は省略させていただきますことを予めお断りさせていただきます。
-HIC IACET ARTHURUS, REX QUON DAM REX QUE FUTURUS-
「ここにアーサー眠れり。かつての王、現在の王、そして未来に再び王とならん」
映画というものは、スクリーンの上に映し出される映像は虚構の産物であることを暗黙知として観客は持っている(およそ100年前、映画が初めて登場したときはこの暗黙知がなかったがために、スクリーン上の機関車に轢かれてしまうのではないかと思い、驚いて席を立ってしまった人がいた、という逸話がある)。
例えそれがドキュメンタリー映画だったとしても、撮影者の主観の下に成り立っているものであり、観客の主観ではない。よって、観客にとっては虚構に過ぎない。「主観が入り込まないよう真実を伝える」と謳ったにせよ同じ事だ。主観が入り込まないようと思う主観が働いているからだ。言葉遊びのように思えるかもしれないが、これが不完全な社会性と未発達で未熟でしかも孤立している情報端末である脳を持ち合わせている人間の現実だ。
押井 守(おしい まもる)の最新作である「Avalon」(アヴァロン)は封切りから4週間で上映をレイトショーや二番館へと移ることになり、さまざまな関連書籍、グッズも発売され、一段落したと思うので第58回のコラムで書ききれなかったことを含めてここで整理したい(私は既に4回観た)。関連書籍を読めばいかに計算し尽くされて、しかも過剰と思われるほどのこだわりをもって作られていることがわかるだろう。今回は本編の内容に触れるので、観ていない方は何らかの手段を用いて観ていただくか、今年中には多分DVDが発売されると予想されるので、それを観てほしい。また、押井作品には「正解」という解釈は存在しない。よって、ここで私が加える考察及び解釈が必ずしも正しいものではなく、私の主観に基づくものであることを予めお断りさせていただく。
「Avalon」は良くも悪くも押井作品そのものである。趣味の世界といってもいい。彼がこだわり続けてきた、見えるものと見えないもの(または見てはいけないものもある)、自己と他者の関係、現実という暗黙知の脆弱さの露呈が詰め込まれている。エンターテイメントというよりは芸術なのであろう。よって押井守の主観、こだわりによって映像が構築されている。
失業率が驚異的な数字を示し、生活保障の受給者が納税者を大きく上回る喪われた近未来(ジョージ・オーウェルの近未来SF小説「1984」のような世界だ)、主人公アッシュは非合法体感戦闘ロールプレイングネットワークゲーム「Avalon」でプレイ(英雄的活躍)することを自己生存の目的と化した日常を送っていた。「Avalon」で稼いだ経験値は現金と交換することが可能で(これが非合法の所以である)あり、アッシュは類稀なる才能をいかんなく発揮していた(ゲーム中に登場するヘリコプターや戦車、銃器等のほとんど(ツインローターの重武装ヘリ、巨大戦車ツィタデル以外)は実在するものである。しかも、20世紀初頭からベトナム戦争までくらいの範囲で実際に使われたものだ。なぜこの範囲に限定されるのかといえば、年代をさかのぼると古臭さが出て現実感が失われるし、新しくなれば「戦っている」という現実感が同じく失われる)。
これが導入であり映画の背景でもある。通常の映画であれば、この背景は前提であり、それが映画の中で突き崩されることはまずない。が、この前提を突き崩すのは押井守の常套手段である。彼は確信犯そのものである。私のような押井フリーク(北野武監督作品フリークを「キタニスト」とヨーロッパでは称するらしいが、押井守の場合はどうなのであろうか。同じくヨーロッパで高い評価を受けているし)にとってはそれは暗黙知である。1984年に発売された押井守原作、もりやまゆうじ作画マンガ「とどのつまり」の表現で言えば「公然の秘密」である。
例えば、「Avalon」の劇場予告編でも取り上げられたビショップの台詞、「クリアできそうで出来ないゲームとクリア不可能に見えて可能なゲーム。どちらがよいゲームかは言うまでもない」や、アッシュの部屋に不意に訪れたビショップが彼女に向かって「本物の肉、本物の野菜、米、君の犬は幸せだな」や、Class Realでのマーフィー「現実とは思い込みに過ぎない」というような台詞は過去の押井作品では珍しいものである。
それまでの彼は、同じ近未来という背景を持った「機動警察パトレイバー2 the Movie」(1993年)(エンターテイメント作品であり、前提を覆さないという条件付きで)でのラストシーン、埋立地から東京の高層ビル街を臨む柘植行人と南雲しのぶ(かつて恋仲であったという背景があるが)にこう語らせている(ちなみにこの「機動警察パトレイバー2 the Movie」を彼自身が戦争映画ランキング第3位に挙げている(文藝春秋社発行「Title」誌2000年10月号より)。また、この「機動警察パトレイバー2 the Movie」のパクリではないかと思われる映画がデンゼル・ワシントン主演の「マーシャル・ロー」(1998年)である)。
柘植「ここからだと、あの街が蜃気楼のように見える。そう思わないか」
しのぶ「たとえ幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きている人々がいる。それともあなたには、その人たちも幻に見えるの?」
というような台詞から監督の意図や各シーンの意味、構築されている世界観等々を観客は類推し、観客の頭の中で再構築する必要があった。
が、「Avalon」に関しては表向きの世界観に関しては説明的台詞を用いることによってその再構築を省略させている。ただそれはあくまでも表向きの世界観であって、実はその奥深いところにあるものに対して説明を省いていることをうまく隠している。私はここに目をつけた。だからこそ押井作品には珍しい説明的台詞を受け入れることができた(私の知り合いの中には「あの台詞は説明的過ぎる」という者もいたが)。だからこそ押井守はまた暗黙知を突き崩した、と思い全身に鳥肌が立った。
もっと踏み込んでみよう。冒頭の戦闘シーン(Class A
City-13)で、絶妙なカメラアングルで緊迫感やリアリティを過剰なまでに演出している。例えばそのシーンの絵コンテでは「望遠レンズ使用」とか「広角カメラ使用」とレンズの指定まで入れている。これはフィルムに収めるカメラレンズの特性を使うためだ。一般に望遠レンズでは遠近感が失われ、広角レンズは画面の周辺が歪む。このアナログ的なレンズの特性を演出に盛り込んでいるのである。レンガ敷きの舗装道路を戦車(旧ソ連製T-72)が前面から迫ってくるカットでは望遠レンズを使用し、その遠近感を圧縮させることにより、より戦闘状況を、戦車の圧迫感を強調させている。また、C-13から移った荒地でアッシュが狙撃銃(旧ソ連製ドラグノフ、略名:SVD)を構えるカットでは広角レンズを使用しクローズアップすることで前方に突き出した銃身を歪ませながら強調している。
ちなみにアップになった女優の目じりのしわを消すほどの偏執狂でもある押井守が、C-13で建物から突き出している衛星放送受信用のパラボラアンテナを消去しないはずがない。明らかに意図的に残している。中世ヨーロッパ的な街の風景と近代を象徴するような衛星放送をある意味強引に結びつけることで「近未来感」を演出しているのだろう。実際、C-13の撮影中にベランダから身を乗り出していたカップルは画面上からはデジタル処理で消去されている。
といったように、「デジタルの旗手」として知られている押井守であるが、レンズの特性といったアナログ的な感覚もまた豊富であることがうかがい知ることができる。これは「映画千本斬り」のエピソード(押井守が大学生時代に『年間千本の映画を観た』と豪語していることより。キネマ旬報社の計算によると247日映画館に通い、毎週土曜日はオールナイトというペースであれば、不可能ではないらしい)と合わせて納得できる話でもある。大学時代に16mmフィルムで自主映画製作をした経験や、「Avalon」より前に3本の実写映画を制作していることも影響しているであろう。
まぁ、年間千本の映画を観るほどの映画狂であれば、スクリーンに映し出される虚構に現実味を覚えたり、自分が暮らしている現実に非現実感を感じることもあるだろう(この辺のエピソードについては自伝的小説「獣たちの夜」富士見書房刊 ISBN 4-8291-7449-8でも触れられている)。長年アニメーションの現場にいて、アニメを作っている側の人間なのか、アニメのキャラクターなのかがわからなくなるほど没頭していたこともあったらしい。
長く回り道をしてきたが、暗黙知を突き崩す姿勢は「Avalon」でも健在である。表向きは、失業して足を引きずっているスタンナが登場する"現実"世界ではシーンのほぼ全てが昼なのかも夜なのかもわからないようなセピア系のグレーで色を落とされている(ただひとつの例外は「食べ物」である。妙にこの押井守は「食べ物」に執着する癖があり(自分のことを「犬」と表現しているせいでもあるのだろうが)、感覚的、肉感的に強制的に生活観を叩き込む「食べる」というシーンで過剰演出する。あまりにも下品な食べ方をするスタンナを見て眉をひそめた人も多いだろう。スクリーンの中でもアッシュは不快感をあらわにしている)。人物もその動きを失い、表情もはっきりとしない(ゲーム中に出現する「ニュートラル・キャラクター」と同じ扱い。Class Real以外のゲーム中で「ニュートラル・キャラクター」を殺傷すると経験値がマイナスされる)。また、"現実"世界に登場する彫刻などの像に顔がないのも同じだ。
一転してClass Realでは人物は活発に動き、表情豊かで、彫刻などの像に顔が存在する(ビショップは彼らをはっきりと「ニュートラル・キャラクター」と表現している。Class Realではこの「ニュートラル・キャラクター」を殺傷するとゲームオーバーとなっている。現実世界でも「ニュートラル・キャラクター」を殺傷すれば犯罪者として社会から隔離される)。Class
SpecialAとしてのClass Realに直面したとき、総天然色(足そう古臭い表現だが)となったスクリーンに一瞬驚くだろう。
"現実"空間で仮想現実ゲーム「Avalon」に熱中し、上級クラスであるClass Aを越えたその先にClass Realと呼ばれるフィールドがある。ではこのClass Realが現実なのか。実はそうではない。劇中ビショップが言っているようにClass Realはテストフィールドであり、「Avalon」のシステムの中である。なぜなら、Class Aを越えた先で覚醒したアッシュが「Avalon」へ接続するヘッドギアを取ったその場所は、"現実"のアッシュのアパートから端末のディスプレイを除いた物が全て消えている部屋だったからだ(だから、犬の餌皿が端末横に置いてあったし、アッシュが窓を開けてみるカットが劇中に入っている)。しかもその部屋はアッシュが通い慣れたブランチ(「Avalon」への接続地点)の一室であるからだ。
決定的なのが、Class Realでアッシュに撃たれ倒れるマーフィーが、ゲーム中での死者と同じく消滅し、そして万雷の拍手があったばかりのコンサートホールは既に無人でステージには2人めの「Ghost」が存在する(「Ghost」はClass AからClass Realへつながるゲイトという設定だったはずだ)。そもそもビショップは「Avalon」のシステムの中に存在するキャラクターだったはずだ(システムの開発者「九人姉妹」からの使者と自らを称している)。
つまり、"現実"空間ですらも「Avalon」のシステム内部であり、ゲーム中であろうがなかろうが非(仮想)現実空間で構築されている。アッシュやスタンナ、マーフィー、ビショップといったキャラクターも観客(または監督)が欲したキャラクターであり、「Avalon」プレイヤーは観客(または監督)なのだ。そのことを強調させるためにClass Realで2人めの「Ghost」を登場させ、(コンテにもきっちり記述してあるが)「にやりと笑うGhost-悪魔のような残酷な笑い顔にも見える」のである(ちなみにこの「Ghost」がにやりとするシーンの動きは、真顔から笑みを浮かべた顔の間をモーフィングによってコンピュータグラフィックで生成している)。
ここでマーフィーの台詞を思い出してみよう。「現実とは思い込みに過ぎない」。現実とは人々の記憶の中にある言わば状況証拠のようなもので、脳が創り出している空間に過ぎない。「思い込み」とされても致し方ないことである。現実という暗黙知である空間を突き崩し、映画の設定という暗黙知も突き崩した(ややもするとスクリーン上が非現実空間である暗黙知すらも崩しているかもしれない)。それが「Avalon」なのである。
「Avalon」は結果ではなく新たなる出発点に過ぎない。海外での上映計画もあり、既に押井守の次回監督作品の制作はスタートしている(公開は2、3年後とされている。噂では士郎正宗原作「攻殻機動隊2」ということになっているが、私としては歓迎である。「攻殻機動隊2」は読んだが、より観念的になって、必要とされる知識としての整理しなければならない情報と、紙という2次元の世界に構築される世界からの情報が複雑に絡み合い、より難しくなっている。これをどうやって映像化するのか見ものではあるが、それが可能なのは私の知る限り、押井守以外に存在しない)。
現実、主観、意識、スクリーンの情報量をコントロールするための映像システムは出来上がった。もはやフィルム上、スクリーン上に表現されるものに限界がなくなった(例えば、C-13から移った荒地で対空戦車ZSU23-4、通称:シルカ(水冷式23mm機関砲を4門備えていて、毎分4,000発の発射が可能だが、砲身を保護するため、1回の斉射では40発まで、となっている)の撮影時は空砲アダプタが用意できなかったため、2門で200発実際に発射している。それをデジタル処理で4門斉射する映像になっている。反動やマズルフラッシュの影まで再現している懲りよう)。そして何よりもまず、「Avalon」のエンディングテーマ曲のタイトルは「Log in」である。
(2001. 2.18.)