第64回 引っ越し顛末記 (其ノ一)
例年になく異常な早さで桜が咲き、そして散り行く頃、私は連日終電で帰れればラッキー、タクシー、会社に泊り込み当たり前、土曜も日曜もない、という激務の最中にいた。まさに春を眺める余裕もなく、人間の生活としておそらく最低な毎日で、粉骨砕身、滅私奉公、次から次へとわいてくる仕事に忙殺され疲弊しきっていた。
それがひと段落し、落ち着きを取り戻しつつあったある日、無性に引っ越したくなった。圧倒的物量に囲まれ、いつ生き埋めになってもおかしくないほど私の部屋は末期的状態にあった。また、乗り換えがないとはいえ徒歩時間も含めると通勤に1時間をこえる(電車待ち時間を入れると1時間半になる)のが苦痛にもなってきていた。これは引っ越すしかない、と。
どうせ引っ越すなら値段も下がっていることだし中古のマンションでも買うか、みたいな軽い気持ちだった。賃貸にするにしても住所変更だ、保証人だ、敷金だ、家賃前払いだ、といろいろと面倒なことには変わりはないし、だったら買ってしまっても面倒、という点においては差はない、家賃程度の毎月の返済額に抑えれば生活に無理はかからない、という判断もはたらいた(2003年3月が現住所のアパート賃貸契約更新時期だったこともある)。
気楽、身軽な独り者なので、永住するつもりはさらさらないため、さらにまた引っ越したくなったら売ってもいいし、賃貸に出してもいい。そのときに考えればよいことだ。感覚的には不動産ではなく流動産である。不動産、一生の住まいとして身構えてしまうと視野が狭くなってしまいそうだし、なによりもまず幸せになる予定なんてまったくないので、ひたすらお気楽路線しか考えなかった。
と、いうことで、漠然と「買う」ということを考えていても、相場を知らないと話にならないので、とりあえずWebで調べてみる。条件は通勤時間の短縮くらいで、広さも間取りも築年数も関係なし、で検索してみるとピンからキリまででてくる。意外とあるもんだな、と思った。50平方メートル以上(現在の部屋が24.7平方メートルなので単純に倍、という指標)、築20年未満で絞ってみてもけっこうヒットする。なかには築1年未満専用駐車場(無料)付きというものまであった(なぜそのような物件が残っているか理由は不明)。
うるさい条件をつけなければいろいろ物件があることがわかったので、現物を見る、という段階に移るわけだが、闇雲に見に行っても時間と手間がかかるので、どうしたものかと思ったら、5月のある日、現住所の近所で30階建てタワー型高層新築マンションの現物内覧会の案内を配っていたので、この物件は買う意思はまったくない(通勤時間を短くしたいのに現住所の近くに買っては意味がない)が、何か基準となるものを見ておけば後々楽だろう、と思い、見に行くことにした。
予め参考のために見に来た、ということを担当の営業さんに告げた上で、26階の部屋に案内される。既に居住されている方々がいるので廊下やエレベータで軽く会釈し、愛想をふりまく。マイナスの印象を与えても得になることがないので。案内されてびっくり。区画整理された駅前再開発地区(あと2本30階建て高層マンションを建築中だ)に建っているせいもあって、完全な南向きなのである。当然26階という高さでは障害物の類なんてあるわけがなく、見晴らしは激烈的によい。下りながら間取りの異なるいくつかのタイプを見て回る。通勤さえ考えなければ悪いところなんて見当たらなかった。
見て回って気が付いたのだが、生活騒音がまったく感じられなかった、ということである。既に住んでいる人がいるので、歩く、声を出す、水を流す、などの生活騒音があって然るべしなのだが、ほとんどまったく感じないとはどういうことなのか。営業さんに聞いてみると、防音を念頭に置き、少し過剰気味に設計、施工しているとのことだった。完全な2重床でしかもその足の部分にはすべて防音ゴムを被せ、配水管は中が螺旋状になっている静音タイプを使い、しかも全ての配管に吸音シートを巻き、さらに防音加工を施したパイプスペースの中のみを通るようにしているとのこと。それで納得(最近の新築マンションはたいてい防音施工になっているとのこと)。
話のわかる営業さんで助かった。こういう営業さんを味方につけておくと楽である。有名マンション販売会社なので、無理にその物件を押し付けることはしないし、とにかく客の希望を第一に考えてくれるよう教育されている。それにいくらWebで情報が自由に得られるといっても個人では限度がある。表に出ない情報を持っているかもしれない。どちらにせよ情報を取捨選択するのは自分である。こちらも急いでいないし、それも彼らの仕事の一環なので、しばらく任せておくことにする。
ひたすらお気楽に構えていたので特に動いてはいなかったのだが、いくつか資料が郵送されてきた。通勤door to doorで乗り換えなし30分を切るエリアに、ただいま鋭意建築中の新築(1LDK)と築10年の中古(2LDK)が目にとまり、気になってはいた。この2つは広さはほとんど同じで、中古でもあまり値段は下がらないな、という印象だった。ただ、このときは新築物件の方は1LDKというのでマイナスのフィルターがかかっていた。
そうこうしているうちに、新築1LDK物件担当の営業さん(前出の営業さんからの紹介)から電話があり、一度見に来てくれないか、とのこと。たまたまその日は時間があったので、そのまま見に行くことに(このフットワークの軽さは「何も考えていない」とも言う)。6月の小雨が降る日のことだった。
最寄駅を降りてびっくり。駅前ロータリーからその物件が見えるのだ。近い。資料には駅から徒歩5分と書いてある。歩道橋を使えば駅まで信号を待つ必要がないので、体感的には5分より短く感じた。駅前再開発地域に隣接しているので都市生活を営む上の便はよいと思われた。この時点でもまだ50平方メートルを超えるとはいえ、1LDKという間取りがマイナスに感じていた。独り暮らしなんだから部屋数多くても使わないのだが、部屋はあった方がいいと思っていたからだ。
新築マンション購入の際は、モデルルームをどこか(近所でない場合もあるので要注意)に作っておいて契約をし、実物を見るのは完成したとき、というのが一般的であるが、この私が見に行った物件は建築中のマンションの中に内覧ルームを作っており、そこで商談、実際の部屋を確認という形態を取っていた。より実物に近い状態で物を見れるので良心的だ。
内覧ルームで営業さんと話をしていたら(営業さんいわく「新婚さん仕様」だそうで内覧ルームでは独り者である私にとって目の毒な光景が)、「じゃぁ、見ましょうか」ということで、黄色いヘルメットを手渡される。「?」である。「私どもは工事の段階からお客様に直に見ていただくことが信頼だと考えております」と営業さん。なるほど。めったに工事現場に立ち入ることは出来ないので、いい機会だと思って見に行くことに。紹介されたのはどこからどう見ても建築の職人の工事長さんと、小柄な女性の現場監督さん。工事長さんが案内してくれるとのことで、非常階段を上っていくことに(エレベータはまだ設置されていない)。さすがに最上階の10階まで階段はきつかった。息が上がる。
「コンクリート打ち終わってガワはがしたとこなんですよ」という本当に打ったばかりのコンクリートに触れる。一見する限りムラがなく、軽くたたいてみてどこも音が変わらない(当たり前。この時点で音が変化していたら欠陥工事である)。きれいに整っているのがわかる。そのことを言うと気をよくしたのかコンクリートの打ちかたについて説明を始める工事長。「今日はちょっと雨が降っていて残念ですけど日当たりが....」という営業さんを放っておいて、施工方法、材質選定などなど現場の人にしか聞けないような話をいろいろ受ける。私も日当たりよりコンクリート強度の方が関心がある。どうせお天道様が昇っている間は仕事で部屋に居ない。換気さえよければジメジメすることはない。
「7階は断熱材吹き付け終わったところです」というので7階に。「これ刺してみてください」と長さ30mmくらいのピンを渡される。断熱材が設定した厚さに吹き付けられているか検査するときのピンだそうだ。その厚さ25mm。15mmが一般的なところをわざわざ厚くしているのだそうだ。そういえば、コンクリート強度が設計値で建築基準法の1.2倍、施工直後のサンプル強度が1.5倍だったというのを思い出す(どうやらオーバースペックな設計らしい)。また、配管の静音加工の様子を見学。
5階に下りて、部屋仕切り用の内壁を施工しているところを見学。「ちょっと持ってみてください」というので実際に使っている強化アルミの建材を手にしてみる。見た目よりかなり軽い(さすがに強度確認はさせてもらえなかったが)。壁板固定用のビスは全てステンレス。単純な強度をみたばあい、普通の鉄(炭素鋼)とステンレスでは実はあまり差はない。逆に炭素鋼の方が粘りがある分だけ利点があるが、経年変化によって錆びる重大な欠点がある。錆びてしまえば強度を求めることはできない。マンションは長く使うのが目的なのでステンレスを使っているのだそうだ(ただしビス1本あたりの値段は倍)。なるほどなるほど。最後に1階のエントランスホールと屋内立体駐車場を見る。いつでも見に来てほしい、工事の節目節目で見に来ればもっとよく見えてくる、と言って工事長さんは仕事に戻っていった。
改めて内覧ルームを見直してみると56.9平方メートルの1LDKなので思ったより広く感じられる。バルコニーの面積を犠牲にして部屋の広さを確保、さらに部屋数を犠牲にすることで広く感じさせる設計であることの説明を受ける。確かにバルコニーは申し訳程度であるが、そこで生活するわけではないので狭くても全然かまわない。約12畳のリビングには広めの腰高窓があるので解放感がある。しかも、公園に面しており、面しているところに植えられている木はソメイヨシノ。おぉ、部屋の中から花見が出来る。床暖房に熱交換換気システム、全ての窓は2重ガラスで、1階から10階まで全ての窓に防犯センサー付き、郵便受け、駐輪場ですらセキュリティエリア内、という設備。当然床は2重で足には防音ゴム装着(目視確認済み)。
熱交換換気システムは日本の家屋には標準装備されていてほしいと思う。これにより夏には涼しく、冬には暖かく、しかも全体的に湿度を低く抑えることが出来る。また、部屋によって湿度に差が出ないため、カビが生えにくくなることも重要だ。カビは家屋の大敵である上に衛生的にもよくない。窓ガラスの結露も起きにくい。いいことばかりだが、一旦建物が建ってしまうと後から付ける事ができないのが難点だ。熱、気流を考え設計段階から組み込んでいないといけないため、リフォームでは実装が困難だ。特にマンションの場合、集中システムでないと意味がない。
もうこの時点ですっかり中古物件見に行く気を失って、この1LDK購入申し込み手続き(仮契約前)まで済ませてしまった即断即決。現金一括払いなんてできるわけがないので、住宅ローンの審査請求手続きも済ませる。納税証明取らねばならぬがまぁ、それは仕方がない。在職期間が3年未満だと審査が通らない場合があるそうで、万が一に備えて給与明細のコピーを用意しておくよう言われる。
住宅ローンの申し込みにおいて、マンション販売会社が提携している銀行がいくつかある中で、金利がお得ですよ、とある銀行のものを強く勧められた。この銀行とは私が現状取引がないので、新規に口座を作り、給与振り込み、クレジットカードの引き落としも移さなければならない。実はこれが私にとっては非常に面倒だったので、現在私がメインバンクにしている銀行も提携先のひとつであることから、金利だけでなく総合的に情報を集めて判断することにした(勧められるままにしても問題はなかったのだが)。
結局、金利の差は0.3%あるが、ATM時間外利用、振り込みなどの各種手数料の割り引き等を考慮して、私の現在利用している銀行のローンを使うことにした。トータルのサービスとして得になる部分が多かったからである。多少の金利の差は繰り上げ返済をすることであまり気にならなくなるだろう、という読みもあった。
2週間後、審査が通ったということで手付金払い込み。これで仮契約成立。工事の進捗確認もかねて物件を見に行って、売買契約書に署名捺印。これで契約成立。これでもか、というほど景気よく実印をぽんぽん押す。10階建ての6階だが、1階が屋内立体駐車場になっているため、2階分の高さがある。なので、普通の7階と同じくらいの高さ。角部屋。出窓あり。なかなか好条件である。あとは竣工時の手続きとして引き渡し書類に署名捺印し、諸費用の振り込み、ローンの頭金の振り込みを行えば完了。嗚呼、高い買い物をしたものだ。今後の人生の中でもこれ以上の衝動買いはないだろう。ついでに駐車場の申し込みもする(希望者の中で抽選後決定される)。月3万8千円は高いが、立地、セキュリティを考えるとべらぼうな額ではない。まぁ我慢の範囲内だ。いまいち実感がわかないながらもとりあえず自分の城を手にした気分になって意気揚揚。