第68回 コラム:ドールという記号
人形にはいくつかの種類がある。挙げてみると
- 愛玩人形(テディ・ベア、ミッキー・マウスなどを含む)
- 宗教人形(藁人形、奉納人形、埴輪、達磨、マリア像などを含む)
- 操り人形(文楽、人形芝居、人形劇、人形アニメーションなどを含む)
- 動く人形(自動人形、からくり人形、オートマタ、ロボットなどを含む)
- 特定用途の人形(マネキン、人体解剖模型などを含む)
- 芸術人形(美術、工芸で制作される人形などを含む)
などと分類される。ここで書きたいのは着せ替え愛玩人形やマネキン、宗教上の偶像などではなく、ハンス・ベルメールに代表される球体関節をもった美術人形として制作されるものについてだ。よってより範囲を狭めるべくあえて「ドール」と記述することにする。
最近になってドール、というキーワードを頼りに資料として集めたものを列挙する。
- 「特集ドール 人形の冷たい皮膚の魅惑」アトリエサード、書苑新社THシリーズNo.19
2003年9月10日発行、ISBN 4-88375-048-5 \1,280+税
- 「Emmuree アンミュレ 山吉由利子人形作品集」トレヴィル、リブロポート
1993年2月20日発行、ISBN 4-8457-0785-3 \1,854+税
- 「Katan Doll 天野可淡人形作品集」Synforest CD-ROM SF-019
1995年発売、\3,865+税
- 「生き人形 堀佳子の世界」フーコー、星雲社
1998年8月30日発行、ISBN 4-7952-3637-2 \2,500+税
- 「生き人形2」掘佳子、新風舎
1999年8月2日発行、ISBN 4-7974-1031-0 \2,800+税
- 「Dans Le Reve ダン・ル・レーヴ まどろみ 安藤早苗人形集」朝日新聞社
2000年10月1日発行、ISBN 4-02-330644-4 \3,000+税
- 「Ma Poupee Japonaise」Mario.A 論創社
2001年1月10日発行、ISBN 4-8460-0187-3 \5,000+税
- 「Astral Doll 吉田良 少女人形写真集」アスペクト
2001年11月7日発行、ISBN 4-7572-0865-0 \3,800+税
- 「Articulated Doll 解体人形 吉田良 人形写真集」エディシオン・トレヴィル、河井書房新社
2002年5月20日発行、ISBN 4-309-90488-2 \4,500+税
- 「Kira Doll 大野季楽人形写真集」幻冬社
2003年3月31日発行、ISBN 4-344-80228-4 \4,500+税
- 「涅槃 Nirvana」原田勝郎/粧順 茜新社
2003年8月8日発行、ISBN 4-87182-581-7 \2,667+税
我ながらよくこれだけ入手できたと思うほどに絶版であったり、そもそも流通量が極端に少ないために入手が困難なものもある(なぜここまで集める必要があったのか後述するが果たしてそれだけだったのか実は自分自身にもわかっていない)。ドール関連のムックのバックナンバーを紀伊国屋書店新宿本店に確認したところ、私が確認した前日に一気買いした人物がいたため、在庫がなくなってしまったという(私が敬愛する映画監督である押井守氏のインタビュー連載が掲載されてあっただけに入手できなかったのは激しく悔しい)こともあった。澁澤龍彦や四谷シモン、土井典のものがないのはどうも私の求めているものと方向性が違うのではないかと思ったからだ。
人形は「ひとがた」である。世界中至るところ、およそ人間が存在するところには必ず人形が存在するといっても過言ではない。人形には「偶」の字があてられることが多いが、そもそも「偶という字は人の姿を借りた神像を意味する」「人形は何よりも先ず人間以上の存在だったのである」(ともに荒俣宏氏談)ということからもわかるように、人間が投影された写像でありそれ以上の存在でもあった。しかし、宗教的意味合いや愛玩的意味合いが強くなってしまったがために禍々しいものだとか、幼児性を持つものとしてとらえられがちになってしまったのではないだろうか(マニアやフェティシズムのマイナスイメージも強いだろう)。
しかし、「ひとがた」をしていてもしていなくても彫刻という分野では像を作るということは立派に芸術作品、芸術の行為であり、人形でもビスクドールなどは芸術作品以外のなにものでもない(もともと二度焼きの陶磁器のことをbisqueという。フランス語でbis=二度、キュイ(cuit)からきている。ちなみにビスケットも同じ語源である)。ビスクドールの一般的な製法としては、素焼きの上に着色を施し、さらに焼く、という工程を経る。これにより人肌に近い発色と透明感が出せるのだという。そして数百年その色合いを失うことはない。だからこそここでドールという表記を用いている。
もともと私は人形(ドール)に関心がある方ではない。ましてやピュグマリオニズムも持ち合わせていない。たまたま前出の押井守監督の2004年春公開作品、「Innocense -The Ghost in The Shell 2-」(攻殻機動隊2)を読み解くキーワードとして人形がある、という情報を入手したからである(本人もベルメールに影響を与えたボーデ博物館のドールを目にし、「僕らの営為は人形を作るという原初的な営為に集約されるのかもしれません。」と記している(スタジオジブリの会報より))。
士郎正宗原作「攻殻機動隊」の世界では人間は3種類存在している。生身の身体のままの人間と(作中ほとんど登場しないが「企業のネットが星を覆い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来」という時代背景が設定されていることから推測)、電脳化(補助記憶、補助感覚、通信インターフェイスを電子化して搭載)しているが身体は生身の人間と、脳や神経系統だけは生体のままで全身(もしくは身体の一部)をサイボーグ化(作品中では義体化)した人間だ。電脳や義体のみならずその記憶までも操作する超ハッカー「人形使い」も登場した。そういう世界観では人間と人形の境界として線を引くことに意味がなくなってしまう(それ故、「攻殻1」の終盤で全身を義体化している主人公、草薙素子は苦悩した)。
そうなれば、現在の「ドール」という概念を強烈に私たちに植え付けた人物、ハンス・ベルメール(Hans BELLMER
1902-1975)の球体関節人形に触れなければならない(私のようなアマチュアな人間は現状では写真でしか接することはできないのだが)。球体関節を持つドールは後に数々の人形作家によって変化したり完成度を高めていったりしているので、いろいろと目にしなければならないと強く思ったのだ。ベルメールの人形はそもそも数が少なく目にすることはほとんど絶無であるし、写真集でさえも絶版でありよほどの幸運がない限り古書店でも目にすることはないだろう。だからこそ私には「数」が必要だったのだ。
既に前述した写真集での人形作家たちは感銘を受けたものにベルメールのドールを挙げているし、それぞれの表現方法で作品を形成している。2003年7月6日(日)NHK教育テレビ、「新日曜美術館」でも四谷シモンなど日本のドール作家の作品を紹介していた(ちなみにこの「新日曜美術館」制作にあたって押井守氏への取材もあったらしいが内容に変更があったため放送ではカットされてしまった....注:真相は企画内容が変更されたためオファーが来なかったようだ)。もしかしたら急速に日本ではドールというものに対して評価が高まっているのかもしれない。
前述の作品集、写真集を見ているとドール、という記号を与えたことによってより深くとらえることができるようになってきている自分に気が付いた。紹介や解説に載っているようなエロティシズムやフェティシズム、ピュグマリオニズムは私はまったく感じず、代わりに寂寥感、哀愁感が強く残る。ここで偶の字についての人間以上のものであり写像でもあるという視点で眺めてみると、写像であるはずのドールの写像が自分自身ではないのか、という不安が持ち上がってくる。彼女ら(彼ら)にドールという記号を与えてみたものの、人間、私自身記号のひとつでしかなく、誰かに認識されでもしない限り存在していないし生成されてもいないのではないか、と(確かに写真に写っているドールはドールとして存在感を持っているが、「物体」として見てしまったらそれは背景と同じ存在になってしまうのではないだろうか)。
人形の皮膚が冷たいとイメージしてしまうのも自分自身が冷たいからではないのか。このまま技術が進み、人間が義体化することによって体温そのものが無意味になるのではないのか。生きているとか死んでいるとかそういうことすらも、生死の境界すらも明解なものではないのではないか。ステレオタイプ化されたイメージが固着することで個はマス(大衆)となり、マスという記号でひとくくりになってしまっているのではないか。ドールがガラスの義眼で私たちを見ている様子は、私たちが主観というフィルターで事象を見ているのと同義ではないのか。実は投影や写像という概念すら無意味なのではないのか。本来人間は記号を対象に与えることによって対象を認識し、その記号をもってまた別の対象を記号化する。その記号化を繰り返す中で出来上がってくるものが言語であり意味であり思考であったりする。ところがドールという記号はその相対視的メタ視的概念を逆行させてついには振り出しに戻させてしまうのではないか。
Mario Aは「Ma Poupee Japonaise」の冒頭で記している。
「あなたも日本人の女性って、人形のようだと思いません?」
これはどこから見ているのか、何をとらえようとしているのか、というシチュエーションの違いで女性でも男性でも日本人でも他の民族でも人間全体であってもあてはまるのではないだろうか(たまたま作品の表現手段として日本人の女性をMario.Aは用いただけではないのか、と私は思っている)。
自分の存在を自分自身によって否定せざるを得ない、こういった感覚を今まで既に何度か感じてきたが、またしても、という感がぬぐえない。いつまで堂々巡りを繰り返せばよいのか。いつまでもこの既視感は振り払えないのか。本質にたどり着く、いや近づくことすらもできないのか。そもそも自分には現実を捉えようとする事すらも力及ばずなのか。
吉田良が「最初の人形を作ってから30年ほどの月日が経ちました。しかし未だに人形創造の旅は途上でしかありません。」と記しているように、出口のない自分探しの旅を私は続けているだけなのだろう。