当時の越中鉄道は、富山大橋を起点に、四方を経て堀岡、新湊に通ずる電車であた。大正11年12月に敷設免許を受け、13年10月に富山北口・四方間が開通し、15年7月に打出浜まで延伸し、さらに昭和4年7月に堀岡まで延長。さらに昭和5年12月に越の潟を通って東新湊まで延長された。昭和8年12月に現在の中伏木まで開通し全営業キロ数は20キロ余りとなった。
昭和18年1月に全県1社に合同され、社名も富山地方鉄道射水線とあらためられた。戦後昭和26年4月、国鉄新港線が廃止となり、これに代わって高岡駅まで延長された。富山新港造成のため、昭和41年4月5日地鉄射水線堀切鉄橋橋脚爆破で折り返し運転となる。
昭和55年3月31日、射水線の廃止とともにバス運行となる。現在存続が危ぶまれている越の潟・高岡間の万葉線だけが残されている。
B港口切断(主要地方道魚津・氷見線)
港口切断について。港の背後を大きく迂回する道路が昭和39年に新設されたものの、距離的時間的な損失が大きいとして、昭和41年4月に堀岡地区住民や通勤者が強く反対し地下道建設(地下道・橋)を要求した。当時は昭和37年から用地買収準備に入り、離農・離職者対策・移住問題・そして地元負担等早急に解決をせまられるいろんな問題が重苦しく住民の上にのしかかっていた時期である。当時の堀切切断反対の塔(1967)は住民の叫びである。
昭和42年11月23日港口が切断された。その後、昭和45年9月に県道堀岡・小杉線も貯木場誘致(姫野地区から七美地区に変更)のため切断をよぎなくされた。
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堀岡水郷地帯風景(郷社草岡神社周辺)
昭和30年代の懐かしい水郷風景である。放生津潟に注いでいた鍛冶川水系の本江、海老江、七美、堀岡地区の排水の幹線がなかったため、排水機場が新設(八講・海老江・堀岡)され、梅雨期や台風期に備えられた。土地が低いため、高潮時に塩が流入して水田に被害(塩害)をおよぼす事や、洪水時に潟の水位が下がらず水田に被害(水害)をおよぼした。今堀岡地区には田んぼは一つもない。
[しるべ8月号 2001.8.25 tamio]