「しるべ」とは、みちびき、指南、案内等の意味を持ちます。都市のなかでの人間の行為に直接指示を与えるのです。信頼を受けた選良として常に最良の行為を支持して欲しいとの願いを込めて「しるべ」と名付けました。  新湊大橋調査に戻る | 橋の種類 | 港口切断 | 港口写真 | 期成同盟会 | 予算計上 | 埋立前の海岸 | 発信地 |

しるべ政策研究会




 私は新湊市議会議員 菊民夫 です。 ■しるべ8月号 2001■
市政談議 
新湊大橋の実現に向けて
新港造成のため港口切断





富山新港造成計画と新湊大橋の話
<昭和41年の堀岡地元要望から35年目である。>


@港口切断(堀切制水門)

 放生津潟の周辺は土地が低く、農民は水害や海水の逆流による塩害に悩まされていた。昭和16年当時の堀岡村長竹脇敬茂によって提唱され、昭和27年に堀切制水門が完成したが、その後富山新港造成のために昭和42年11月に港口切断が行われた。完成から15年でその短い任務を終えた。

昭和27年完成の堀切制水門 撮影菊弘



A港口切断(地鉄射水線の堀切鉄橋)
 当時の越中鉄道は、富山大橋を起点に、四方を経て堀岡、新湊に通ずる電車であた。大正11年12月に敷設免許を受け、13年10月に富山北口・四方間が開通し、15年7月に打出浜まで延伸し、さらに昭和4年7月に堀岡まで延長。さらに昭和5年12月に越の潟を通って東新湊まで延長された。昭和8年12月に現在の中伏木まで開通し全営業キロ数は20キロ余りとなった。
 昭和18年1月に全県1社に合同され、社名も富山地方鉄道射水線とあらためられた。戦後昭和26年4月、国鉄新港線が廃止となり、これに代わって高岡駅まで延長された。富山新港造成のため、昭和41年4月5日地鉄射水線堀切鉄橋橋脚爆破で折り返し運転となる。
 昭和55年3月31日、射水線の廃止とともにバス運行となる。現在存続が危ぶまれている越の潟・高岡間の万葉線だけが残されている。

射水線の堀岡〜東新湊間は昭和5年12月23日に開通した。 (堀岡〜堀切鉄橋〜越の潟〜東新湊間) 撮影菊弘



B港口切断(主要地方道魚津・氷見線)
 港口切断について。港の背後を大きく迂回する道路が昭和39年に新設されたものの、距離的時間的な損失が大きいとして、昭和41年4月に堀岡地区住民や通勤者が強く反対し地下道建設(地下道・橋)を要求した。当時は昭和37年から用地買収準備に入り、離農・離職者対策・移住問題・そして地元負担等早急に解決をせまられるいろんな問題が重苦しく住民の上にのしかかっていた時期である。当時の堀切切断反対の塔(1967)は住民の叫びである。
 昭和42年11月23日港口が切断された。その後、昭和45年9月に県道堀岡・小杉線も貯木場誘致(姫野地区から七美地区に変更)のため切断をよぎなくされた。

昭和32年以前は木造の橋であった 撮影菊弘(当時護岸の工事写真) 昭和32年に橋脚・橋桁ともに鉄筋コンクリ−トの永久橋となった。 写真提供新湊市(昭和34年頃) 港口切断の遺跡それとも生き証人? 撮影菊民夫(2001.8)
切断前の港口 県道魚津・氷見線(上) 射水線堀切鉄橋(中) 堀切制門(下) 写真提供新湊市(昭和34年頃) 切断前の港口写真 写真提供新湊市(昭和34年頃)
昭和41年4月地下道建設を要求(1966) 写真提供新湊市 昭和42年11月23日、午前5時40分、朝もやをついて港口の切断がはじまった。写真提供北日本新聞 北日本新聞報道大橋着工の報道1.8.23(2001)

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堀岡水郷地帯風景(郷社草岡神社周辺)
 昭和30年代の懐かしい水郷風景である。放生津潟に注いでいた鍛冶川水系の本江、海老江、七美、堀岡地区の排水の幹線がなかったため、排水機場が新設(八講・海老江・堀岡)され、梅雨期や台風期に備えられた。土地が低いため、高潮時に塩が流入して水田に被害(塩害)をおよぼす事や、洪水時に潟の水位が下がらず水田に被害(水害)をおよぼした。今堀岡地区には田んぼは一つもない。

新湊市博物館提供

[しるべ8月号 2001.8.25 tamio]


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