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絆 −きずな−
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大怪獣東京に現わる
ある日の昼下がり、福井県三国町の専業主婦・田所君枝(桃井かおり)が、
茶の間で茶菓子とともにTVを観ていると、突然とんでもないニュースが流れ始めた。
正体不明の大怪獣が東京湾から上陸して東京を荒らしまくり、東京は壊滅状態にあるというのだ。
テレビもラジオも怪獣のニュース一色で、評論家やコメンテーターが激しく論じあっている。
しかし、ここは福井県。東京との間には、高い山が連なっている。
いくら大怪獣といえども、ここまでやってくるはずはないと、
最初は他人事のようにテレビに見入っていた君枝たちだったが、
大怪獣は連なる山を踏み越え、どんどん福井県に近づいて来た。
慌てた君枝は、福岡の親戚のところに避難しようと考えるが、
その矢先、突如福岡に第二のカメ怪獣が現れる。
やがて大怪獣とカメ怪獣は引き付け合うように進み始め、琵琶湖付近で激しい戦いを繰り広げた。
松竹が贈る、東宝『ゴジラ』と大映『ガメラ』のパロディ映画。
それも、タイトルでデカデカと『怪獣映画』と出るのにも関わらず、
大怪獣もカメ怪獣も画面上には一切姿を現さず、
全てテレビのコメンテーターと三国町の人々の慌てぶりだけで語られる
『怪獣の出ない怪獣映画』というアイデアは、パロディとしては一級品だと思います。
しかも、それを舞台を大怪獣に襲われた東京ではなく、東京から少し離れた福井県にしていることで
大怪獣襲来の危機に瀕して慌てながらも、出演者はどこかみんな能天気で、
ノリとしては、火星人襲来映画『マーズアタック!』風といったところでしょうか。
しかし、前半の徹底的なバカっぷりに比べ、肝心の後半のギャグがいまいち弱い気がしました。
やってることはバカバカしいのですが、笑いのツボに来ないのです。
方言で話しているため、意味が分からないまま置いて行かれたという感もあります。
ラストシーンもねぇ・・・ギャグなんでしょうが、笑えませんでした。
これは監督次第でもっと面白い作品に仕上がっていたと思います。少し残念でした。
レベル2.5
愛を乞うひと
照恵(原田美枝子)は早くに夫を亡くし、高校生の娘・深草(野波麻帆)と二人で暮らしている。
照恵は幼い頃に死んだ父・陳文雄(中井貴一)を弔うため、
今はどこにあるか分からないその遺骨を探し出そうと決意する。
昔、父は幼い照恵を連れて、母親・豊子(原田美枝子・二役)の元を去った。
やがて父は結核を患って亡くなり、ひとりきりになった照恵は施設に預けられる。
そこへ豊子が照恵を引き取りに来るが、豊子が照恵を連れていった先には、
新しい父親・中島と、弟の武則が居た。
豊子は照恵を邪険に扱い、自分が気に入らない言動をとると激しい折檻をした。
その後、豊子は中島と別れ、今度は“引き揚げ寮”に住む和知のもとに転がり込む。
その頃から、豊子の照恵に対する折檻はどんどんひどくなっていった。
そんな子供の頃の記憶を胸に抱きながら、今は中年女性になった照恵は、
わずかな手がかりを頼りに、父の遺骨を探して訪ね歩く。
予告編を観た時、私はこれは絶対に観たくないと作品だな、と思いました。
私は不幸を売りにして観客の同情を買い、涙を誘おうとする作品が大嫌いだからです。
まるで「おしん」や「あ丶野麦峠」のような、日本映画独特の暗さを持つ作品。
それが予告編を観た時の私の印象でした。
しかし、この作品はモントリオール世界映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。
世界で認められた日本の作品がどんなものなのか、それを確かめるべく観に行ったのですが・・・。
やっぱり、私はダメでした。
海外の評論家たちは、この作品のどこに魅力を感じたのでしょうか。
登場人物の言動は今ひとつ納得いかないものばかりで、
私はまるで理解の出来ない他人の家の中を覗き見ているような感覚にとらわれていました。
母・豊子の、娘・照恵に対する虐待は相当なもので、
無抵抗の子供を殴る、蹴る、髪をつかみ振り回して壁や床に叩き付ける、タバコの火を押し付ける・・・。
照恵が泣き叫んでも、許しを乞っても、吐いても、血を流してもお構いなしです。
原田美枝子の幼児虐待ぶりはとにかく凄く、
子供を折檻して殺してしまう親が実際に存在していることを考え、
そこでこんな光景が繰り広げられているのかと思うと、ゾッとしました。
しかも、豊子が照恵を虐待することには「理由」がありません。
いえ、本当はあるのかもしれません。でも映画の中では明らかにされないのです。
照恵の母親に対する気持ちも疑問が残りました。
あれだけの虐待を受けながら、「私は母が好きだった」と言います。
私にはその理由が全く分かりません。
その理由の手がかりになるようなエピソードがないからです。
2時間15分という長めの時間をかけた割には虐待のシーンに重点を置き過ぎていて、
主人公と、彼女たちを取り囲む人々ひとりひとりの設定がぼやけてしまっています。
とにかく「なぜ?」という疑問が残りすぎた作品でした。
これはハッピーエンドのお話なのでしょうが、私にはすっきりしないものが残りました。
私は当然泣けませんでした。
でも、会場のあちこちからはすすり泣きも聞こえてきたので、単に好みの問題かもしれません。
賞を貰っているということは、見る人によっては素晴らしい作品だということでしょう。
好き嫌いが、はっきり分かれる作品だと思います。
レベル2
「愛を乞うひと」に関する私の疑問あれこれ(ネタバレあり)
アンラッキー・モンキー
山崎(堤真一)と西田(サブ)は、銀行強盗を企てていた。
しかし、ふたりがマスクをかぶって目的の銀行に踏み込もうとした瞬間、
同じマスクをかぶり、黒いカバンを小脇に抱えた全く知らない男が、
警備員に追われながら二人をめがけて銀行から駆け出して来た。
山崎と西田は事の顛末が飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
警備員に追い掛けられた男は、飛び出した道路で車にはねられてしまい、
そのはずみで持っていたカバンを投げ出す。
そして、男が投げ出したカバンを受け止めようとした西田もまた、
男と同じように車にはねられてしまった。
勢いで宙を舞ったカバンは、気づくと山崎の手の中に。
山崎は呆気にとられていたが、警備員は今度は山崎を捕らえようと駆け寄ってくる。
とっさに山崎がとった行動とは、逃げることだった。
何がどうしてこうなったのかはよく分からないが、山崎はカバンを小脇に抱え、
銀行に踏み込むために用意していた包丁を手にしたまま、とにかく逃げた。
ひたすら走り続けた山崎は、とうとう警備員を捲くことに成功したようだった。
しかし、ホッと一息ついて振り返った瞬間、彼の目の前に一人の女(吉野公佳)が立ちふさがる。
気づくと、山崎が手にしていた包丁が彼女の腹部に突き刺さっていた。
「弾丸ランナー」「ポストマン・ブルース」に続く、サブ監督&堤真一コンビの3作目。
私は前2作は未見なのですが、その2作共とても評価が高い作品なので、
3作目であるこの「アンラッキー・モンキー」には非常に興味がありました。
しかし、期待が大きかったせいか、思った程の作品ではなかった感じがします。
銀行強盗を企てながらも、銀行に踏み込む前に偶然大金を手に入れてしまい、
それが引き金となって巻き起こる、数々のアンラッキーな出来事の連続の物語。
堤真一演じる主人公・山崎が、町内会の環境汚染説明会に紛れ込んでしまうまでの
導入部はかなり面白かったのですが、
中盤からそれと平行して語られるヤクザのエピソードが多すぎて、少しダレてしまいました。
想像していたより、私が苦手とするバイオレンスシーンが多かったのが、
退屈さを感じる原因になってしまったのだと思います。
主人公が殺人の罪にさいなまれる後半も、少ししつこい感じ。
前半のテンポの良さに比べ、後半でテンポダウンしてしまったところが残念でした。
それでも、山崎とヤクザの3人組の身にそれぞれに起こった偶然のアンラッキーな出来事が
ひとつの結末を導いていく、という構成は見事。
「そんなバカな・・・」で始まった出来事に、「そんなバカな・・・」というようなオチをつけてしまうところも
決して嫌いではありません。
セリフがひとつも無いヒロインの吉野公佳は、それがかえってその存在を強く印象づけていたと思います。
レベル3
BEAT
1960年代、米軍統治下の沖縄。
ミチ(内田有紀)は黒人兵にレイプされて出来てしまった子供マリアを育てながら、バーで働いている。
同じバーで働くタケシ(真木蔵人)とは、かつて恋人同士だったが、
ミチがマリアを産もうと決心した時に、2人は別れを選んだのだった。
ある日、タケシは米軍支配に対抗する気持ちと自分自身へのいらだちから、夜空へと照明弾を打ち上げていた。
すると、その光の中からひとりの少年(平田直人)が落ちて来る。
それは、名前すらない不思議な少年だった。
少年はミチやマリアと心を通わせ、それと共にミチとタケシも恋人同士だった頃のように心を通わせ始める。
ミチには沖縄を逃げ出しベトナムへ行きたいという希望があったが、
タケシと気持ちを通わせるうち、そんな気持ちも消え去ろうとしていた。
しかしベトナム戦争が激化し始めた時、タケシの親友の米軍兵ライアンが、
ミチを連れて派遣先のベトナムに行きたいと切り出した。
ミチがそれを断ると、激怒したライアンはマリアを誘拐してしまう。
ミチとマリアが傷つくのを救うことが出来なかったタケシは自己嫌悪に陥り、ミチの前から姿を消す。
舞台演出家の宮本亜門が、初めて映画に挑戦したという作品で、
試写会の舞台挨拶に立った宮本氏は、この作品の自信の程を意気揚々と語っていらっしゃいました。
しかし・・・作品は退屈の極みでした。
確かに1億円かけて60年代の沖縄を隅々まで再現したというセットは凝っていました。
この作品で脱・アイドルを図ったという内田有紀も熱演していました。
しかし、それだけ。
この映画が、どういうストーリーであったかすら、私には分かりませんでした。
上に書いたストーリーは、私の理解の程度を表しています。
自分で読んでみてもよく分かりません。ごめんなさい。
でも、本当に何が何だかさっぱり分からない作品だったのです。
主人公たちが何を求めて、何のためにその行動を起こしているのかが全く理解出来ません。
舞台なら、主人公たちはセリフで気持ちを表現することでしょう。
でも、映画はセリフのない部分でも気持ちを表現しなければなりません。
舞台演出家が“気持ちの表現”を最も重要とするシリアスな映画を撮ってしまったからなのでしょうか。
セリフや語り以外では、主人公たちが何を考えているのかが分からないのです。
それに、監督が自分の舞台の常連を使っているのでしょうか、
舞台のようなしゃべり方をする脇役の俳優のセリフも鼻に突いたし、
ストーリー上、重要なポイントとなるはずの“空から落ちてきた不思議な少年”の存在も意味不明。
入り口でもらったチラシに“空から落ちてきた不思議な少年”と書いてあったので
“ああ、そうだったのか”と思ったのですが、書いてなければただの“変な少年”です。
あの子は一体なんだったのだろう、で終わりそうです。
最初から最後まで理解不能でした。
宮本亜門と私の感覚が合わないだけなのでしょうか。
レベル1
内田有紀はベッドシーンにも挑戦しています。(ちょっとだけね)
脱・アイドルの有紀ちゃんを観るための作品でしょう。
アンドロメディア
ずっと好きだった幼なじみのユウ(原田健二)に、なかなか気持ちを伝えられない高校生の舞(島袋寛子)。
しかし、その想いがようやく通じた帰り道に、彼女は交通事故で死んでしまう。
舞の父親で天才コンピューター・プログラマーである人見俊彦(渡瀬恒彦)は、
極秘研究中だった人間の脳をコンピューターに移すプログラムを完成させ、生前の舞の記憶をインプットして、
コンピュータの中に舞の完全なるコピー『AI(アイ)』を作り出す。
一方、人見の研究を狙う謎の組織のボス・ザッカー(クリストファー・ドイル)は、
部下の黒澤(竹中直人)に命じてそのプログラムを奪おうとしていた。
ザッカーはそのプログラムを使い、自分自身がコンピュータの中に入り込んでネットワークを自由に操り、
世界征服を企んでいるのだった。
黒澤は人見の自宅に侵入し、彼を射殺するが、『AI』は間一髪でネットワークの中に逃げ込み、
インターネット上をさ迷って、ユウの元にたどり着く。
ユウはパソコンの中に突然現れた『AI』に驚くが、それをまるで舞との再会のように喜んだ。
しかし、ザッカーの追手は『AI』の居場所をすぐに発見し、ユウの持ち歩くノートパソコンを狙って彼を追い掛ける。
ユウは舞の生前の友人たち(上原多香子・今井絵理子・新垣仁絵・DA PUNP)の手を借りて、
『AI』を守るべく組織の追求をかわしていくが・・・・。
サブタイトルを「SPEEDと危ない奴ら」と付けてあげたいくらい、危ない人たちがいっぱい出てくる作品です。
というより、SPEEDを含め、危ない人しか出てきません。
見た目からイッちゃっているザッカーと黒澤はもちろんのこと、
死んだ娘の記憶をコンピュータの中のバーチャル娘にインプットし、
そのバーチャル娘に「お父さん」と呼ばせて喜ぶプログラマー・人見は、普通の人から見ればただの危ないおじさんだし、
パソコンの中に蘇った舞のコピーを見て、舞自身が生き返ったかのように喜ぶユウや友人たちも十分に危ないです。
バーチャル世界に生きる『AI』の存在自体を否定してしまえば、この映画が成り立たないのは分かっていますが、
この作品に出ている全ての登場人物が『AI』の存在を肯定してしまっていることで、映画自体がバーチャル化してしまい、
観ている自分の視点をどこに持っていけばいいのか分からなくなってしまっています。
つまり、パソコンの中で死んだ人間が蘇っていることに対し、誰も気味が悪いと思わないことが私には不気味で、
命をかけてまで舞のコピーに過ぎない『AI』を守ろうとする人間たちの行動が理解出来ないのです。
本当は感動すべきシーンなのかもしれませんが、
ユウが舞との思い出のある遊園地に行き、パソコン上の『AI』と共に思い出を語りながら
メリーゴーランドやコーヒーカップに一人で乗っている姿は、私には不気味な光景にしか見えませんでした。
怪しいオーラたっぷりの舞の異母兄である天才ハッカー・高中も、最初から最後まで訳が分からない存在で、
パソコンおたくのくせに、やたら色黒でケンカに強いというのも、なんだか変な感じです。
それから、準主役という位置づけの“DA PUNP”の出演は全く無意味。
あってもなくてもいいような役柄で登場して、突然踊りながら持ち歌を歌い出し、たっぷりと一曲見せてくれるのです。
少し前に公開になった、同じ松竹の「ジューンブライド」の中でも
ミュージシャンの“PENICILLIN”が全く無意味に2曲ほど演奏する、というのがありましたが、
こうも立て続けに見せられると、松竹の『映画を作ろうとする気持ち』を疑ってしまいたくなります。
それに、『友情出演』で堂々とクレジットされている椎名桔平の出演は、たったの数秒。
それも、あってもなくてもいいような役柄です。
これじゃ、彼目当てで観に来るファン(そういう人もきっと居ますよね)は怒っちゃいますよ。
“DA PUNP”も椎名桔平も、すっかり客引きの材料として利用されているという印象を受けました。
原作者の渡辺浩弐は「1999年のゲーム・キッズ」や「BLACK OUT」という作品で、
この「アンドロメディア」に通じる世界を描いており、私はなかなか興味深くそれらの本を読んだことがあるのですが、
これらの作品が面白かったのは、その世界には悲劇しか無く、結果的にその世界を否定しているからでした。
「アンドロメディア」も、あるいはそうなのかもしれせんが、この映画からはそれが伝わってきません。
監督の三池崇史もなかなか面白い画を撮る人で、いくらアイドル主演とはいえ、この2人の組み合わせということで、
ただのアイドル映画にとどまらないことを期待していたのですが、やっぱりただのアイドル映画に過ぎませんでした。
レベル2
“ザッカー”って、いかにもマンガチックな悪役の名前。
関係ないけど、クリストファー・ドイルって下田景樹に似てない?
不夜城
古買屋をしている健一(金城武)は、台湾人と日本人の混血。
台湾人社会にも日本人社会にも属せず、中国マフィアの溢れる新宿・歌舞伎町で
綱渡りのような危険な生活を送っている。
ある日、健一は上海マフィアのボス、元成貴に呼び出される。
健一のかつての相棒である呉富春(椎名桔平)が街に戻ってきたというのだ。
以前自分の幹部を富春に殺されて以来、彼への怒りが消えていない元成貴は、
健一に3日以内に富春を探し出して自分の前に引きずってこいと要求する。
そんな折り「富春を売りたい」という女、夏美(山本未来)が健一の前に現れる。
見終わった時、思わずため息が漏れてしまったような作品です。
ゼンゼンだめ。
まず、これまた私の一番痛いところを突かれた、中国人名攻撃。
上海マフィアの元成貴、北京マフィアの崔虎、そして台湾の楊偉民という名前が次々に登場し、
彼らが複雑に絡み合って抗争を続けていることで、もう訳が分からなくなってしまいました。
主人公の背景に描かれている人物の関係がとにかく複雑すぎて分かりにくいのです。
撮っている方は分かっているかもしれませんが、何の予備知識も持たない初見の観客に
映像のみでそれらを十分に説明できなければ、映画はダメだと思うのです。
それに、監督・李志毅(リー・チーガイ)は、とにかくかっこいい映像を撮ることのみに走りすぎ。
まるで金城武のプロモーションビデオを見ているようで、登場人物の気持ちが全く伝わってきません。
夏美という女も、どういう女なのかがよく分かりませんでした。
登場した時に、部屋に入り込んだ初対面の男に拳銃を突き付けられても、
全く動じないというしたたかさを見せておきながら、
その後の行動を写し出すたび、どんどん理解出来ない女になって行くのです。
あれでは“ナゾの女”というよりは、ただの“訳わかんない女”でしょう。
だから健一がなぜ夏美に惹かれたのか、それも分からなくなってしまうのです。
健一がラスト近くに
『あの時、部屋に入らなければ良かった。トランクなんて開けなければ良かった』
と繰り返しますが、最後に夏美にどんな感情を抱いていたのかが分からないため、
このセリフの意味が分かりませんでした。
レベル1
とにかく観てる方は、わかんないことだらけ。
撮ってる人たちだけで楽しんでる映画、って気がしました。
中国の鳥人
商社に勤める変凡なサラリーマン和田(本木雅弘)は入院した同僚の岡村に代わって急きょ
専門外のヒスイの輸入の為、中国・雲南省へ出張が決まった。
初めての中国に不安と戸惑いを覚えながら、とある駅に降り立った和田は、
変な日本語を話す中国人通訳・沈(マコ・イマツ)に迎えられてひと安心するが、
それも束の間、和田は狂暴かつ横暴なヤクザの氏家(石橋蓮司)と、それからの道程を同行するハメとなる。
氏家は和田の会社に貸しがある組長に命じられ、鉱脈の取引を見張りに来たのだった。
こうしてミャンマーとの国境に位置するその小数民族の村へと向かい、和田、氏家、沈の三人は出発した。
道なき道を進み、嵐に出会い、亀に引かれるイカダで川を下り、数々のトラブルに見舞われながらも、
彼らは数日かけてようやくその村にたどり着く。
山奥の秘境のその村で一行が見たものは、背中に羽をつけて飛び跳ねる子供たちの集団だった。
それは鳥のように空を飛ぶための“鳥人学校”というもので、
和田はそこで“飛ぶこと”を教えている青い瞳の娘、燕(王麗惣)に不思議な魅力を感じる。
都会の喧騒を逃れ、雄大で美しい山々に囲まれたゆっくりと時間の流れる村で純粋で素朴な村人たちと接しているうち、
和田と氏家は、この村での生活に人間的な懐かしさと魅力を感じ始める。
しかし二人の帰国の時は近づき、日本に帰りたくないと感じた氏家は、ある事件を起こした。
椎名誠の同名小説を、若手監督・三池崇史の手によって映画化。
それぞれの理由により、不本意ながら中国の奥地を訪れることになった平凡な商社マンと訳ありのヤクザが、
その雄大な自然の中に身を置くうち、自分たちが都会で強いられている生活こそが
不本意であることに気付いて行く物語です。
都会の喧騒と中国の雄大な自然を対比させるような手法の撮影方法が面白く、
監督・三池崇史には、なかなかのものを感じました。
和田が氏家に語るセリフの中で、
『この地球上には前人未到の地は必ずあると思うが、
そこでもこうやって陽が昇って沈むということが繰り返されていることを考えると、それはすごいことだと思う』
というものがありましたが、それがとても印象的でした。
自分が昔、旅行先で今までに見たことのない、とても美しい夕日を見た時に、
『ここでは毎日こんなに美しい風景が繰り返されているのに、
今まで私はそれを知らずに過ごして来たんだな』と思ったことをふと思い出してしまいました。
休暇を取ってのんびりした場所に旅行に行った時、旅先でふと職場でのざわついたイメージを思い浮かべ
こんなふうにのんびり毎日を過ごせたらいいのにな、と思うことはよくありますが、
それが非日常であるからこそ、旅は楽しいもの。
それを日常にしてしまえば、そこでの生活は退屈きわまりないものになってしまうことは分かりきっています。
だから私たちは旅を終えてざわついた日常に戻っていくのだし、それがごく一般の人間の選ぶ道でしょう。
だからこそ、映画の中では一般の人間では為し得ないものを見せて欲しかった気がしました。
“ヤクザ”という特殊な職業の氏家はともかくとして、普通のサラリーマンである和田の生活が
あの中国での経験をもとに、その後どう変化したのか。
それがただの旅の記憶にとどまってしまったことで、観終わった時に何かもの足りなさを感じてしまったのです。
レベル3
あんなサバイバルな生活の中でも、モッくんに無精ひげが生えてこないのには感心しました。
てなもんや商社
1987年、美大に7年通ったひかり(小林聡美)は、「就職なんて結婚までの腰掛け」と、
何の目的もないまま就職活動に臨んでいたが、ことごとく不採用の通知を受け取っていた。
そして22社目に受けた、中国相手の貿易をしている萬福中国貿易にようやく合格。
もちろん中国語が出来るわけでもなく、それでも「入ってしまえばこっちのもの」と大喜びするひかりだったが、
やり手の王課長(渡辺謙)が率いる営業部に配属され、有無を言わさぬその強引な仕事ぶりに、
「適当に仕事して、仕事のあとにいっぱい遊び、めでたく結婚して退職」という入社当初の目論見は、
もろくも崩れ去った。
王課長の助手として日々奔走していたひかりだったが、ある日突然中国への出張を命ぜられる。
王課長の同行で、お得意様の接待と北京の工場での検品を兼ねた出張だったのだが、
お得意様の接待が終わると、検品をひかりに全て任せ、王課長は上海に行ってしまう。
ひとり取り残されたひかりを襲う、トラブルの連続。
しかし小さいことにこだわらない中国人たちの持つパワーに触れ、
広大な平原に身を置いているうち、ひかりの中で様々な意識が少しずつ変化していく。
「毎日が夏休み」系の、ハートフル・コメディ。
小林聡美の持ち味を最大限に生かした“星野ひかり”というキャラもよいのですが、
メガネに口ヒゲの怪しげな中国人という意外な役柄に挑戦した渡辺謙演じる“王(ワン)課長”がまた良いです。
男女の差別なく山のような仕事を与え、当たり前のように残業はバンバン申し付けるし、
入社したばかりのひかりに急に中国の出張に同行させ、現地で「別件があるので、あとはよろしく」と、
現地での仕事を任せて、彼女をひとり残して去ってしまうような人。
でも、ひかりが取引先で失敗してしまった時そのことを一言も責めず、叱られないことを不信がったひかりに対して、
「本人が反省していれば、叱る必要はないでしょう。叱れば、叱られたことで本人は満足してしまう」
と言ってのけるのです。名言だな、と思いました。
そんなことを言われれば、本人には二度と失敗しまいという自覚が生まれます。
仕事に対しては厳しいが、常に穏やかで優しく、部下の扱い方を実によく心得ている。
自己の利益のためでなく、部下を成長させようという気持ちで仕事を申し付ける。
そして、周りからの信頼も厚く、自分に対する向上心も忘れない。
おまけに本場仕込みの中華料理の腕は絶品で、休日に部下を自宅に招いて手料理をご馳走してくれる。
こんな上司はなかなかいるものではありません。
まさに理想の上司です。
入社して数年経ち、王課長の仕込みですっかり仕事のノウハウを覚え、
たくましく成長したひかりが、なんだか羨ましく思えました。
ひかりの一風変わった家族や、萬福中国貿易の社員たちのキャラクターも面白く、
彼らからも“なるほど”と思わせるような名言も数多く飛び出します。
気持ち良く笑え、観終わったあとにすがすがしい気持ちになれた作品でした。
レベル4
こういう日本映画がたくさん作られることを期待します。
ジューンブライド/6月19日の花嫁
池野千尋(富田靖子)が気が付くと、そこは見知らぬ男・前田一行(椎名桔平)の部屋だった。
自分に関する全ての記憶を失い、自分の名前すら覚えていなかった彼女が覚えていたことはたったひとつ。
それは6月19日に結婚式を挙げるということだけだった。
6月19日まで、あと1週間。
千尋はかすかな記憶を頼りに、自分の過去を探し始める。
しかし行く先々でさまざまな人に出会い、ひとつづつ過去を取り戻す度に、
ある時は精神科に通うホステス、ある時は劇団の研究生、ある時はパソコン関係の会社の社員と、
さまざまな顔を持つ自分や、自分に関わりのある男たちが次々と浮かび上がる。
プロットはミステリー調で、面白そうだったのですが・・・・。
この作品、完全に映画をナメてます。
まず冒頭のシーンで、“舞台”における劇中劇を延々見せられるのですが、
バリバリの日本人二人(ひとりは風間トオル)が演じているその役名は、“ブラッド”と“レオナルド”。
もちろんブラピとディカプリオをパロっているには違いないのですが、
それを大袈裟な芝居で真剣にやっているのだから、ふざけてるのか何なのかよく分かりません。
そうこうしているうちにその舞台劇が終わると、後方からミュージシャンの“PENICILLIN”が登場。
タイトルバックで見事に1曲演奏してくれます。
舞台芝居を見に来たはずの観客たちは、ライヴに来たかのように手拍子&黄色い歓声。
もう、オープニングでいきなりゲンナリです。
パソコンを操作する富田靖子の口から飛び出す、不自然なパソコン用語もおかしいし、
“これがインターネットだ!”と言わんばかりの画面表示も滑稽。
記憶喪失だと言っている池野千尋は、どう考えても多重人格者としか考えられないし、
ホステスに扮している時の富田靖子は全く役にハマっていなくて、どう見てもヤンキーにしか見えないのに
どうしてあのコに男たち(それも医者とか)が群がるのかが疑問でした。
野村宏伸、保阪尚輝、南野陽子、斉藤由貴、篠原涼子など、多数の若手俳優たちが脇役で出演していますが、
それが余計に映画を安っぽくさせている気がしました。
感動させようとしててるラストシーンもクサすぎ。思わず笑ってしまいました。
レベル1
これが日本映画なのでしょうか・・・・。終わってますね。
絆 −きずな−
芳賀哲郎(役所広司)は10年前に本当の名前を捨て、伊勢孝昭という名前を語って
都内でレストランやクラブを経営する、裏の世界に通じる実業家である。
ある日、一緒に夜の街を歩いていた友人のヤクザ布田(斉藤洋介)が、
若いチンピラに絡まれている男女を助けたことをきっかけに、運命が変わり始める。
助けた女は、哲郎と同じ養護施設で育った千佳だった。
男は千佳の愛人で、フリーのジャーナリスト岡堀。
岡堀は千佳と哲郎との関係に疑いを持ち、哲郎のことを調べるうちに
彼が大企業の御曹司との結婚を間近に控えた国際的ヴァイオリニスト馬淵薫の
実兄であるという特ダネをつかむ。
哲郎には、再婚した母と継父の血を引く10歳年下の妹・薫がいた。
しかし哲郎が12歳の時、継父が病死、母が事故死し、薫とともに養護施設に預けられた。
施設の中でも音楽の才能に優れていた薫は、やがて国立音楽大学の教授、馬淵夫妻の養女となり、
今では国際的に活躍する天才ヴァイオリニストに成長していたのだった。
急に金回りの良くなった岡堀に疑問を持った千佳は、
盗み見た岡堀の手帳から、彼が薫の婚約者から記事をネタに恐喝をしているのを知る。
しかもこの記事が世間に出れば、薫はスキャンダルまみれになってしまう。
千佳は哲郎と薫を守ろうと、やはり同じ施設で育ち、哲郎に“借り”がある慎二に岡堀を殺させる。
岡堀殺しの捜査に当たった警部・佐古(渡辺謙)は、
岡堀が“伊勢孝昭”という男の身辺を調査していたことを知り、
彼が何らかの関わりを持っているとにらむ。
そして彼のことを調べていくうち伊勢孝昭=芳賀哲郎の、
悲しいまでに運命に翻弄された過去を知っていく。
タイトルの「絆」とは、施設で育った仲間の“絆”、20年前に別れたきりの兄と妹の“絆”、
そして、哲郎と友人のヤクザ布田との“絆”などを意味し、
それぞれがその“絆”で結ばれた相手のために、自己を犠牲にするというお話です。
前半はなかなか見ごたえがあったのですが、伊勢孝昭を名乗っていた哲郎が、
元の芳賀哲郎に名前を戻す決意をするあたりからがダメ。
妹の幸せのために自分を犠牲にしようとしている哲郎、というのが
この作品の一番のポイントとなるはずなのですが、
その気持ちに友人の布田への思いや、施設仲間の千佳や慎二への思いなどが加わっているため、
妹・薫への思いがダイレクトに伝わって来ないのです。
人間関係が非常によく出来たドラマだと思ったのに、
最後の方では、典型的な日本のヤクザ映画に成り下がってしまったような気がして残念でした。
物語全体を通して見ても、芳賀哲郎という人がどういう性格の人なのかが
よく分からないというところも問題だったのではないでしょうか。
レベル3
幼い哲郎にケーナを教える継父役に田中健、というキャスティングはちょっと面白かったけど。