まるこのきまぐれ日記(1999.12.01〜)へ

『この4週間で考えていたこと』2000.3.5.

3月ですね。春ですね。
さ、気持ちも新たに始めましょ。何事も無かったようにね。

…とは言っても、4週間もの間更新を止めたまま放りっぱなしにしておいて
「何事も無かったように」じゃ済まされないでしょう。
2月9日に更新をストップしてしまってから、4週間でカウンターが4000も上がりました。
全く更新されてない状態なのに、遊びに来て下さった延べ4000人の皆さん、ホントにごめんなさい。
言い訳するのは好きではありませんが、やっぱり何か書かないといけませんよね。

実は2月に職場の中で異動がありました。とても大袈裟な言い方をすれば、
前の部署では仕事の時間中でもHPのことを考えられるほどの気持ちの余裕があったのに、
今の部署では、職場を離れて家に戻っても、仕事のことを考えてしまうような状態です。
それでも、自分のライフワークである“映画鑑賞”だけはあきらめたくなく、
2月は数十時間の残業をこなしながら、仕事帰りにレイトショーに出向いたり、
休日にハシゴなどをしたりして14本の映画を観ました。
ただ、それを自分の中できちんと消化し、文章に仕上げるまでの余力は私には残っていませんでした。
きまぐれに始めた日記さえも、自分の中では負担になっていました。

この4週間、このHPを存続していくことを真剣に迷っていました。
何度やめてしまおうと思ったか分かりません。
今の仕事の忙しさは一時的なものではなく、慢性的なものだと分かっているからです。
これからもずっと、残業帰りにレイトショーに出掛けたり、休日にハシゴをしたりして映画を観ながら、
これまで通りにHPを続けていく自信がどうしても持てなかったのです。

だからと言って、2年間地道に続けて来た大切なHPを簡単に閉めてしまう勇気もありませんでした。
今は登録されることすらも難しいと言われているYAHOO!JAPANの映画評論のページに載せて頂いていること、
PHP研究所のサイトに転載を続けてきたこと、“ホームページガイド”という本で紹介されたこと、
そして何より、毎日毎日コンスタントに100人以上の方が私のページに遊びに来てくれるという事実。
これらの全てが私の励みであり、自信でもあり、アイデンティティでもあったから。
だからこそ、私を認めてくれる人たちが自分に求めているものを、
充分に与えることが出来ない状況の自分が歯がゆく、情けなくも感じていました。

「もうやめてしまいたい」という気持ちと「まだあきらめたくない」という気持ちの葛藤の中、
どうしても結論が出せないまま4週間が過ぎました。
仕事もHPも投げ出して、南の島にでも逃亡してしまおうかと考えたこともありました。
でも、いつまでも逃げ続けることは出来ません。
戻ってくれば、また同じ現実と直面しなければならないのです。
リセットボタンを押せば、簡単にカウンターは“O”に戻ってしまうけれど、
戻してしまってから「戻さなければ良かった」と思っても、もう遅いのです。

そして、ようやく私はひとつ結論を出しました。
「もう少しだけ、頑張って続けていこう」と。

「私に期待をしてくれる誰かのために」と思ってしまうから、それが負担になってしまったのでしょう。
最初は自己満足のためだけだったはずのHPが、いつの間にか私の中で形を変えてしまっていたのです。
だから、しばらくの間は初心に戻り、ただ自己満足のためだけに続けてみようと思うのです。
私を認めてくれる人たちが自分に求めているものを、私は与えることが出来ないかもしれません。
でも、ここまで続けてきたものを、どんな形にしろ存続していくことだけを考え、
私は“何か”を書きつづけて行きたいと思っています。
それを読んで、認めてくれる人が少しでも残っ下されば、それでいいのです。
いつか気持ちに余裕が出来た時、また少しずつ中身の濃いものにしていければ…。

こんな私ですが、もしよろしかったらこれからも遊びに来て下さい。
今月から『まるこの映画感想文』と『まるこの気まぐれ日記』を統合し、
『まるこの気まぐれ映画鑑賞日記』を始めます。



『2000年を迎えて』2000.1.8.

2000年1月から、名古屋市内のほとんどの映画館が、
女性は毎週木曜日に終日1000円で映画を観られるようになりました。
女性に生まれて得したと感じることはほとんどありませんが、
『レディースデー』の恩恵を受ける時は、自分が女性であることを喜びに変えられる数少ない瞬間です。
こんなおいしい企画の発端は、やはり名古屋市郊外に次々と建設されているシネコンの存在でしょう。
“毎週○曜日が映画サービスデーで1000円!”という企画は、もともとシネコンのもので、
それが名古屋市近郊の人々のハートをがっちりつかんだのです。
そんなシネコンの建設ラッシュは、名古屋市内の映画館の死活問題でもあるはず。
現にシネコンに客を取られた名古屋市内の劇場には、閉館に追いこまれてしまったところもあります。
とりあえず、自分の行動が公共交通機関と自転車に限られている私には、
車がないと不便なシネコンなど、いくらたくさん作ってもらっても意味なしだったのですが、
ここに来て初めてその存在に価値が感じられるようになりました。

これまで月1回だった『映画の日』が毎週必ず1日あるようなものなのですから、
これからはその日を狙って映画を観に行くようにすれば、
わざわざ金券ショップで1300円の映画チケットを探して買う必要もなくなります。
どうしても観たい映画は、ハガキを何枚も書いて試写会に応募するより、
1000円デーに椅子と音響のいい劇場でゆったりと観た方がいいかもしれません。
今までなら絶対に観なかっただろうと思われる映画も観るようになるかもしれなりません。
リピート鑑賞も増えると思います。
今年からは、映画の観方がちょっと変わりそうです。



『誰かと一緒に映画を観るということ』1999.11.22.

私が映画館に頻繁に通い始めたのは、高校生の頃。
それからもう何年も、映画はひとりで観るものだという考えが私の中にはありました。
エンドロールが終わって場内が明るくなってからも、ずっとその映画の余韻に浸りながら、
街を歩き、電車に乗って、家に帰るのが好きだったからです。
映画の世界から抜けきらないまま、街の中でも、電車の中でも、
私は自分だけが現実とは隔絶された世界にいるような気分になれたのです。

誰かと一緒に映画を観ると、そのあとの会話がわずらわしくて仕方ありませんでした。
私と相手の感想が極端に違った時など、気分がかみ合わないことが嫌で、
私はたいていひとりで劇場に足を運んでいました。
誘われて誰かと映画を観ることはありましたが、自分から誘うなどということはほとんどなかったのです。
でもそれは単純に、ちゃんと映画を語れる友人に巡り合えなかっただけだったのかもしれません。

ちょっと前までは、超娯楽作品『マスク・オブ・ゾロ』も一人で観に行っていた私。
周りのカップルたちに「あいつ、独りで来てるぜ」というような少々冷ややかな視線を投げかけられながらも、
「あたしは独りで観るのが好きなの!」と、心の中で粋がってみたりもしていました。

そんな私に、今年になって大勢の映画を語れる友人が出来ました。
もちろん、皆が同じ意見を持つわけではありませんが、
映画を観終わったあとに、意見交換をする楽しさも知りました。
同じ作品を観て、同じように感じることが出来る喜びを知ったり、
自分で気づかなかった深い意味に気づかせてもらったり、
自分と全く違う見方を教えてもらい納得させてもらったり…。
一緒に笑い、一緒に泣くことが出来る仲間と時間を共有することが、
とても楽しく素晴らしいことだということも知りました。

不思議なもので、とても昔に観て内容はとうに忘れてしまったような映画でも、
いつ、誰と、どこで観たということや、その時のエピソードはよく覚えています。
高校3年生の時、初めて彼とデートで観に行ったのはあの映画で、
その時、彼にこんなことを言われたんだっけ…とか、
20歳の頃、彼とあの映画を観に行った時、遅刻してきた彼を責めて大喧嘩したっけ…とか。

ひと月に観る映画のうち、半分以上を“誰か”と観るようになった最近でもそうです。
あの映画はどこで誰と観て、その時どういう会話をして、そのあとどこの店で食事をして…ということが、
その映画にまつわる思い出として全て記憶にインプットされているのです。
逆に独りで観に行った映画は、映画の内容しか思い出せなくてなぜか淋しいのです。

1年前、『マスク・オブ・ゾロ』をひとりで観に行っていた頃を懐かしく思い出しながら、
この頃は、今日観に行く映画に付き合ってくれる“誰か”を一生懸命探している自分がいるのです。



『【金田一少年探偵団結団式】体験記』1999.8.25.

「最近、まるこっちって更新サボりぎみじゃない?」
「何か変だよね、文章にまとまりもないしさ」
「それでも、映画だけはちゃんと観に行ってるみたいだけど」
「時々おかしなタイトルの映画、観に行ってるよね」
「そうそう。感想も書けないのに自慢気に“観た映画リスト”の中に載せてる!」
「変な友達でも出来たんじゃないの?」

…と、思ってる皆さま。その通りです!!

「『金田一少年の事件簿』って面白いんだぜ」と、
友人の男性(32歳・独身・映画好き・アニメマニアではない)から言われ、
新作『殺戮のディープブルー』の試写会に付き合うことにしました。
しかし前日になって、よく話を聞いてみると、何かちょっと変…。

☆イベント名:『金田一少年探偵団結団式』
☆映画:『金田一少年の事件簿2/殺戮のディープブルー』
☆その他:結団式では『殺戮のディープブルー』なぞ解き推理試写会を始め、
劇場第一作『オペラ座館・新たなる殺人』の上映やクイズ大会も行われる

これ……何?
でも、約束はしてしまったし、彼はものすごく楽しみにしているみたいだし、
怖いもの見たさもあったので、とりあえず行ってみることにしました。

まず、入場時に入口で『続・金田一少年探偵団団員証』というのをもらいました。
彼は早く行って1番をもらいたかったようですが、
私が開場前に並ぶことを拒否したため1238番でした。
(どっちみち1番なんて、この会場ではもらえないんじゃん)

【表】

【裏】


300名ほどのキャパシティの劇場内に入ると、予想通り、ちびっこたちで一杯。
完全に浮いてます、私たち。
そして19時。待ちに待ったイベントの始まりです。

司会のおねーさんが出てきて、いきなりクイズ大会。
全員立たされて、YES/NOのクイズを行うのです。
1問目は「『金田一少年の事件簿』がマガジンに連載を開始したのは**年の*号からである」という、
超カルトな問題。
『金田一少年の事件簿』は、マンガもアニメも実写版も見たことがない私は分かるはずもありません。
(ってゆーか、見てる人でも分かんないでしょ、こんな問題)
当然あてずっぽで、彼とふたり「NO」と答えました。
すると、何とこれが大正解!
間違えた人たちが座ってしまうと、立ちあがっている正解者は20人くらいしかおらず、
正解者全員が舞台の前まで呼ばれてしまいました。
彼と私は、意気揚揚としたちびっこたちに混じって、
みんなが見てる前で次のクイズに答えるハメになってしまったのです。
私はもう、恥ずかしくて恥ずかしくて、まともに前を向くことが出来ませんでした。

そして2問目。
かなり舞い上がってたので、質問は覚えてません。
が、当然答えが分かるはずもないのであてずっぽです。
しかし、ここで彼は大胆な計画を立てました。
「ふたりで別々の答えにしようぜ。そしたら、どっちかが残れるぞ」
それって…もし私が残ったらどうすんだよ……
そして、恐る恐る別々の答えを出してみると……彼の方が大正解!!
「あー、良かった」
ホッとして軽い足取りで席に戻った私が見たものは、
舞台の前で正解者のちびっこ5名に囲まれて、
スポットライトを当てられたサラリーマン姿の彼の勇姿でした。

そんな彼も、残念ながら3問目で脱落。
ただひとり正解を出したちびっこが、ポスターと声優のサイン色紙をもらっていきました。
そこで、みんな一旦席に戻り、もう一度全員立たされて、新たな問題を出されたのですが、
今度はふたりとも1問目で脱落。
なぜか間違えたことにホッとして席に座りました。

さ、それが終わると、次はいよいよ試写会の始まりです。
『金田一少年の事件簿』の劇場版最新作『殺戮のディープブルー』。
しかーし、話を聞いてみると、どうも変。
『なぞ解き推理試写会』って何?? 嫌な予感・・・・。
そう。この試写会は『事件』が起こる部分しか見せてくれないのです。
そして、犯人を各々で推理し、それを劇場に確かめに行こう!!という、東映の罠だったのです。
見事に騙されました。
恐らく劇場版は90分ものであろう『殺戮のディープブルー』の上映は、
はじめちゃんの「じっちゃんの名にかけて!」の名セリフと共に、わずか17分で終了。
何だったんでしょう、一体…。
でも、とりあえず、入口でもらった『犯人当てクイズ』のチラシを見ながら
真剣に犯人を考えた彼と私。
正解すれば『金田一グッズ』が当たるかもしれないそうです。わーい。

時計はもうすぐ20時。
それからは、96年に公開済みの『金田一少年の事件簿』劇場公開版1作目
『オペラ座館・新たなる殺人』の上映。
普段はとても涙もろく、映画を観ても普通の人の5倍は涙を流す彼のこと。
さすがにアニメの『金田一少年の事件簿』では泣かないだろうと思っていたのですが…
犯人が涙ながらに犯行動機を語るラストシーンではやっぱり泣いていました。
しかも、彼は公開当時にも観ていて、2度目の鑑賞だったというのに。
32歳のサラリーマンが『金田一少年の事件簿』で涙する姿をどう解釈したら良いのでしょう。
まぁ、「感受性が豊かなだけ…」ということにでもしておきましょうか。

イベントが全て終了したのは、21時25分でした。
彼は「付き合わせてごめんな〜」と言いつつも、それなりにご満悦のご様子。
私もひとりでは決して出来ない貴重な体験を与えてくれた、彼に感謝すべきなのでしょうか。

それにしても、出そうで出ないくしゃみのような気持ち悪さを残した
『殺戮のディープブルー』の犯人は、一体誰だったのでしょう。
やっぱ、劇場に確かめに行くべきなのかな。

『団員としての心得』
★8月21日(土)の映画公開に際しては、
1人でも多くの友達が映画を観るように宣伝隊員として活動しよう。


…って言われてもねぇ。
観せてもくれない映画の宣伝をどうやってするんですか?東映さん。(苦笑)
こうやって書いてることで、充分宣伝効果はあるということで勘弁して下さい。
ただし、これが『1人でも多くの友達が映画を観るような』宣伝になっているかは疑問ですが。

それより……まさか、このイベントに参加してた人、いませんよね。(笑)



『最近の映画の傾向』1999.7.5.

最近、映画を観ていて、すごく気になることがあります。
それは、最後に主役が死んでしまう作品が、やたら多いこと。
これって、最近の傾向なのでしょうか。
それとも、今まで私が気にしていなかっただけなのでしょうか。

確かに私が大好きだと言っているあの作品も、この作品も、
最後に主役は死んでしまいました。
最近とても話題になったあの作品も、この作品も、
最後に主役は死んでしまいました。
自分の予想に反して主役が死んでしまったからこそ、
グサリと心に突き刺さるような印象が強く残り、
結果、いつまでも忘れられない作品になったのです。

しかし、最近では、やたらそんなエンディングばかりが目に付きます。
まるで、“名作と呼ばれる映画=主役が最後に死ぬ映画”という定義に、
あらゆる映画関係者が気づいてしまったのかのようです。
エンディングで主役が死に、残された人たちがその人を想う・・・・
そんなパターンの作品があまりにも多すぎるのです。

6月のある週は、その週に観た5本の作品の中、3作品で主役が最後に死にました。
さすがに、うんざりしてきます。どうなっちゃってるんでしょう。
そういえば、ついこの前観た映画も主役が死にました。
いい映画には違いないんですけど、またか・・・・という印象も否めません。

ちなみに、まるこの映画生活で最多の記録となった、6月に観た21本の映画の中で、
主役級の人が死んでしまうというオチの作品は8本。
これもまるこの映画生活の中で1ヶ月で観た中では最多でしょう。
実に2.6本に1本の割合で、同じようなエンディングが用意されているのです。
そして、それらの作品は、悔しいことに私の中では軒並み評価が高いのです。
私は、見事に制作側の策略にハマってしまっているのでしょうか。



『オリジナル版と完全版』1999.6.17.

『Uボート』のディレクターズカット版が上映されました。
3時間29分という大作です。聞いただけでゲンナリするような長時間。
でも、この作品が好きな人にとっては、全く気にならない時間なのでしょうね。

私は『Uボート』のオリジナル版を観たことがありません。
だから、今回もこのディレクターズカット版を観に行くことを控えました。
ディレクターズカット版、いわゆる“完全版”というのは、
オリジナル版を観て気に入った上で観るものだと考えているからです。

レンタルビデオで『グランブルー』と『ベティブルー』の完全版を借りて観たことがあります。
オリジナル版と完全版の2本が並んでると、完全版の方が絶対にお得のような気がして、
ついつい完全版の方を借りてしまったのです。
でも、残念ながら私はこれらの作品が面白いとは感じませんでした。
“名作”といわれる由縁さえも分からず、3時間、ただ長さを感じただけでした。

『ニューシネマ・パラダイス』は、たまたまオリジナル版を先に観る機会があり、
とても感動して、大好きな作品になりました。
その後、どうしても観たくて完全版を観ましたが、
観たくないシーンが追加されているに過ぎませんでした。
もしも、私が先にこの完全版の方を観ていたら、
私はこれほどまでにこの作品が好きにはならなかったような気がします。

ディレクターズカット版、いわゆる“完全版”というのは、
オリジナル版を愛してやまない人のための“おまけ”のようなもの。
レンタルビデオでオリジナル版と完全版の2本が並んでいた時は、
貧乏根性を出さずに、迷わずオリジナル版を借りることをオススメします。

ただ、まれに例外もあります。それはリュック・ベッソンの『レオン』。
オリジナル版ではカットされてした22分のシーンというのは、
ストーリー上とても重要なシーンです。
なくてはならないシーンなのです。
映画を2時間以内におさめる為に切ったというという話を聞いたこともありますが、
こればかりはいただけません。
『レオン』に関しては、は完全版の出現で、
オリジナル版の存在意味すらなくなったと感じてしまったのでした。

でも『レオン』が好きになれない人は、どっちを観ても結果は同じでしょう。
無駄に長い時間を費やすよりは、オリジナル版を観た方がいいのかも。
やっぱり、どんな作品に関しても、まずオリジナル版を観る。
そして、気に入ったら完全版を観る。これが基本だと思います。



『読んでから観るか、観てから読むか』1999.5.4.

少し前に、友人の間で話題になったことがあります。
それは、“原作を読んでから映画を観るか、映画を観てから原作を読むか”。

基本的に、私は映画と原作本は別物だと考えています。
時々「あの映画は原作と全然違った」という批判的な意見を聞くこともありますが、
私は全然違ってもいいと思っているのです。
映画は芸術品。監督が作り出すイメージの世界です。
原作を元に、監督の自由なイマジネーションで作り上げる、それが映画だと思うのです。

原作本を読んで活字から受けるイメージは、十人十色。
自分が自由にイメージしたものが、監督のイメージによって全く別物の映像になってしまうと、
「ちょっと違う・・・・」という感想を持ってしまうのかもしれませんね。
それに、私は先読み出来ないストーリーに映画の面白さを求めてしまう方なので、
原作本を読んでストーリー展開が分かってしまうと、映画がつまらなく感じてしまうのです。

そんな理由で、私は完全に“映画を観てから原作を読む派”。
映画は映画として、その監督の作り出す世界を存分に楽しみ、
そのあと原作本を映画のイメージを持って読むのが好きです。
登場人物や風景などは、完全に監督の作り出したイメージに固められてしまいますが、
それもまた、原作本の楽しみ方のひとつだと思うのです。
そして、原作本を読んで映画では描かれなかった部分を知ることで、
より深くその映画を理解することが出来、
再びその映画を観た時に、別の楽しみ方が出来るのだと思うのです。

ここで、私がお勧めする原作本を2冊ご紹介しましょう。
いずれも監督自身が書いたものなので、映画の副読本として楽しむことが出来ます。
そして、ストーリーの伏線を知ることで、映画のイメージの世界も大きく広がることと思います。

1冊は『ラヴレター』岩井俊二・著(角川書店)
中山美穂主演の『Love Letter』の原作本です。
映画では語られなかった、博子と恋人・藤井樹の出会いのシーンや、
樹が高校で美術教師をしていたという事実、
樹が山で遭難した時の秋葉の様子などが描かれています。

もう1冊は『ピアノ・レッスン』J・カンピオン他・著(学樹書院)
ホリー・ハンター主演の名作『ピアノ・レッスン』の原作本です。
“六歳の時に話すことをやめてしまった”主人公エイダが、なぜ話すことをやめたのか、
映画では全く触れていない過去が明らかにされています。
そして、娘・フローラがどのようにして生まれたのかも。

機会がありましたら、ぜひどうぞ。
これらの映画がお好きな方には、特にオススメです。




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