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メダリオン
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THE MYTH/神話
(製作年度: 2005年)
ドラゴン・キングダム プレミアム・エディション [DVD]
ドラゴン・キングダム
(製作年度: 2009年)



不死(immortality)ということ

今世紀に入ってからジャッキーが出演したこの3つの映画には共通点があります。3つともメインテーマではないにしろ、「不死」という問題をあつかっていること、映画の中でジャッキーが死んじゃう、あるいは死の一歩手前まで行く、ということ。
「メダリオン」では一度死んで生き返り、「神話」では秦の時代に生きて、そして死んでいったひとりの武人の生まれ変わりとして前世の記憶を思い出す。そして「ドラゴン・キングダム」では、完全な不死を獲得しそこねた半仙人として登場し、実際に死に瀕したところを「不死の霊薬」によって救われる。
中国において「不老不死」というのは誰もがあこがれ、でも選ばれたごく少数のものを除いて手に入れることはかなわないもの、という概念でとらえられているように思います。秦の始皇帝をはじめとしてあまたの皇帝たちが、持てる権力を最大限に利用してその方法を探させ、時には怪しげな薬を服用してかえって命を縮める、という皮肉な結末を迎えました。

この概念は中国人だけではなく、わたしたち日本人にとっても、また全世界の人たちにとっても親しいものであり、中国の文化の中で生まれ育ったジャッキー・チェン本人にしても、人生の中で何度か出会った言葉であり考え方であろうと思います。

彼自身が「不老不死」についてどんな考えを持っているのかはともかく、少なくともこの3つの映画で彼が演じる役柄を通して、ある一定の方向への考え方を感じ取ることは、できるような気がします。すなわち、文字通りの「不老不死」は必ずしも本人の幸せにはつながらないこと。

まずは「メダリオン」から

「メダリオン」では、未公開シーンなどを見ると復活して不死身の存在となってしまったエディが「普通の人間でいたかった」なんてグチをこぼす場面もあるのですが、そのへんを掘り下げていくと話がどんどん大きくなって娯楽映画の枠を超えてしまいそうでもあり、またいろいろはりめぐらせた伏線を回収しきれなくなって(というか、回収するのが面倒になったのかもw)、無理やり結末をつけちゃった感じがあります。

この映画では、はじめ少年がふたつのメダルを合体させるところで不思議な光が満ち溢れるのですが、それに気づいたのはどうやらエディひとりらしい。そんなところから、エディが不死身を獲得したのはもしかすると少年同様「選ばれた存在」だったからかもしれない、という推測も成り立つ。
ラスト、そのメダルをエディにゆだねた少年は、光の中へと去っていきます。自分の命を犠牲にして少年を救ってくれたエディに、メダルを受け継ぎ、この世界の守護者となる資格を認めたかのように。

復活したエディは、普通の血肉を持った人間の身体ではなくなってしまっています。傷ついてもそこから流れ出すのは血ではなく光で、その傷口もあっという間にふさがってしまう。もしかしたら人間としての形態は備えているけど、SFによく出てくる一種のエネルギー体になってしまった可能性もある。

またこの映画では不死身になってしまったがゆえに、逆に今まででは考えられないようなジャッキーの姿を見ることになります。今までの映画だったら、たとえ銃弾の雨の中をかいくぐっても弾は当たらず、どんな危険な離れ業にも成功してしまうジャッキーが、マシンガンの連射をもろに浴びてしまうし、ヘリコプターに飛びつき損ねて数十メートル下の地面に転落して叩きつけられる。「不死身」という前提があるからこそ、今までのアクション映画ではある意味できなかった場面が作れる、というのはちょっと皮肉で面白いところ。

そして不死身の身体を獲得してしまったがゆえの代償は、娯楽映画に徹するためにか語られずに終わるのですが、それをちょっと垣間見せるシーンが、カットされずに一箇所だけ残っています。それは復活したエディが同僚ワトソンとともに、コンテナから救出されて病室に収容されている少年を訪れるところ。
助け出された少年が何も食べようとしないと聞いたエディ、少年にゼリーらしき病人食(?)をすすめるのですが拒否され、安心させようとしてか自分が一口食べて見せるのですが、次の瞬間口を押さえて部屋を飛び出していく……(^^;
その後でワトソンがそのゼリーを食べてみて何の問題もない様子を見ると、もちろん復活直後で調子が戻ってない、ということも考えられるけど、むしろ食べ物を受け付けない(不死身なら必要ないもんね)身体になってる可能性もあるわけです。

そう考えると、生前(?)のエディが恋人で仕事仲間の女性(でもこの時点では一度別れた過去があるため、ちょっとぎこちない関係)と一緒にワトソンの家族を訪問し、みんなで料理を作って楽しそうに食事するシーンがとても暗示的。もしかしたら不死身の代償として、これから先そういう幸せはあきらめなければならないかもしれないのだから。

DVDに収録された「もうひとつの結末」では、エディは突き落とされた恋人の救出に成功します。一見ハッピーエンドに見えるけれど、これはいわば新たなるシリアスドラマのはじまり。すなわち、この先普通に年老いていく女といつまでも変わらない男との間に恋人関係が成立するか、という難問に突き当たってしまう。だからこそこの結末はボツとなり、一度死んだ恋人をメダルの力で復活させ、この先の長い長い人生のパートナーとして迎える、という結末が残りました。
この先どうするかは、ふたりでゆっくり考えてね、時間だけはいっぱいあるから、ということか。無責任だなぁ(笑)。

そして「神話」へ

「神話」では、不老不死になるのは主人公ジャックではなく、秦の時代に朝鮮から輿入れしてきたユシュウ姫。姫の輿入れを阻止しようとする一派の襲撃を受けた際に、秦国側の警護隊を率いてきたモン・イー将軍は、乱戦の末、姫とたったふたりで秦国に帰り着くことになります。助け合って苦難の旅路をたどるうち、ふたりの間には愛が芽生えることになるのですが、皇帝の妃のひとりと臣下の将軍という間柄では許されるはずもなく、ふたりともその思いを秘めたまま生きてゆくことになる……

絶大な権力を手にした秦の始皇帝は、あらゆる手を尽くして不老不死の方法を求めるのですが、こればかりはどうすることもできずに死期を迎える。そんな時、不老不死の仙薬が見つかった、しかしそれ届ける使者が反乱軍に阻まれている、という知らせが入る。それを聞いたモン・イーは、始皇帝にはさっさと死んでもらって、操り易い若い皇太子を即位させたい宦官趙高と大臣李斯の反対を押し切り、自ら志願して使者の救出に向かう。皇帝が死ねば妃たちも殉死させられるわけで、皇帝のため、というよりユシュウ姫を助けたい一心で出陣したモン・イーは、仙薬を配下のナングンに託し、「妃を守れ」と命じて自分は反乱軍(とは見せ掛けで、趙高と李斯の差し金)の行く手に立ちはだかり、壮烈な戦死を遂げるのでした。

二千年後、モン・イーは現代の香港に生きる考古学者ジャックとして生まれ変わる。そして前世の記憶を夢として少しずつ思い出し始め、その記憶に導かれるようにして、始皇帝の壮大な墓所である地下宮殿を探し当て、仙薬の毒味を大臣に強要され、結果として不老不死になってしまったユシュウ姫とナングンに出会う。

ひとときは再会の喜びに酔う姫と、夢で見ていた運命の女性と出会って喜ぶジャック。二千年の時を越えた愛の復活は、しかし長続きしないのです。
ナングンに自分と別れた後のことを問われたジャックに、モン・イーの最期の記憶がよみがえる。その話を聞いた姫は、モン・イーが自分を置いて逝ってしまったことを知るのです。 そして目の前にいるジャックが、確かにモン・イーの生まれ変わりかもしれないけれど、姫の愛したモン・イー、苦難の旅路という時間を共有したその人ではないことも。

人類究極の憧れである不老不死となることは、つまり止まった時間の中に永遠にとらわれてしまうこと。皮肉なことに、姫を守るために命を落とし、二千年という時の流れの中で転生を繰り返してきたモン・イー、たまたま思い出したのはモン・イーとしての人生の記憶だけで、ほかにもいろんな人生を経てきた可能性もあるはずのジャックと姫との間には、皇帝の妃と臣下の将軍、という身分の違いよりも深い、越えられない溝ができてしまったのです。
始皇帝の地下宮殿は、その秘密を手に入れるためにジャックを追ってきた一味との戦いの末、崩壊し始めます。姫はジャックとともに脱出するのを拒み、「わたしはモン・イーを待つ」との言葉を残して地下宮殿に戻っていきます。崩壊する宮殿と運命をともにすることで、止まった時間から開放され、再び輪廻の輪の中に戻っていくのを望むかのように。なす術もなくそれを見送らねばならないジャックの表情が哀しい……。

最後に……「ドラゴン・キングダム」

この映画でジャッキーは、完全な不死を獲得してはいない半仙人、旅の道士ルー・ヤンとして登場します。孫悟空の持ち物であった如意棒に出会ってしまったことから、現代のボストンから異世界の古代中国に飛ばされ、村を荒らしにきた兵士たちに囲まれたジェイソン君を、見た目はただの飲んだくれのオッサン(笑)にしか見えない彼が、熟練のカンフーであっという間に助け出す。
さっきから周りの人たちが話す言葉(中国語)がまったく理解できず困っていたジェイソン君、ルー・ヤンにも中国語で話しかけられて仕方なく英語で「何言ってるのかさっぱりわからないんだけど」と訴えるのですが、そのとたん、ルー・ヤンが英語で「聞こうとしないからだっ!」と一喝。
その瞬間周りの人の話す言葉が英語に一変する、このあたりは話の進行上じつにうまい処理だし(この先中国語で通されてもねぇ……)、結局のところこの話は、カンフーオタク少年の夢(妄想?)の世界のできごとかもしれない、ということを暗示しているみたいな気もします。

ジェイソン君が元の世界に戻るためには、敵であるジェイド将軍の宮殿に行き、そこで石像に変えられてしまった孫悟空を解放しなければならない。ふたりは、ジェイド将軍を親の仇と狙う美少女ゴールデン・スパロウと出会い、なんとなく一緒に旅を続けることに……
しかしジェイド将軍のもとまで一緒に行ってくれというジェイソン君の頼みを、ルー・ヤンは最初断わります。酔っ払ってる間は不死身だけど、酒が切れると死んでしまう、たどり着くまでに酒が手に入るかどうかわからないような場所への旅などゴメンだ、というわけ。

そのルー・ヤンの気が変わって、旅仲間として同行することになった直接の理由は描かれていません。その後ジェイソン君は旅の僧にいきなり如意棒を奪われます。ルー・ヤンは如意棒を奪い返そうとして旅の僧とカンフーの技を駆使して戦い、相手が自分と互角の力の持ち主であること、どうやらお互いに如意棒に導かれ、このジェイソン君を目的地まで導く役割を与えられたらしいことを悟る。

そこからルー・ヤンは本気でジェイソン君にカンフーを教え始めます。カンフーオタクだけあっていろんな技は知ってるけど、ジェイソン君にはそれを使いこなすための身体能力がない。けれど旅の間にも追手はは容赦なく襲いかかってくるし、旅の終わりには強大な敵との戦いが待っている。勢いそのカンフー修行はスパルタ式になるわけで、始めは泣きながら修行するジェイソン君、旅が続くにつれどんどんたくましくなっていき、どこかひ弱で頼りなさげだった表情もだんだん引き締まっていきます。

それとともに、それを見守るルー・ヤンの表情も変わってくる。始めは「ダメだ、何もわかっちゃいない」と物分りの悪い弟子に対して投げやりな態度だったのに、どこか慈愛を秘めたようなまなざしを向けるようになってきます。

そんなルー・ヤンが、はじめて「自分の死」と直接向き合う瞬間がやってくる。
酒どころか水さえ手に入れることができない砂漠をようやく乗り越え、美しい桃の花が咲き乱れる林でひと時の休息を味わう一行に襲い掛かる強大な敵。しんがりを守っていたルー・ヤンは、背に矢を受け倒れます。
近くの寺に運び込まれたが傷は重く、酒かあるいは不死の霊薬を手に入れなければ長くはもたない、と告げられたジェイソン君は、そこではじめて、偶然出会って師弟の縁を結んだ男が自分のために払ってくれた犠牲に気づくのです。

そんなジェイソン君に対し、死の床に横たわったルー・ヤンは、自分が若い頃の話をする。文武両道の優秀な若者だったルー・ヤンは、不老不死となるための試練を受ける資格を手に入れるが、結局失敗して中途半端な半仙人の身に甘んじることになる。それはもしかしたら「杜子春伝(芥川龍之介の小説の元ネタ)」に描かれていたように、人間としての感情を捨て去らねばならないような試練だったのかもしれません。だとしたらルー・ヤンがその後語る言葉はとても意味深。

ルー・ヤンはジェイソン君に、「不死になって傷つくことも悲しむことも無い、そんな存在になるよりは、誰かを愛して尽きる命のほうがいい」と告げ、一筋の涙を流す。
どのくらい長い間中途半端な存在で生きてきたのかわからないけど、ルー・ヤンもまた、自分の技と精神を受け継ぐに足る弟子、ジェイソン君との出会いによって、生きるにせよ死ぬにせよ、今の状態から抜け出す旅の結末に、自分の人生を賭ける決意をしたのかもしれません。

ジェイソン君もまた、一見チャランポランでいい加減に見える師匠に対して、いつしか心からの親愛の念を抱くようになっており、「俺のことは忘れろ」というルー・ヤンの言葉や、敵地に乗り込むには時を待て、という旅の僧の言葉にあえて逆らってまで、如意棒を振りかざし、真正面からジェイド将軍の宮殿に乗り込んで行きます。
異世界の中国に飛ばされる前には、不良少年グループに脅されて、懇意にしてくれるチャイナタウンの骨董屋、老ホッブの店を襲撃する手伝いをさせられるほどの意気地なしだった彼が、ルー・ヤンのために、勝ち目のない戦いに挑み、ボロボロに打ちのめされ、死を覚悟する。その瞬間、彼を助けに来た旅の僧とゴールデン・スパロウがあらわれ、最後の戦いが始まります。
その過程で不死の霊薬はジェイソン君の手に渡り、彼らが身を寄せていた寺院の僧たちによってその場にかつぎこまれてきたルー・ヤンへと渡される。その霊薬を飲んだとたん力を取り戻した彼は戦列に復帰します。

旅の僧とゴールデン・スパロウ、ふたりの犠牲によって戦いは終わり、孫悟空は解放される。しかしふたりの死はただの死ではなく、新たなる生の獲得でした。
実は石像にされる前に孫悟空が放った分身であった旅の僧は、その姿を失うことにより孫悟空に新たなる知恵と思慮をもたらし、ゴールデン・スパロウを失った悲しみでまたひとつ人間的な成長をとげたジェイソン君は、現代ボストンに戻った時に、不思議な形で彼女と再会するのです。

この映画では、孫悟空はその後「西遊記」で知られるあの有名な旅に出たと語られています。「西遊記」によれば孫悟空はその旅の末に霊的存在へと昇格します。香港には今も彼を神様のひとりとしてまつる人たちがいるそうで、つまり彼はある意味今も生き続ける「不死の存在」となったのです。

そして、「不死の霊薬」によって真の「仙人」となったルー・ヤン……
自分の世界に戻る時、名残惜しげな表情で「あなたのことは決して忘れない」と告げたジェイソン君に対し、笑顔で「それが不死というものさ」と答えた彼のその後は、これもまた意外な形で判明するのでした。

「ドラゴン・キングダム」の世界がカンフーオタク少年の夢の世界かもしれない以上、現代のボストンまで生き続けたルー・ヤンが、ごく普通の老人としての人生を送り、やがて天寿を全うしたとしても、それはそれで不思議じゃない。
たとえそうなったとしても、ルー・ヤンの技と精神はしっかりジェイソン君に受け継がれ、そしていつかまた次の世代の誰かに受け継がれる。ジェイソン君にカンフーを教えたルー・ヤン(と旅の僧の姿を借りた孫悟空)という存在の記憶も、ジェイソン君を通して語り告がれていくのかもしれない……
そしてそれこそが、一個人の肉体を越えた「不死の存在」そのものなのかもしれないのです。

おまけ……極私的見解

さて、こういった映画を見てきて、自分自身は「不死」についてどう考えるかというと……
やっぱり不老不死はシンドイなぁ。
「神話」のような輪廻転生が本当なら、そっちのほうが楽しいんじゃないかな。今の人生を存分に生きて、「この生ではやるだけのことはやった。リセットして次行こ〜っ!」と思いながら死んでいけるんなら、そんな幸せなことはないんじゃないかな、とさえ思う。ま、なるべく痛い目にも苦しい目にもあわずに死ねること、という条件つきでですけどね(笑)。


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