極左冒険主義の悲劇−1951〜53年
五全協、メーデー事件と火炎ビン闘争の満開
小山弘健
〔目次〕
1、宮地コメント
3、小山弘健『五全協と中核自衛隊の登場』第3章1全文
2、五全協と新綱領決定=中共的植民地革命特有の武力闘争方式を具体化
3、軍事委員会→中核自衛隊の組織と戦術、武装闘争方針の具体化
4、小山弘健『メーデー事件と火炎ビン闘争の満開』第3章2全文
1、占領軍と日本の支配層による破防法案、破防法反対の3波ゼネスト
4、徳田論文とその性質、軍事委員会ひみつ機関紙『軍事ノート』
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『朝鮮戦争と武装闘争路線』路線と諸事件関係のファイル多数
『朝鮮戦争と武装闘争責任論の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪データ
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央活動をした証拠
1、宮地コメント
小山弘健は、戦前から活動しており、戦後、多数の著書を出版した。なかでも、『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)は、被除名者側が膨大な共産党資料を駆使し、冷静な筆致で、客観的な党史を描いた文献として有名である。それは、1945年占領下の平和革命論から、1966年中ソ論争の波間までを分析している。
このファイルには、「第3章、極左冒険主義の悲劇−1952〜1954年」の内、「第1節、五全協と中核自衛隊の登場」(P.133〜140)、「第2節、メーデー事件と火炎ビン闘争の満開」(P.140〜148)の全文を転載した。それらは、五全協問題と武装闘争共産党の活動内容・実態を検証している。
1955年7月六全協で、ソ中両党指令により、武装闘争を「極左冒険主義の誤り」とイデオロギー面だけの反省をした。武装闘争により、23.6万党員から約3万数千党員に激減し、ほぼ壊滅状態に陥っていた。党中央軍事委員会にたいする責任追及が全都道府県党組織から噴出し、一方、六全協幹部は責任回避と追及抑圧に終始した。
宮本顕治や党中央幹部たちは、責任回避と追及抑圧の先頭に立った。小山弘健はそれについても次のように記している。
(1)、野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りを犯した人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった。
(2)、宮本、春日(庄)らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。宮本顕治は、総括・公表を要求する党中央批判党員たちにたいし、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った(P.194)。
よって、日本共産党は、現在にいたるも、五全協武装闘争共産党の実態や51年綱領の性質に関するデータを、完全に隠蔽している。とくに、武装闘争方針の具体化過程や中国共産党の植民地型革命との類似性などについて、系統的に分析した文献はほとんど出版されていない。小山著書が唯一ともいえる。私の判断で、小見出し、各色太字を付けた。
なお、小山弘健『戦後日本共産党史−党内闘争の歴史』(芳賀書店、1966年、絶版)については、2008年5月、こぶし書房から、編者・解説者津田道夫による復刻版が、(三月書房、1958年)を底本として出版された。ただ、これは、津田道夫による編集・文章改定があり、かつ、「第5章、前衛神話の崩壊」「第6章、中ソ論争の波間に」など、1959年から1966年までの2章が、全面削除されている。削除理由は書かれていない。
2、宮本顕治が五全協武装闘争共産党中央レベルで活動した証拠
小山著書が触れていないテーマがある。それは、宮本顕治の五全協武装闘争共産党の中央レベルでの活動関与疑惑である。というのも、彼が、1967年以降、その疑惑を全面否定する党史偽造歪曲犯罪をしたのではないかという問題である。彼が自己批判書提出・復帰後、五全協武装闘争共産党の中央レベルで活動した証拠がいろいろ発掘・公表されてきた。これらから見ても、「(現在の)わが党は、武装闘争になんの関係もなく、責任もない。なぜなら、それは、党分裂時の一方の側である徳田・野坂分派がやったことだからである」というのは、宮本式詭弁・ウソである。詳細は別ファイルにおいて検証した。
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央活動をした証拠
そこで、武装闘争責任論のテーマが問題になる。責任論を検討する上で、組織統一回復・日本共産党の朝鮮戦争加担行為における、指導部責任と、復帰したが指導部から排除されたままの一党員(元指導部)責任とを区別する必要がある。
(1)、スターリン認知の徳田・野坂中央委員会、および五全協選出中央委員個々人は、1年9カ月間の朝鮮戦争加担行為にたいして、完全な武装闘争責任を負っている。五全協で統一を回復した日本共産党が分担した朝鮮侵略戦争加担の戦争行為期間は、1951年10月16日五全協軍事方針の実践開始から、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定成立までである。
(2)、宮本・蔵原・亀山幸三ら第6回大会選出中央委員7人・20%は、その期間、復帰したが指導部から排除されたままの一党員(元指導部)だった。主流派・臨中設立時に、排斥された7人中、袴田里見は、もっとも早く、モスクワで、スターリンに屈服し、北京機関指導部に転向したので、彼を除く6人は、組織統一回復共産党のたんなる一党員だった。しかし、宮本顕治は、1955年3月15日スースロフ指令による野坂・志田との妥協により、五全協武装闘争中央指導部員に復活した。しかも、五全協から総選挙東京第1区候補者になり、武装闘争の五全協中央活動をした。
(3)、ましてや、六全協は、スースロフと中国共産党指令を受け、宮本顕治らとともに、武装闘争指導部責任を100%負っている五全協選出中央委員と袴田を、中央委員として選出した。六全協は、死去した徳田球一と除名した伊藤律以外の、100%武装闘争責任中央委員のほぼ全員を選んだ。それは、宮本顕治のスースロフへの屈服と志田重男・NKVDスパイ野坂参三とによる3人の妥協の産物だった。それによって、宮本顕治個人も、六全協以降、野坂・宮本体制のトップとして武装闘争指導部責任を100%継承したことになる。彼は、その屈服・妥協の見返りとして、野坂・宮本トップ体制の党内権力を、ようやく手に入れた。現在の党が、そのメンバーを全員含んでいる以上、「武装闘争は分裂した一方がやったことであり、(現在の)党にはなんの責任もない」というのは、宮本式大ウソ・詭弁である。
(表) 六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承
党役職 |
武装闘争指導部責任・個人責任 |
直接責任なし・復帰党員責任 |
比率 |
中央委員 |
野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日(正)、岡田、松本(一三)、竹中、河田 |
宮本、志賀、春日(庄)、袴田、蔵原 |
10対5 |
中央委員候補 |
米原、水野、伊井、鈴木、吉田 |
5対0 |
|
常任幹部会 |
野坂、志田、紺野、西沢、袴田 |
宮本「常任幹部会責任者」、志賀 |
5対2 |
書記局 |
野坂「第1書記」、志田、紺野。竹中追加 |
宮本。春日(庄)追加 |
4対2 |
統制委員会 |
春日(正)「統制委員会議長」、松本(惣) |
蔵原、岩本 |
2対2 |
排除中央役員 |
伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎 |
神山、中西、亀山、西川 |
(8対4) |
総体 |
伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承 |
4人を排除した上での、旧反徳田5派との「手打ち」 |
この(表)は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)の第4章1、六全協の成果と限界(P.183)の記述を、私(宮地)が(表)として作成したものである。その一部を引用する。
「発表された中央の機構は、政治局と書記長制が廃止されて、かわりに中央委員会常任幹部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した一方式を、そのまま『右へならえ』式に、日本の指導体制に採用したものだった。((表)人事記述個所を中略)。みぎのような中央人事は、全体としてみると、旧徳田主流派が若干の優位をたもちつつ、旧統一会議系国際派とのバランスをはかってくみたてられていた。それは、六全協までのはなしあいの主体が、伊藤派をのぞいた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らをのぞいた旧反対派との二つであったことを、あきらかにしていた。この事実は、下部における大衆的討議を一さいぬきにしたこととあいまって、六全協の限界と弱点を、はっきりばくろしていた」。
宮本顕治は、文化部関係人事で、宮本百合子らの宮本顕治崇拝者を抜擢し、一方で、強い宮本批判を持っていた原泉ら築地の文化人、中野重治支持者らを排除した。
3、小山弘健『五全協と中核自衛隊の登場』第3章1全文
〔小目次〕
2、五全協と新綱領決定=中共的植民地革命特有の武力闘争方式を具体化
3、軍事委員会→中核自衛隊の組織と戦術、武装闘争方針の具体化
1、占領軍と政府による共産党弾圧から五全協=統一回復まで
主流派が第二〇回中央委員会をひらき、反対派が一せいに解体方針をとりだして、党がいびつながらも「再出発」のみちにつきはじめたときは、ちょうどアメリカ主導下のサンフランシスコ講和会議がひらかれて、日本の戦後の政治・経済体制が新段階にむかって発足したときであった。
講和会議は、九月四日にひらかれたが、この前日の九月三日、占領軍当局と政府は、占領政策違反の名目で党の合法指導部に弾圧をくわえた。かれらは、中央指導部の成員とのこされた国会議員その他にたいして、不当な逮捕状を発したのだ。すなわち、椎野・河田・鈴木・杉本・輪田・保坂浩明・福本和夫・岩田英一・山辺健太郎・西沢隆二・岡田文吉・岩本巌・上村進・砂間一良・細川嘉六・堀江邑一・川上貫一・木村三郎の一八名で、六日にはさらに西館仁をくわえて一九名に公職追放を命じた。一年前の中委追放につづく党中央への直接の弾圧であり、朝鮮戦争からアメリカとの単独講和へと日本の政治的戦略的地位の変転するなかで、アメリカ占領政策が意識的に志向した反民主的反革命的行為だった。
占領軍の指示をうけた警察は、全国三〇〇カ所にわたって、党の機関を捜査した。椎野ら中央の指導分子はすでに事態を予想して地下に入っていたから、公然面にのこされた岩田・堀江・細川・山辺・福本・砂間・上村・川上の八名だけが逮捕された。九月八日、サンフランシスコではソ連・中国・インド・ビルマなどの主要関係国をのぞいて、アメリカにしたがう四九カ国との条約調印がなり、同時に日米安全保障条約も調印をみた。
サンフランシスコ体制の発足に対応する占領軍と政府の弾圧措置のために、党の公然たる活動舞台はいよいよせまくなった。軍事占領体制が条約による駐兵状態にうつるまえに、総司令部が革命勢力をてってい的にいためつけようとかんがえていることは、いまやあきらかだった。中央のかいめつ後、党は一時本部対策委員会の名で善後措置にあたったが、中央への攻撃がそれ以上拡大しない形勢なので、一〇月二二日臨時中央指導部議長に小松雄一郎を、指導部員に塚田大願と梶田茂穂のふたりを届けいで、一応合法中央機関のかたちだけをととのえた。
一方で旧反対派の復帰は、下部機関の無茶な「罪状告白」式自己批判の強要のために遅遅としてすすまず、そこへ当局の弾圧がかさなって党機関の活動能力は大幅に減退した。それでも曲がりなりにも九〜一〇月と、新綱領は各級機関で討議され、地下指導部は一〇月一六〜一七日の二日間、ひみつに第五回全国協議会をひらいた。
2、五全協と新綱領決定=中共的植民地革命特有の武力闘争方式を具体化
五全協も四全協とおなじく、主流の一方的会議だったが、とにかく分派闘争の終結で一九中総いらいはじめて一本化された指導部のもとにひらかれたのである。だが、会議は、真の民主主義的運営を欠いたままにすすめられた。敵の弾圧激化という名目のうえに、地下指導部はコミンフォルム判決と新綱領との権威をバックにしていたから、反対意見はすべて「分派主義者」のレッテルをはられて圧殺された。綱領の採択や軍事方針の具体化など、党の前途を決定する重要問題が上程され討議されながら、これを党内民主主義にもとづく率直な討議にうつすことは不可能だった。
綱領の決定や党規約の改正は、がんらい大会でなされるべきだったが、主流派は、現在の情勢で大会開催は合法的にも非合法的にも不可能であるとし、しかも新綱領草案をあたまから決定案同様にとりあつかって採択してしまったのである。この五全協の決定は、「新綱領草案の討議を終結するに当って」「一般報告」「規約の修正」「結語」からなり、ほかに「沖縄・奄美大島・小笹原諸島の同胞に訴える」などのアピールを採択した。五全協決定は、一一月一日付『内外評論』(『球根栽培法』)第二巻第二一号・通巻第三〇号に、全部発表された。
新綱領の基調をなすものは、中国革命についての中国共産党の戦略であり、さきの徳田テーゼ草案をめぐる論争でだされた中央委員たちの見解のなかでは、神山と袴田のそれにもっとも近かった。それは、なにより当面の革命を社会主義革命でも人民民主主義革命でもなくて、民族独立を第一義とし、それに反封建の課題をむすびつけた「民族解放民主革命」と規定した。ただそれは、国内の課題では革命的土地改革、すなわち反封建的農業革命の任務を強調し、反独占闘争や社会主義への過渡的要求をすべてとりさげてしまった。
また民族資本の反帝国主義踊争における一定の役割をみとめて、かれらをふくめて民族解放民主統一戦線の形成を提唱した。闘争形態としては、平和的方法でなくて国民の「真剣な革命的闘争」が必要である、と主張した。新綱領が、民族解放の第一義性を公然とおしだしたことは、まだ軍事占領体制のもとにあるかぎりただしかった。しかし、いまや軍事占領は講和会議で形式上でなくなることとなり、条約による駐留下に特殊な従属体制にうつっていくことも必至だった。
とすれば、この過渡的な移行期に、日本が旧植民地従属国の古典的規定にあてはまるかのようにみなし、ここから植民地特有の武装闘争の方針をひきだす可能性をみちびきだしたことは、大きなあやまりだった。その危険性も、新綱領の「真剣な革命的闘争」といったていどの一般規定のワク内に限定されているかぎりでは、実際上の害悪とはならなかったが、五全協はここから中共的植民地革命特有の武力闘争方式を具体化しだしたから、事態はおそるべきものとなった。
新綱領は、コミンフォルム機関紙に全文発表され(『恨久平和と人民民主主義のために』、一九五一年一一月二三日)、つづいて『プラウダ』紙に転載され二一月二四日付)、きらに一二月一日には北京放送からも放送されて、国際的な支持と確認をうけた。これはマルクス・レーニン主義を現実に適用したもはんであるとして、世界の共産主義運動から称賛されたのである。翌一九五二年二月のコミンフォルム機関紙に、徳田書記長の解説的な論文があらわれたが、そこではスターリンが公式化した植民地従属国の革命方式が日本に直接適用されていることが、明示されていた。
野坂が「革命の平和的発展」の論拠にした内外の諸条件のあたらしい性格というものはすべて抹殺されており、かわりにアメリカ帝国主義の全一的支配という一点が強調されて、日本の革命の条件や性質が旧中国のそれとほとんどかわらないものとされていたのである(徳田「日本共産党新綱領の基礎」、『恒久平和と人民民主主義のために』、一九五二年二月一五日、『平和と独立』、五二年三月四日第一一九号)。
五全協の直後、非合法志『内外評論』に、新綱領にもとづく具休的指針として「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」という論文が発表され、新綱領や五全協一般報告とともに討議することが要求された。これは問答形式によって、(1)労働者農民が軍事組織をつくる方法、(2)抵抗自衛闘争が軍事問題発展の環である理由、(3)パルチザンを組織することの可能性、(4)軍事組織の活動の方法と内界、(5)敵の武装力にたいする内部工作の必要などを、平易に解説しており、(6)結論として「われわれは直ちに軍事組織をつくり、武器の製作や、敵を攻げきする技術や作戦などを一般化する初歩的な軍事行動から着手し、きらに軍事行動に必要な無数の仕事を解決しなければならない」とのべていた。
これの発表にあたっては、とくに「われわれは軍事問題を真剣にとりあげ、それを行動にうつさなければならない。それなしには、新しい綱領を実現することも、このための闘いに勝利することもできないのである。……したがって全党が、この論文を、新しい綱領や第五回全国協議会の一般報告とあわせて討議し、これを単なる論文として終らせることなく、実践のための武器にされんことを希望する」という「軍事問題の論文を発表するにあたって」の前がきが付せられた。
そして、一一月八日付『内外評論』(『球根栽培法』、第二巻第二二号・通巻第三毒)にのせられたのである。これは明らかに、スターリンの指示から一歩をすすめて、中国共産党の武装闘争の原則に従うものだった。つづいてこの方針の線で、「予備隊工作の当面の重点」「警察工作の立ちおくれを克服するために」などの論文が、二月二二日付『内外評論』(『球根栽培法』、第二巻第二三号・通巻第三二号)に発表された。
このころへ占領軍当局と政府の党活動にたいする弾圧はますますひどくなり、地下組織はもとより公然面の各機関も、容しゃのない捜索や検挙や取調べを連続的にうけていた。ただこれらの弾圧の性質は、朝鮮戦争勃発当時の軍事危機のさいのそれとは、あきらかにちがってきていた。(1)以前は、戦略的な敗北の危険に面してアメリカが必死におこした軍事的予防措置の性質をもっていたが、(2)今度のものは、講和条約の発効をまえにして、占領撤廃までに革命的組織をできるかぎりよわめておこうとする政治的予防措置の性質をもっていた。
すなわち、総司令部が廃止されて支配権が日本政府にまかされるまえに、共産党をてってい的に弱化させて、占領撤廃後もそうかんたんに進出できない、安心した体制をきずいておこうというのであった。だからこの弾圧のあとには、条約発効と同時にいやでも政治活動の一定の自由が回復されるはずであった。ところが、地下指導部は、事態をそのようにはかんがえなかった。かれらは、講和はにせもので、日本占領の仕あげにすぎない、安保条約で軍事占領…体制は合法化・永久化されたと判断したから、条約発効後も党への弾圧は強化されることはあっても、ゆるめられる可能性はすこしもない−とかんがえた。
こうしたみとおしのあやまりのために、新綱領の不可欠の戦術的補足または具体化として、武装闘争の方針はますます発展きせられた。一二月中旬、徳田主流指導部は全国組織会議をひらき、五全協以後のあたらしい情勢に対処すると同時に、新綱領の具体的な行動方針を討議した。ここで決定をみた中心問題は、「当面の戦術と組織問題」であって、新綱領の方針を実現していくために必要とかんがえられるじっさいの戦術と組織を規定していた。
この全国組織会議の決定にかんしては、『内外評論』(球根栽培法)誌に、「当面の戦術と組織問題について」(三月二〇日付、第二巻第二四号・通巻第三三号)・「全国組織会議の決定を実行するために」(五二年貢八日付、第二巻第二五号・通巻第三四号)・「全国組織会議の決定を全党の討議にうつせ」三月一日付、第二巻第二七号・通巻弟三六号)などの文書が、あいついで発表された。
3、軍事委員会→中核自衛隊の組織と戦術、武装闘争方針の具体化
さらに翌一九五二年一月には、ひそかに第三回中央委員会がひらかれて、中核自衛隊の組織問題が討議されたとみられた。二月一日付の『内外評論』(『球根栽培法』、第二巻第二七号・通巻第三六号)に、無署名の「中核自衛隊の組織と戦術」が発表されたが、ここでは武力革命の遂行が三段階にわけられた。第一段階で、軍事委員会の指導下に中核自衛隊を組織し、大衆闘争に武装行動の必要をみとめさせつつ、これを革命的闘争にひきあげていく。
第二段階では、中核自衛隊の指導下に、ひろく大衆を抵抗自衛組織に組織していく。第三段階では、大衆闘争を国民的きぼにまで拡大し、抵抗自衛組織を人民軍にもりあげ、武力革命に突入する−という構想であった。ここに軍事委員会の名がでていることから、地下指導部が非公然組織の総力をあげて軍事組織の編成にとりかかっていることが想像された。その後にあきらかにされたところでは、この前後に地下の単一指導部=中央ビューローのもとに中央軍事委員会がもうけられ、以下各級のビューローにぞくしてその指導下におかれる各級の軍事委員会(地方軍事委員会・府県軍事委貞会・地区軍事委員会、必要なばあいは細胞軍事委員会)の組織系統が、ひそかにつくられていった。
これらのうち、地区軍事委員会が、中核自衛隊にたいして指導と統制の責任をもつ(ただし抵抗自衛組織にたいしては指導せずに協力だけする)ものとされた。地方軍事委は、北海道・東北・関東・中部・西日本・九州の六ブロックにもうけられ、中央軍事委の最高責任者には志田重男が任じているとみられた。
ところが奇怪だったのは、これら軍事方針の具体化と組織行動への発足が、党の公然・非公然の両方で、なかなか統一的に推進されず、公然面機関が往往外部から非公然面の方針や指導をしらされるような事態がおこったことだった。たとえば、一一月八日『内外評論』の「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」は、五二年一月一五日発行の『日本週報』第一九六号に「日共の武装行動綱領全文」としてスッパぬかれ、地方の公然面の機関や党員は、これによってはじめて知るというありさまだった。
また五二年二月一日『内外評論』の「中核自衛隊の組織と戦術」の全文も、四月一日付『日本週報』第二〇三号にいちはやくバクロされ、地方機関ではこれをあらそって買いいれるしまつだった。これらは、非公然組織のもつ重大な欠陥と、非公然組織と公然組織との連絡・統一の不備をしめすものだった。
「武装行動」と「抵抗自衛組織」の思想は、労働組合・農民組合からあらゆる大衆団体のあいだにもちこまれ、宜伝されだした。五二年二月にひらかれた軍事委員会の全国会議の決定や結語が、偽装のパンフとして配布された。すなわち、その「結語」は「きくら貝」の表題をつけ、また「決定」のほうは、「ラジオの集い」というもっともらしい表題でまとめられた。無署名の論文「軍事行動の前進のために」が、三月一日付『内外評論』へ『工学便覧』、第二巻第二八号・通巻第三七号)に発表され、つづいて「孟子抄」「栄養分折表」「料理献立表」「Xノート」などの、じっさい的技術的な問題を解説した偽装文書が、おそらく軍事委員会の組織によって、ぞくぞくだされてきた。
もちろん内容は、大へんな料理の手ほどきで、たとえば「栄養分折表」では、時限ばく弾・ラムネ弾・火炎手榴弾・タイヤパンク器・速燃紙(硝化紙)のそれぞれの構造と製造法とが解説されていた。後述のメーデー事件のあとでは、軍事組織の機関紙誌『中核』『軍事ノート』が月二回ぐらいのわりで出され、べつに『国民の武装のために』という機関紙も発行された。もちろんすべて非合法であった。
五二年の一月以後、これら非合法機関紙誌の作製・発行には、臨中議長の小松があたっていた。かれは、このときから中央印刷局担当となり、『平和と独立』以下非合法各紙の印刷、化学技術の指導や工場の設置などの、全国的指導に従事した。
軍事委員会と中核自衛隊のひみつ組織は、五二年二月から徐徐に表面にうごきだしてきた。二月二一日の反植民地化闘争デーにおける、東京蒲田での集団デモ行動やその他の事件は、武装闘争開始のためのせぶみではないかとみられた。党の主要機関が、一部の合法機関をたてとしつつ、全国にわたって冒険主義的武力闘争にのりだすことは、必至となった。
4、小山弘健『メーデー事件と火炎ビン闘争の満開』第3章2全文
〔小目次〕
1、占領軍と日本の支配層による破防法案、破防法反対の3波ゼネスト
4、徳田論文とその性質、軍事委員会ひみつ機関紙『軍事ノート』
1、占領軍と日本の支配層による破防法案、破防法反対の3波ゼネスト
党が武装闘争の準備と組織を一路おしすすめつつあるとき、占領軍と日本の支配層は、四月二八日に予定された講和・安保両条約の発効と総司令部の廃止にそなえて、つぎつぎと積極的な手をうってきた。二月二八日、日米行政協定が調印されて日米合同委員会が設置され、あたらしい従属体制への移行の準備がすすんだ。この二月二九日において、党の関係機関紙誌で発行禁止となったもの、八一八にたっすると報告された。
三月二八日には、非合法機関紙『平和と独立』を弾圧するため、当局は全国一八五〇カ所を捜査した。同二九日に、国警が山村工作隊のいっせい手いれをおこなった。占領軍と日本政府は、講和発効をまえにして、全国の党機関をよわめるために全力をあげるかとおもわれた。政府は、三月二八日、切り札として、戦前の惑法・治安維持法をおもわす破壊活動防止法案なるものの要綱を発表した。
だが、政府のこのファッショ立法の意図は、戦前戦時中の治安維持法乱用のにがい経験をもつ全民主主義分子をふんげきさせ、その総反撃をひきおこした。総評・労闘の合同戦術会議は、ただちに破防法案粉砕のゼネストを決定、ここに四月には、労働団体中心に学生・青年・婦人・知識人のあらゆる組織がたちあがるにいたった。四月一二日の総評・労闘の破防法案反対の第一波ストは、炭労のスト延期などで予定を下まわる三〇万人の動員におわったが、四月一八日の第二波ゼネストは、官民をっぅじて三三五万の動員に成功、戦後最大のきぼをしめした。
これには、広範な民主団体や文化人組織、たとえば日本新聞協会、弁護士会、文化人会議、文芸家協会、著作家組合、日本ペンクラブ、民主主義科学者協会、日本美術会、日本美術家連盟、各大学の教授懇談会、その他全国の婦人青年団体、各出版社などが、すべて支持を表明した。日本学術会議も、前例をやぶって声明を発表、地方自治体のなかにも弾圧法規反対の決議をおこなうものがでてきた。
このような大衆的高揚は、党指導部を勇気づけ、ますます武力闘争の条件の成熟と軍事行動の成功の可能性とを確信させた。四月二八日、予定どおり両条約の発効と同時に、総司令部の廃止が発表され、マーフィ大使が着任した。占領軍の直接措置はすべて失効となり、『アカハタ』への発行停止の措置も自然解除となった。国民のむねには、ながいあいだの軍事占領が解けた解放感と、「独立」をもとめるつよい希望とがはじめてわきおこった。まだ本当の独立があたえられなかったにせよ、軍事占領の重圧感からまぬがれえたことだけでも、大きなよろこびだった。
2、メーデー事件とそのとらえ方3つ−総評、共産党、参加大衆
直後の五月一日のメーデーに参加する大衆は、これまでにない解放的な気分にひたった。これに対して共産党地下指導部は、この機会を利用してアメリカ軍の撤退の目標にちかづけるように、大衆を実力闘争で、訓練しようとかんがえた。そのため軍事委員会は、可能なワク内で中核自衛隊や行動隊を動員し、若干の技術的な準備と当日の配置計画をすすめていった(後出「メーデー事件の軍事的教訓」)。
五月一日、第二三回統一メーデーは、条約発効後最初のメーデーとしてかつてない高揚ぶりをしめし、全国四七〇ヵ所にわたって約一三八万の大衆がデモに参加した。復刊の『アカハタ』第一号が、公然とバラまかれた。東京メーデーは、これよりきき、政府の皇居前広場の不許可処分にたいして総評が提訴、東京地方裁判所は四月二八日に総評の勝訴を判決しており、政府は控訴を決定したが、これは五月一日にまにあわなかった。そのため皇居前広場の使用問題は未解決のまま、メーデーをむかぇるにいたったのである。
この日神宮外苑から日比谷にむかった参加大衆は五〇万、その手にかかげられたプラカードには、「講和安保両条約の粉砕」「破防法反対」「民族の独立を闘いとれ」などのスローガンがみとめられた。ところがそのデモ行進のおわりちかくに、一部デモ隊から「人民広場にいこう」の声があがり、それはしだいに他の行進者にひろがり、ついに数万大衆が広場に進入しはじめた。これに、警察当局は数千人の武装警官隊を動員して、急におそいかからせた。警官隊のしゅうげきに激こうしたデモ隊はこれをむかえうち、きんたんたる流血の闘争となった。
催涙弾とピストルと棍棒のとびかうなかで、警官隊は多数の労働者・学生・朝鮮人をうちのめし、傷つけた。じつに戦後はじめての大きぼな実力抵抗であり、「街頭戦」であった。デモ隊から死者二名を出し、負傷者は双方合わせて一〇〇〇名をこえた。当局は、事件関係者として、その後一二〇〇名を逮捕した。
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
『検察特別資料から見たメーデー事件データ』『メーデー騒擾事件の捜査』
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
この予想外の大事件のぼっ発は、労働運動の当事者たちを混乱きせた。総評指導部は、翌二日の声明で「共産分子がおこなった集団的暴力行為」としてこれを特徴づけ、「メーデーをけがした反労働者的行為である」とはげしく非難した。かれらは、共産党が武装闘争の方針を推進していたことから、当日、党の軍事組織が全面的にこれを計画し実行したかのようにうけとったのである。
しかし全体としてこの事件をみると、党の軍事方針の直接の結果としてこれをみることはあやまりであった。たしかにデモ隊には党員と同調分子の多数の大衆が参加しており、その一部に中核自衛隊や行動隊の積極的括動がみられたが、当日の大衝突そのものはけっしてそれら一部の指導にもとづくものではなかった。むしろ参加大衆のつよい解放感からくる行動への高揚が、警察当局の意識的な挑発行動(それが最初から全面的に計画されていたものか、事態の進展による即応的なものかは、明白ではない)に激発されて、だれも予期しなかった大きぼの実力抵抗をきたしたのであった。だからこの後にさかんに使用された火炎ビンの類も、ここではあらわれず、大衆のほとんどがありあわせの道具や得物を武器としてたたかった。
ところが、(1)総評などの党外勢力がこれを共産党の軍事計画のあらわれと誤認したとおなじように、(2)党の指導部自体も、この事件を完全にとりちがえて評価した。一般に想像されるほど軍事組織や武装計画が完備されてはおらず、メーデーにたいする軍事計画もきわめて一部での初歩的なものにすぎなかったことを自覚している地下指導部や軍事委員会は、事件が予想外の大バクハツをしめしことに、むしろ仰天してしまった。
かれらは、この終戦後最大の大衆行動の激発に震撼され、党の武力闘争方針のただしさが大衆自身によって実証されたとみなした。それだけでなく、大衆の革命化が党の組織的準備をのりこえており、党の計画や実践のほうがむしろたちおくれているとみなした(「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」、『組織者』、六月一日第一一号)。
メーデー事件を分析した党の非合法誌の諸論文は、こう然として書いた、「人民広場で大衆が示した英雄的行動は、米日反動勢力に深刻な打撃と動揺をあたえた」、「人民広場で闘った大衆の英雄的行動は、軍事行動の大衆組織を飛躍的に発展きせうる条件が十分に成熟していることを示している」(山中育雄「メーデー闘争について」、『国民評論、内外評論改題五二年六月一日第三九号』。「日本の労働者階級は、この闘争によって勝利の確信を固め、武装行動をめざす実力闘争を前進させつつある」(大橋茂「メーデー事件の軍事的教訓」、『国民評論』、七月一日第四○号)。
ここからかれらは、大衆の革命化においつくために、党の武装計画を急テンポでおしすすめ、中核自衛隊の強化にいっそうまい進しなければならぬ、党が先頭にたって武力闘争を展開したならば、成熟しきった大衆の革命的行動欲はバクハツして、全国に武力革命の機運を巻きおこすにちがいない−と結論した。メーデー事件でたまたま警官隊にむけられた大衆のバクハツ的な解放感にたいして、(1)総評や社会党がまるで共産党の意識的計画の産物であるかのように誤認したのとおなじく、(2)共産党のほうでもこれを、大衆の革命的行動欲の発露であり武力革命の主体的条件の完全な成熟であるかのように誤解してしまったのだ。
真実は、戦後最大きぼの破防法闘争もメーデー衝突事件の突発も、けっして共産党の武装闘争方針のただしさを実証したものではなかった。これらにしめされた大衆の行動エネルギーは、ながくおきえられてきた軍事占領の圧力を脱して名目的にせよ「独立」したその解放感が突如政府と警察によってうらぎられたことによって触発され、それが自然発生的に抵抗意思を固めさせたにほかならなかった。
だから、(1)大衆のあいだに武力をもってしてもアメリカ軍隊とたたかおうという闘争意欲がみなぎりつつあることの証明ではなくて、(2)反対にすこしでも自由で平和な空気を享受したいという欲求のたかまりつつあることの証明なのであった。(3)大衆は、党が察知したような自衛闘争や武力闘争をのぞむどころか、(4)反対にそうしたものを必要とするような情勢がいっそう緩和され消滅しさっていく方向をこそのぞんだのだ。(5)メーデーの実力抵抗は、そうした解放感や自由の欲求が予期しない圧迫と阻害をうけたため、青年層を中心に一部大衆が反発したものにほかならない。
だから持続的長期的な現象であるのでなく、(6)局部的偶然的なものにすぎず、事態が一過すれば、ふたたび合法的なみちをつうずる実の解放と独立をめざすことは必至だった。とすれば、(7)この大衆的要求におうずるには、非合法的な軍事組織や武力行動の方向にこれをむかわせるのでなく、(8)かれらの闘争意欲をむしろ占領時代の民主主義の既得権と最大限に結合させて展開するという方向にむかわせるべきであった。
しかし、メーデー事件によって大衆的欲求を逆にとりちがえた主流派指導部は、まっしぐらに冒険戦術に突進した。五月から六月へかけて、火炎ビン闘争が一時に表面にあらわれ、軍事委や中核自衛隊が主導ないし参加した「武力行動」が、いたるところに発出した。おもなものでは、(1)五月三〇日の東京の五・三〇記念集会での新宿駅事件、(2)同日二名の死者をだした板橋山石之坂派出所しゅうげき事件、(3)六月二五日の朝鮮戦争二周年記念日での、吹田操車場における民戦・祖防など朝鮮人組織が中心となった青年デモ隊と武装警官隊との衝突事件(吹田事件)、同日大阪枚方の軍事工場しゅうげき事件、(4)姫路事件、(5)東京新宿駅での硫酸ビン事件、(6)七月七日の名古屋大須におけるデモ隊と警官隊との衝突事件(大須事件)、等々。
『武装闘争路線』吹田事件、大須事件のファイル多数
これらのほか、六月前後には、六月七日(三二〇万)、一七日(三〇〇万)、二〇日の三段にわけられた反破防法第三波ゼネストと重奏して、全国各地に大小無数の火炎ビン闘争が激発した。党と同調団体の関係するあらゆる大衆集会が、火炎ビン闘争の利用対象とされ、中核自衛隊の武力闘争の目標にされた。しかし、これらの全国的な火炎ビン闘争も、一部の青年・学生・朝鮮人らの行動を中心に若干の労働者をまきこんだだけで、さいごまで大衆的な軍事行動にまで発展せず、ましてや全国にわたる人民武力革命の機運の高揚にはならなかった。
反対に、たびたびの警官隊との激突も、大衆から孤立した独自行動の傾向をとるようになり、七月の大須事件ののちは、しだいに散発的となっていった。ムダな火炎ビン闘争のなかには、六月二日の大分県菅生村の駐在所バク破事件のように、山村工作隊の拠点に国警の警察官が潜入して、党員をいつわって事件を主導したものもあった。七月四日には破防法が成立し、二一日には公安調査庁が発足した。分散的な火炎ビン闘争は、結果において、破防法や公安調査庁の成立を政府が正当づける根拠を提供してしまった。
4、徳田論文とその性質、軍事委員会ひみつ機関紙『軍事ノート』
こうしてなんの益もなく、実害ばかり多い火炎ビン闘争は、五月から七月上旬へかけてさんざん「猛威」をふるったのち、七月四日付のコミンフォルム機関紙にのった徳田書記長論文が日本につたえられるのと同時に、一時に下火になった。日本共産党創立三〇周年を記念した徳田のこの論文は、ストやデモに没頭して選挙の問題などを軽視する一部の幹部の傾向を批判し、党員は「公然活動と非公然活動との統一に習熟」する必要があると、警告を発していた(徳田「日本共産党創立三〇周年にさいして」、『恒久平和と人民民主主義のために』、一九五二年七月四日)。
中央指導部は、さっそくこの方針にのっとり、七月一五日の三〇周年記念日には、八月下旬を期して「大平和祭」を催すことを発表、同時に中央スポークスマンは、今後選挙運動・平和運動などの合法活動を推進することを強調した。だがこの徳田論文も、(1)たんに一部の偏りを批判しているだけで、(2)根本的に軍事方針・武装闘争戦術そのものを否定しものでも、(3)明確に火炎ビン闘争を批判したものでもなかった。(4)だから指導部は、この後も軍事委員会−中核自衛隊の基本的な闘争組織をあくまで保持し、むしろこれをいっそう強化していこうとさえ考えた。
たとえば、さきに引用した『国民評論』第四〇号の大橋茂「メーデー事件の軍事的教訓」という論文においても、筆者は、日本の労働者階級は武装行動をめざす実力闘争を前進きせつつあると強調しつつ、「この実力闘争・武装行動に守られ、広範な国民の民族解放民主統一戦線は前進しつつある」と結論づけた。また「徳田書記長の論文にこたえる」では、武力闘争の方針を確認し、きらに軍事委員会のひみつ機関紙『軍事ノート』でも、軍事方針の基本線のうえで過去の武力闘争の検討をこころみた。
七月二八日付『軍事ノート』第五号において、「われわれは拠点経営における労働者の政治的経済的要求をスト委員会に結集し、これを武装化するために闘かわねばならない。これは当面している軍委の任務の一つである。それと共に、独立遊撃隊をふくむ中自隊をこの経営の闘争の中から組織し、パルチザン人民軍の方向へ発展きせるよう指導しなければならない」と、(1)スト武装化、(2)遊撃隊の組織、(3)パルチザン人民軍の発展という基本方式を強調した。八月の『軍事ノート』第八号は、中核自衛隊の必要性をあくまでみとめつつ、ただそれぞれがストライキ武装化という基礎的役割を軽視して、「拠点労働者大衆を街頭にひっぱりだして遊撃戦をやるのは誤りである」、「労働者が独立遊撃隊に参加しているからといって、労働者階級一般の中核自衛隊の基礎が遊撃戦にあるというのは誤りである」と訂正した。
一〇月六日付『軍事ノート』第一〇号においてようやく、火炎ビンが敵の反ソ反共宣伝の集中点になったことをみとめて、「われわれはもっと大衆と密着し、大衆の要求と行動の中で行動するという原則にたちかえって、この火炎ビン一揆主義を克服していかなければならない」と、やや反省らしいものをしめしたのである。だがこれも、個個の事例にわたって具体的に再検討したものではなかった。
第二章でみたように、(1)一九五〇年春以後一カ年半にわたる苛烈きわまる分派闘争は、わかいまじめな党員や同調分子の大衆を党からひきはなした。昨日までの同志を、一夜にしてスパイ、帝国主義の手さきとみなし、個人のひみつをまで平然と敵にばくろする非人間的やりかたは、多くの人たちに二度と回復できない心理的衝撃と不信感をあたえ、永久に戦列から去らしめたのだが、それがやっとおさまったとみるや、(2)今度は一年たたないうちに、いっそう実害の多い火炎ビン闘争の極左冒険主義への突入となり、いくたの青年たちを生涯とりかえしのつかない破めつのふちにおいこんだ。
党地下指導部のまちがった戦術のぎせいとなつた多数の青年・学生・朝鮮人が、その後何年間も追及をうけ裁判にかけられて、その青春をむなしく朽ちはてさせられた。またこの火炎ビン闘争は、広範な大衆に党を誤解させ恐怖させ嫌悪させて、ながく党からひきはなすうえに最大の役割をはたした。これらすべてにたいして、この時期の党指導部は全責任を負わねばならない。
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〔関連ファイル〕
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