近代人の形成と解体

 

水田洋

 

 ()、これは、『象・56号』(2006年秋)に載った水田洋名古屋大学名誉教授の論文である。『象』は、東海地方の総合文芸同人誌で、水田氏が編集責任者になっている。このHPに全文を転載することについては、水田氏の了解をいただいてある。

 

 (水田洋論文・インタビュー HP掲載ファイル6編)   健一MENUに戻る

 

 近代という歴史的時期の開始点を、ルネサンスと宗教改革とすることは、こまかい点で異端があるにしても、一応の常識として認められるだろう。しかしそのばあいに、ルネサンスのはじめをかざったペトラルカもボッカッチョも、一四世紀の人物であることに注意しておきたい。その最盛期をかざるミケランジェロにせよマキアヴェッリにせよ、活動するのは一六世紀なのである。宗教改革は、ルターの九五箇条という明確な時点があるが、その先駆史をウィクリフやフスあたりからとすれば、やはり百年前後の時差を考えなければならない。したがってマキアヴェッリとルターをそれぞれルネサンスと宗教改革の思想家とよぶのは、そのような前史とそれに対応する後史の存在をわきまえたうえでのことなのである。

 

 マキアヴェッリは『君主論』で、君主たるものその地位を保つには、宗教にも道徳にもとらわれることなく、自由に力(暴力)と知恵(謀略)を使うべきだとして、近代的個人の原型を示したとされる。しかしそれは同時に、かれが自分自身以外には何もたよれるものがない、孤立無援の個人であることを意味した。だからかれは、自分をとりまく状況の変化を、運命の女神の気まぐれとしか感じることができなかったのである。そのことはまた、かれが近代的個人を君主という例外的な地位の人間としてしか、考えられなかったことに対応する。かれはそこから視野を国家にひろげようとしたともいわれているが、それが共和制都市国家だとすれば、もはや歴史的概念にすぎないし、近代国家だとすれば、彼の政治手法の域をこえることであった。

 

 ルターは、中世後半にあらわれた異端の教義、万人司祭説を受け継ぎ、すべてのドイツ人が読めるようにバイブルを翻訳したのだが、それは領邦国家の強固な家父長制と識字率の低さによって、むしろ思想統制の強化を生みだした。万人司祭説を実践しようとする再洗礼派に対して、ルターがしたことは、領邦君主の軍隊を動員してかれらをホロコーストすることであった。後年ルターが、自分の手は農民の血にまみれていると、自己批判をしなければならなかったように、生まれ出たばかりの近代個人は孤立無力のまま運命に身をまかせるか、ホロコーストで血まみれになるしかなかったのである。

 

 ルターのながれをくんだカルヴァンについては、日本ではカルヴィニズムのイギリス版のピュアリタニズムが、マクス・ヴェーバーと大塚史学によって美化されているために、知られることがすくないが、カルヴァン自身の異端糾問のきびしさは、カソリックのそれにおとるものではなかった。

 

 信仰の内面化、純粋化というのは、聞こえはよくても実際には、各人それぞれに内面的信仰の正当性を主張してあらそうという、宗教戦争のたねをまいただけであった。イギリス、フランス、ドイツではそれぞれのやりかたで宗教戦争からぬけだし、とくにイギリスでは、一八世紀なかばまえに、ヴォルテールが「イギリス人はそれぞれすきな道をとおって天国にいく」とのべたような状態が実現した。ただし、そのイギリスから、宗教戦争の火だねはアメリカ大陸にはこばれて、キリスト教原理主義としていまなお生き残っている。

 

 イギリスの宗教戦争の只中で書かれたホッブズは、ヴォルテールの軽妙さには到底およばないが、『リヴァイアサン』によって、教会とはかかわりのない近代国家の理論を確立しようとした。マキアヴェッリやルターの近代個人は、この近代国家のなかに再生する。ホッブズによれば、各個人は生存権を、侵すこともゆずることもできない自然権としてもっていて、生きるためにはできるかぎりのことをしていいのだが、それでは万人対万人の戦争状態という、ころしあいの自然状態におちいらざるをえない。それをさけるために、すべての人びとは社会契約によって単一人格の絶対主権を設立し、自然権を譲渡して、平和を達成しようとする。ところが、すぐ気がつくように、自然権は生きる権利であり、それを平和に実現する手段として国家をつくりそれに服従したはずである。誰か一人でも自然権を持ったままであれば、平和は維持されない。だからホッブズは、善悪正邪所有信仰のすべての判断を主権者の手にゆだねたのではあるが、しかも自然権を譲渡したといいながら、ルソーが奴隷状態といったところにせまい脱出口を設けた。平和に生きるための手段としてつくった国家権力が、生きること自体を否定しようとするならば、それは自然状態への復帰であるから、自然権による抵抗が可能になる。

 

 とはいっても、はじめからそういうことを認めていたら、社会契約はなりたたないので、ホッブズが抵抗権をみとめていたわけではない。国家権力が身体を拘束または損壊し、抹殺しようとするにいたって、その当人だけは闘争または抵抗する権利を持つというのだから、抵抗の効果は、マルクスの言う利害の同一性が共同性に転化しないかぎり、期待すべくもない。つまり近代的個人の生存権は、ホッブズの体系のなかで、このぎりぎりのところでしか存続しないのである。みじめだと思うかもしれないが、生存権はこうした隘路をとおって確立されてきたのである。

 

 ホッブズの『リヴァイアサン』を、ぼくが捕虜収容所で翻訳したという話は、伝説になっているが、それは翻訳をはじめたというだけのことで、辞書さえほとんどないインドネシアの捕虜収容所で、そんなことができるはずはなく、岩波文庫で完成するまでには、四〇年が必要だった。捕虜収容所生活の収穫としては、それよりも、オーストラリア軍の大隊本部で、イギリス政府発行の良心的兵役拒否の手引書を発見したことのほうが、大きかった。

 

 生存権の理論的確保のために、ホッブズがやったような離れ業がいらなくなるのは、生活資料の生産が、事実としても観念としても、普及したためである。ホッブズがそのことをまったく考えなかったというと、奇妙にきこえるかもしれないが、理論的にはそうであり、それだからこそ生活資料のうばいあいとして、自然状態が成立したのである。事実認識としても、同時代の毛織物商人であったリチャード・ヘインズは、くりかえして、世界には現在ある以上の毛織物が存在することはないのだといっていたし、初期のジョン・ロックでさえ、そうであった。ロックは名誉革命のころには、労働投下による所有権を基礎にして政治参加の権利を主張するようになった。が、イギリス人の生得権すなわち自然権としての政治参加権すなわち参政権は、ホッブズの同時代、すなわちイギリス革命期にレヴェラーズによって要求されたことであった。

 

 しかし、レヴェラーは、女性にも徒弟や雇い人にも、参政権をみとめなかった。ホッブズも、心身の能力において平等な人びとが、自然状態(戦争状態)から脱却するために参加する社会契約では、男女は平等であるとしながら、現実の国家では、男が造ったものが多いから、そこでは父権が優越するのが当然だと考えた。

 

 かれらのあとをうけてアダム・スミスは、利己的個人の相互同感、生産物の等価交換によって、かれが商業社会または文明社会とよぶ近代社会の、自律的秩序が維持されるということを、道徳哲学と経済学によって立証しようとした。かれはルソーのつよい影響をうけた平等主義者であったから、くりかえして貧富の差を批判したが、それでも、分業による生産力の発展が、不平等にもかかわらず下層階級にまで富裕をおよぼすとして、自らなぐさめた。それほど分業の効果を賞賛しながら、かれは、分業による単純労働のくりかえしが、人間から主体的判断力(マーシャル・スピリット)をうばって、かれをかぎりなくおろかにすることを、見のがすことはできなかった。近代社会の体系的認識としての経済学をはじめて提供したスミスは、同時にそれの最もはやい内在的批判者だったのである。

 

 アダム・スミスは、フランス革命がはじまってまもなく死去するので、フランスでルソーを継承しようとしたロベスピエールの、誰も不足せず誰も持ちすぎない社会の建設が、どうなったかを、見とどけることはできなかった。しかしスミスが死にいたるまで改訂の努力を続けた『道徳感情論』の第六版(一七九〇年)で、カラス事件を例として、世論と良心の対立の可能性を指摘したことは、近代社会の等質性幻想への先駆的な批判であった。ホッブズにとって良心とは、コン‐シアンスすなわち共知であり、スミスにとってもそれは、相互同感によって成立した行為の一般的規則の内面化だったのである。

 

 こうした良心の孤立について、フランスの恐怖政治のなかで、犠牲者の一人となったアレクサンドル・ボーアルネは、自分の無実を主張しながら、「鉄鎖を粉砕しようとしてたたかう偉大な民衆」にとって必要な警戒心が、自分のような犠牲を生むのはやむをえないのだと遺書に書いていた。世論と良心の対立は、このようなかたちでも存在したのである。

 

 この問題を少数意見の保護の問題として明示したのは、ジョン・ステュアート・ミルであるが、スミスとミルのあいだには、近代社会の等質性と異質性について、さまざまな意見があった。こういえば、当然ロマン主義と社会主義が想起されるだろうが、ロマン主義は主として小市民知識人の意見の多様性を、社会主義は主として経済的利害関係を、対立を重視するものとして、理解するにとどめたい。それをまとめたのが、マルクスでありミルであったのである。

 

 二人とも、産業革命後の近代社会における個人の問題を考えるにあたって、ロマン主義の影響を受けていたことに、注意しておきたい。詳細にたちいる余裕はないが、ここでロマン主義というのは、フランスではサン・シモンの社会主義、ドイツではハイネたちの青年ドイツ派をふくめた思想圏のことであって、マルクスがベルリン大学でまなんだ民法学教授エドゥアルト・ガンスはサン・シモニアンであった。エンゲルスに労働問題についての理論的な関心をおこさせたトマス・カーライルは、ミルの親友であり、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』とおなじ年にミルが出版した『経済学原理』(一八四九)で、ミルはサン・シモニアンの影響下に、資本主義の永遠不変性を否定した。

 

 産業革命のまっ只中のマンチェスターで、カーライルをよんだエンゲルスは、眼前でおこなわれている労働の非人間性にたいしてカーライルが中世の職人の仕事の人間性を強調していることに、つよい印象をうけ、マルクスとともに、人間とくに労働者の非人間化の研究にむかった。経済学の研究ではエンゲルスが先行し、体系化はマルクスによって推進された。『資本論』体系からはワシーリ・レオンチェフの産業関連分析が出てきたことをあげておこう。労働価値論はどうしたのだと、いわれるかもしれないが、あれは経済学ではない。ぼくは昔から、労働価値論を理解できないやつといわれ、『社会思想史概論』のスミスの部分では、山田秀雄や平田清明と意見があわなかった。ところがそのご気がついてみると、マルクス研究のなかで、労働価値論をカチカチ山のように論じ続けていたのは、日本の学界だけだったのである。

 

 昨年出版された『マルクス入門』では、商品価値を「人間相互の関わりのなかでのみ出現する精神的なもの」と説明し、それを読んだ老マルクス主義者は、「目を白黒させた」と書いた。どちらも正直な告白であって、投下労働量によって決定される価値という観念は、経済学とは関係がなく、せいぜい労働力の商品化(それ自身はマルクスの鋭い着眼による発見であるが)が生む人間の疎外に関係があるという程度である。ヘーゲル左派の哲学者であったマルクスが、エンゲルスの示唆で『国富論』を読み、そこではじめて出あった経済的価値の観念について、頭の訓練をした結果が、かれの労働価値論であった。

 

 そういう脱線とは別に、近代思想史におけるマルクスの巨大な貢献は、疎外論とイデオロギー論である。疎外論によって、それまで賞賛された進歩の欺瞞性があきらかになり、イデオロギー論はその欺瞞の必然性をあきらかにした。これは、それまで進歩をたたえていた人間(啓蒙思想の近代人)とはちがった人間が、かたりはじめたことを意味する。その人間とは、産業革命を終了した近代国家が必要とした小市民知識人であり、その下のプロレタリアートであって、ブルジョワジーからの転身もすこしは発生した。ミルのばあいは、プロレタリアートへの恐怖から、小市民知識人の立場があいまいになるが、とにかく「意見のちがい」というものが、ぬきさしならない性格をもっていることが確認されたのである。

 

 マルクスはイデオロギー論によって、ブルジョワの制度や思想の虚偽性と抑圧性を暴露したが、これまでの批判者たちとちがって、それらを単純に否定するのではなく、成立の必然性、必要性をあきらかにしようとした。もちろん、そうでなければ、イデオロギー論そのものがなりたたないだろう。ところが、こうして近代的個人をブルジョワジーとプロレタリアートという二大階級に分割したマルクスは、人間性を全面的にうばわれたプロレタリアートに、それを回復する権利と能力があるとして、この階級全体を理想化してしまったために、階級内部の問題も階級間継承の問題も、とりあげる余地がなかった。継承については、彼自身がひとつの好例であったのだ。

 

 これに対してミルは、二大階級のどれにも属さない教養小市民の少数意見を、数の支配からまもろうとした。かれの提案は、選挙区をこえた敗者連合であったり、知識人の複数投票権であったりして、近代民主主義の平等性原則に反するのだが、かれ自身は平等論者であり、教育の普及が、現在の少数意見を多数意見にかえることを期待していた。具体的な少数意見としてかれが主張したのは、土地の国有化と所得税の累進化と女性の政治参加など、平等原則の実現であった。とくに女性の参政権は、近代思想のなかに例外的な少数意見としてかろうじて受けつがれてきたものの明確化であり、やがて家族制度の解体をふくむ女性解放思想へと発展する。これは原始マルクス主義には、きわめて不完全なかたちでしか存在しない思想であった。

 

 近代的個人はマルクスによって階級(労資二階級)に分解され、ミルによって教養人と無教養人に分解され、さらにミルによってというよりその妻となったハリエット・テイラーによって、男と女に分解された。しかしこの三重分解によって生じたどの部分についても、それぞれの内部でのさらなる分解は考えられなかった。ミルは個性を強調し、マルクスも『共産党宣言』で、「各人の自由な発展が、すべてのものの自由な発展の条件」になることを展望したが、いずれも、価値観の多様化が神々のあらそいになるとは、予想しなかっただろう。

 

 ほぼおなじころの日本では、つまり明治維新(一八六八年)の前後に、ホッブズ、スミス、ミル、ルソーなどの思想が、順序不同ではいってくる。しかし、『リヴァイアサン』は文部省によって、自然権としての生存権の部分を省いた絶対主権論として翻訳されたし、ミルの訳者は社会ということばの意味がわからなかった。ルソーについては一般意思と全体意思のちがいよりも、啓蒙的専制または合法的専制ということばの、もとの意味が伝わらなかったことが問題だろう。スミスの『国富論』は福沢門下の二人の青年のいのちがけの翻訳によって伝えられ、その一人の生家は今日なお、富国論という酒をつくっている。スミスよりも、ここでは福沢がスミス以上に注目していたフランシス・ウェイランドをあげておきたい。福沢たちがウェイランドの著書に寝食を忘れるほど熱中したということを、ある国際会議で話したところ、アメリカ人から、あんな退屈な本に熱中するとは信じられないといわれたが、彼らの興奮の理由として、儒教道徳体系が崩壊した空位時代に、「一身独立」したあとにそれらの一身を横につなぐモラルあるいはマナーを、かれらがキリスト教に求めようとしたのだ、と考えられないだろうか。もちろん事実としては、儒教側の再編成におしきられるのだが。混乱期の青年としては、福沢は長く生きすぎ、えらくなりすぎた。このような明治青年の苦闘、近代的個人が日本でふみこまざるをえなかった泥沼については、これ以上ふれることをひかえなければならないが、既存の価値体系の崩壊としては、それぞれの国にさまざまなヴァージョンをみることができるのではないか。

 

 すぐまえにミルとマルクスについてのべたような、近代的個人の分解、多様化は、西ヨーロッパでは、かれらの晩年ごろから、次第に目だってきて、第一次大戦でひとつの頂点に達する。それがほぼ、帝国主義の時代とよばれるものと一致するのは、けっして偶然ではない。

 

 近代国家、あるいは近代社会といってもいいが、その運営は、公私をとわず、行政、経営、教育、技術を担当する膨大な中間層=知識人が必要であり、かれらのもとでより大きな中間層が再生産される。それを物質的に支えるのが植民地支配である。こうして小市民社会が形成されていくと、そこで生産され享受される芸術作品の評価の多様性が、すぐわかってくるし、同時にそれの商品化と市場価格の問題も発生する。マルクスやミルの晩年、すなわち帝国主義の到来が近づいたときに、フランス画壇で反主流から主流に転化する印象派は、小市民や労働者の生活をえがくとともに、自己の印象すなわち主観的価値判断に忠実であろうとした。印象派という名称がそのような理論によるものかどうかについては、異論もあるのだが、そのような主観主義から、彼らは無政府主義に共感をもった。クールベが同郷のアナキスト、プルドンを尊敬していたことは有名だし、ピサロもプルドンの愛読者であった。ヴァロトンは版画「アナルシスト」を残している。これらの画家だけでなく、象徴派の詩人マラルメも、無政府主義機関誌の定期購買者であったし、世紀をこえると、シニャックが、アンドレ・ジッドとともに、反ファシズム知識人委員会を主宰するにいたる。先に進みすぎたが、ジッドが、共産党に協力しソヴェート連邦をたたえながら、くりかえしてコンフォルミスムを批判したのとおなじく芸術家たちがもとめていたのは、個人の責任における価値判断の保障だったのである。

 

 こうした価値判断問題はドイツでは、二つの新カント派によって、ちがったやりかたで、とりあげられた。ひとつは、ラング、コーエン、フォアレンダーのマールブルク学派で、これはカントの人格の協同体の実現として社会主義を考えるのだから、枠ぐみとしてはわかりやすいし、かれらは三人ともドイツ社会民主党の党員であったとおもわれる。コーエンは手紙で「同志カウツキー」とよびかけているし、フォアレンダーは、一九〇〇年に『カントとマルクス』を書き、第一次大戦後には『マキアヴェッリからレーニンまで』を書いた。

 

 もうひとつは、ハイデルベルク学派あるいは西南ドイツ学派とよばれ、ヴィンデルバントとリッカートによって代表される。マールブルク学派が、分裂し非人間化されつつある近代人を、社会主義に流しこんで再生させようとしたのに対して、ハイデルベルク学派は、認識の客観性に執着して、ここに近代人をつなぎとめようとしたのだから、主体の問題は残っていることになる。

 

 しかし、ヴィンデルバントが『偶然に関する諸学説』(一八七〇)、『認識の確実性』(一八七三)からはじめ、リッカートも二番目の著書が『認識の対象』(一八九二)であるというように、かれらは認識の確実性を追究しながら、とくにリッカートは、文化科学的認識は価値に関係することにあるとしながら、それでおわれりとして諸価値の闘争を無視あるいは放置した。ミルのばあいとおなじように、伝統的諸価値そのものへの信頼はゆるがなかったのである。

 

 おそらくここで、フランス、イギリス、オーストリア、さらにはアメリカの類似の思想状況にふれるべきなのだろうが、紙数はかぎられているので、ベルクソンとフロイトをあげるにとどめる。アメリカについては、プラグマティズムをあげていいだろうが、イギリスでは問題意識そのものが希薄であったようにおもわれる。それらに対して、ドイツでとくに認識主体と価値の問題がとりあげられたのは、もちろん、ドイツの哲学的伝統があったからではあるが、その伝統そのものは、近代社会とその思想のなかでの後進国意識に深く根ざしていた(近代以前には国家・国民間の比較ということがなりたたない)。ただし、後進国意識が必ずしもつねに劣等感をともなうものではないことに、注意しておきたい。ドイツの哲学にも経済学にも、イギリスの先進性をみとめながら、そのまちがいを訂正するという優越感があった。後進国の理論的優位ということばは、ヒュームとカントの研究者、山崎正一氏のものであった。

 

 そこで、マルクスとミルの晩年のドイツに帰ってみると、ニイチェが『悲劇の誕生』(一八七二)以来の執筆活動を続けていた。かれは近代文明、近代個人の全面的否定者のようにおもわれているが、それは的はずれである。かれはたしかに近代の批判者ではあった。しかし、その批判が近代のどこにむけられていたのかは、議論の余地があり、かれがルネサンス・イタリアの近代的個人にあこがれていたことについては、議論の余地がない。『ツァーラトゥストラ』(3.3.39)には、マキアヴェッリの『君主論』(運命は女)からの無断引用があり、『善悪の彼岸』にも、かれへの賛辞がある。学生時代によんだ政治思想史の本(フィギスだったとおもう)では、マキアヴェッリの君主を、ニイチェの超人の先駆としていたから、二人をむすびつけるのは、それほどめずらしくはないのかもしれない。分解しそうになった近代個人を、古代ギリシァとルネサンスをモデルとして、再建しようとして、生みだされたのが超人ではなかっただろうか。そのあとをうけて、しかもミルとマルクスに目をくばりつつ、近代個人の運命にとりくんだのが、マクス・ヴェーバーであり、それをまちうけていたのが、第一次世界大戦による価値体系の世界的崩壊であった。

 

 以上で、本誌本号に書けることは、時間的空間的におわった。このあとは次号になるかどうかわからないが、焦点をヴェーバーにしぼるつもりはない。むしろ新カント派が認識論で終わったことへの不満から、フッサールが現象学で認識主体の確立につとめ、そこで純粋化された主体を、ハイデガーが一度日常性になげこんだのちに、実存としてすくいだす−というような過程のなかでヴェーバーを考え、その周辺を見回すことができないであろうか。ただしそこから二度の大戦を通ってサルトルまでというのは、もちろんたいへんな長距離の難路であって、限りなく試論をかさねることしかできないだろう。

 

 第二次大戦後の日本におけるヴェーバー研究の成果は、質量ともにアダム・スミス研究とならぶほどなので、ふたりとのつきあいはともに七〇年であっても、ヴェーバーおよびヴェーバー研究についてのぼくの知識、したがって発言権は、きわめて限られている。しかも外側から見ていると、ヴェーバー研究者のあいだには、信徒の正統性争いのようなものがあって、アダム・スミス研究の雰囲気とはまるでちがうのである。日本での争いはさておき、山之内靖『ニーチェとヴェーバー』には、「単刀直入に言うならば」とか「率直にいうならば」とか、思いいれ十分な表現がある。余人にはわからないだろうが、という意味であろう。研究成果というものは、はじめから率直にいわれるべきではなかったか。

 

 ニーチェとヴェーバーにしても、ヴェーバー教徒ではなく思想史を見ていれば、誰でも気がつくことで、発見の先陣争いをするほどのことではあるまい。争いがおこるのは、「発見者」に深読みがあるからだが、過去の思想家のあいだに、影響関係を断定するのは、明示的な証拠が必要なのだ、類似について語るのは自由である。

 

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 水田洋論文・インタビュー HP掲載ファイル6編)

    『戦争の民営化−どこまで続く dirty war

    『自衛隊イラク派兵差止訴訟の原告意見陳述』

    『記憶のなかの丸山眞男』

    『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

    『住民運動は民主主義の実践』インタビュー

    『社会思想史研究の60年−1939〜99』