介護日誌
2003. 12. 22
介護(03秋・在宅、あと一ヶ月)
10月5日からの在宅介護も2ヶ月余りが過ぎ、残り一ヶ月で再び冬期施設介護生活というところまでこぎ着けた。
ショート・ステイ
11月3日〜9日
ショート・ステイの準備(服用薬)
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上記の期間、ショート・ステイをプランした。いわゆる短期入所介護というものだ。ショートステイの間を利用して北九州に遊びに行った。
先輩いわく「介護される方も、するほうも息抜きしないとお互い疲れる」。
される方だって息抜きが必要とは、介護者から離れるということ?。
被介護者も自分の意思でそのような状況になった訳ではないと言いたいのかも知れない。
介護者にとってはず〜っと離れてほしいものだが・・・。
ステイ中の服用薬を写真のように準備する。
まあ11月のプランは思い通りにいった。
ショート・ステイ
12月13日〜20日
中旬に屋久島ツアーの募集があり、ショート・ステイをプランしツアーに応募した。ところが、ツアー参加者が少なくボツになった。
世の中ままならないものだ。しかし運良く先輩との懇親会をセットできた。
ところがである。ショート・ステイを予定した3日前、受け入れ先から感染症のため、ショート・ステイを遠慮してもらえないかと連絡があった。
何と運の悪い12月であることか!また「ショート・ステイの目的は介護者の息抜きのためにあるのをこの人はどう考えているのか」と思いつつ、ケアマネさんにステイ先を探してもらった。
(前ケアマネさんが別のステイ先を見つけてくれ一件落着した)
おそらく被介護者の母はショート・ステイと言って振り回されていると考えているかもしれない。私はそんなことお構いなしに出かける。そうやって非日常の生活を作り出している。作り出さないでいるとストレスで私は気が狂うかも知れないからである。
12月のショート・ステイが終わり施設から帰ってくると溜まった洗濯物を処理する。するとなにやら見慣れないシャツ、ズボン、タオルなどが出てくる。同室の隣のベッドの人のものらしい。
ということは自分の物と他人の物の区別が付かなくなってしまっているらしい。
ショート・ステイ中は、多分起床させられていたのかもしれない。迎えに行ったとき、ナースステーションの前でイスに座っていた。
シルバー・カーを押して部屋に戻り帰る支度をはじめる。シルバー・カーを押して歩く足取りはかなりしっかりしている。在宅のときは寝てばかりでいるので
足も弱ったと感じる。
食後、立ち上がって一歩踏み出すまでにかなりエネルギーを費やすらしい。
Kさんの部屋の一部
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訪問(12/18)
近くに住んでいたKさんがこの夏亡くなった。Kさんは母と同じくらいの歳のお母さんとふたり暮らしをされていたので、私の家庭と似通った環境であった。Kおばあさんが入所されている有料老人ホームに面会に行った。
おばあさんは自室で手紙を書いていた。
足が悪く歩けないと言われていたが、元気そうであった。
小一時間程度、話をして暇乞いをした。握手をしたらなかなか手を離そうとしない。
デジカメで写真を撮らせていただこうとしたが、断られてしまった。代わりにお部屋の写真を撮らせてもらった。
私は訪ねてよかったと思うが、ご本人はどうだったろうかと思いつつ部屋を出た。
おばあさんの生活ぶりを見て自分の将来の一つの選択肢であると思った。
訪問(12/21)
母にKおばあさんのところに行ってみるか聞くと「行く」という。
3日前に面会したばかりなのにという気持ちも心の片隅にあったが、お年よりは喜んでくれるかも・・・。
と言う期待も込めて出かけた。
Kおばあさんは母の訪問を喜んでくれた。
母はKさんより1歳年長であるが、痴呆の方は進んでいるように思える。母のほうが耳が遠く会話が出来ない。
耳が遠いので情報のインプットができない。
すると会話のための情報量が少ないので、黙り込むことが多くなる。
私は、この歳の人は話をしないと頭脳の処理装置がお留守になり結果として錆びついてしまう、すなわちボケるのではないかと思う。
母の老人性痴呆症の原因はこんなところにあるのだろう。
先輩は「病気なのだから、それを理解することが必要だ」という旨のことを言われていたが、母も老人性痴呆症という病気なのだろう。加齢とともに痴呆が進むのは病気の進行と考えなければいけないのであろう。
しかし通常の会話が出来ない人間を相手にすることは相当疲れるものである。
疲れ=ストレスの対処方法は、アルコールが手っ取り早い。