きいき
2003.10. 16
随録のページ(精神余命)

はじめに
何日か前のY新聞に作家・夏樹静子氏の「精神余命にも心配りを」という題の寄稿文を読んだ。
自作の小説で「若年性アルツハイマー病と疑われた男が医師に自分の『精神余命』を尋ね『自分がいつまで自分自身でありえるか』と問うている」
「喪失体験」が多くなる老年期には精神余命に心を配り「獲得体験」を重ねてみずみずしい感授性により人生を享受すると述べている。

日本の平均寿命は世界でもトップクラスだそうだ。しかし寿命の平均値を高くしているなかにはいわゆる寝たきりの人々の存在もあると聞く。「健康寿命」という言葉が使われるようになった。
健康寿命を支えるのものの一つに「精神寿命」があると思う。

私は

寿命に「精神」のことも考慮すべきとの話だが、私も寿命にはいろんなものがあると考え下表のようなものを作ってみた。
政治家がよく使う「政治生命」もそうだろう。
私自身も喪失経験、介護の経験からやむなく現実を受け入れるために考えついた。
4年前、妻が死の床にある時、看病しながら私はまもなく来るであろう「妻の死」を受け入れなければならない自分自身の衝撃を少なくしたいがため自分にに言いきかせていた。
人は死の瞬間にすべてを失ってしまう。しかし人は徐々にさまざまなものを失っていくわけであり、「死」もそれらと同じではないかと。

年代0〜  10〜20〜30〜40〜50〜60〜70〜80〜90〜
社会人寿命
地域人寿命
家庭人寿命
精神寿命
肉体寿命


社会人寿命:会社人間として労働の対価としてサラリーを受け取る。一般的に「現役」といっている。
地域人寿命:地域社会にボランティアとして何らかの貢献ができる。
家庭人寿命:家庭の一員として家事を行い、家族の支えとなれる。
精神寿命  :希望を持つ、好奇心を持つ、学習意欲を持つなど精神の維持能力がある。
肉体寿命  :食べて寝るだけのことしかできない場合もこの寿命はある。

これから
たしか60歳の平均余命は20年くらいだったと思う。しかし私は80幾つの自分は想像できない。
表は自身のことを考えて作った。労働の対価とサラりーを得る「社会人寿命」は終わった。これからは地域に貢献できることを目標に表の「1」も色が薄れることなく、あわよくば「2」の位置まで続けられたらと思う。
家庭人として「3」の部分は妻亡き後を維持している現状を「4」「5」と延ばしていきたい。
さて最も肝心な「精神寿命」であるが、肉体が滅びるまで現状を維持したい。精神寿命が終われば肉体寿命も終わりにしたいものである。
肉体寿命だけ長くても精神寿命を早く終えた人生はつまらない。ゴッホは37歳で人生を終えている。しかし彼の画家としての仕事は最後の10年間である。すざましい集中力であったであろう。凡人には無理であるが見習いたいものと思う。
その精神寿命を健全に維持していく方法は、私は既に失ったが「社会人寿命」を長持ちさせる方法が最も容易だろう。しかしサラリーマンはなかなか難しい。時期が来れば有無を言わさず仕事ができなくなる。

私の場合、趣味に対する意欲を持ち続けることだろう。ミーハー的なことにでも好奇心を持ち続けることだろう。
高齢になるとできないが、まず自分で運転して九州まで行き一周したい。その次は日本一周なんてことも夢に持っている。
寿命と余命は異なるが、余り深く考えず使用した。たしかゼロ歳児の平均余命が平均寿命だったと思う。


髄録