楽しむ
11/5
(義父宅→小倉駅前→手向山公園→小倉駅前→帰着)
11/6
(義父宅→小倉駅→門司港駅→巌流島→下関・唐戸→旧英国領事館→唐戸市場→李鴻章道→赤間神宮→安徳帝御陵→壇ノ浦古戦場址→関門トンネル→和布刈神社→
門司港駅→小倉駅→帰着)
手向山公園
この公園に村上元三の小説佐々木小次郎の碑があることは記憶していたが、宮本武蔵の顕彰碑(養子の伊織が建立)があることは
登ってみるまで憶えていない思い出せなかった。いや知らなかったと言う方が正しい。
この地は宮本伊織が小倉の小笠原藩主から薪山として拝領した土地であると説明文に記されていた。
その地に伊織は武蔵の没後の1654年に顕彰碑を建てた。碑文は武蔵と交遊があった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したと記述されている。
碑文の解説した案内板が立っており、碑文と解説文と比べながら眺めた。
碑文の大意を記した案内板がある。
「兵法天下無双」
武蔵は文武両道を極め、二刀兵法の元祖である。十三歳で初めて勝負をし、十六歳で但馬秋山と勝負し、これに勝った。京都で日本一の兵術家吉岡清十郎にも勝ち、一門の恨みをかい、多数で襲われたがこれも撃ち破った。舟島では兵術の達人巌流と勝負をした。巌流三尺の真剣で秘術を尽くして戦ったが、武蔵は木剣で一撃し殺した。以来舟島を巌流島という。
十三歳から壮年まで六十数勝負をし、敵の眉間を打って外さず常に勝った。昔から兵術の雌雄を争う人は多いが、相手を打ち殺す程の技量を持つのは武蔵だけである。
その名は全国に知れ渡った。武蔵は常に無私の境地になれば戦場で大軍に恐れることも、国を治めることも難しくないと言う。
石田三成謀反の時も、大坂の陣の名声を博した。加えて文武総てのものに業績を残した。肥後で没する時に「天仰実相円満兵法逝去不絶」と書いて遺言とした。
また碑文の中に「岩流」の文字がある巌流のことのようである。
私が15、6歳の頃、当時の小倉市に住んでいた。今の15歳といえばなんでもひとり、仲間で行動するだろうが当時の私には考えられなかった。
父は病弱であったが時々私を連れ出してくれた。この手向山公園も父に連れて来て貰い、体調が悪かったであろう父は「もう少しゆっくりゆっくり歩いてくれ」と言いつつ山を登った。
そんな思い出がある公園に何を求めてきたかわからないが二度目と言うことになる。
公園の北端から関門海峡が望める。この日ここを訪れた頃から雨が降り出した。かすかに巌流島が見える。
巌流島
巌流島、正式名は舟島。島の形が舟に似ていることから名づけられたそうだ。現在は下関市に属するが決闘当時は小倉藩だった。
周囲1.6kmの無人島。現在は埋め立てられて面積が103、000平方m。埋め立て前は17、000平方m。埋め立てられた部分はある企業が所有し立ち入り禁止となっている。
島へは門司港と下関・唐戸からそれぞれ一日に5便、6便の連絡船が運航されている。料金は往復または島を経由して対岸まで800円。10分の短い船旅である。
島では武蔵・小次郎のTシャツなどを販売しているにわか造りの売店があるほか写真のような銅像があるくらい。
それでも私は1時間半くらい滞在して海峡を往来する船を「船は右側通行か!」なんてボンヤリ眺めていた。この海峡では潮の流れが一日に二回、東西入れ替わるそうである。結構潮の流れは速く流れに逆らっている船はシンドゥそうに進んでいた。
もう少し東よりの壇ノ浦では有名な源平合戦が潮の流れを味方にした方に軍牌が上がったとか。
巌流島ではふたりのにわか役者が武蔵・小次郎の決闘を寸劇として披露していた。
護岸のための岩の間に狸の親子が3匹いた。無人島だが無獣島ではないらしい。埋め立てられた部分の木々の間が住まいだろうか。
私は門司港に戻らず下関・唐戸の方に向かった。
たび