オーキング
03. 4. 21
ウォーキング (多摩川を下る) −我が家から羽田空港をめざし−
2、3年前3日かけて皇居まで歩いたことがある。
その水辺編として「我が家から羽田空港」までをめざし多摩川の堤防を歩いた。これも3日かかった。一日に歩く距離は20キロ前後である。
多摩川の堤防を12、3キロ歩き、家から最寄り駅まで往復歩いて4キロ。途中駅から多摩川へ出るまで3キロという計算である。
歩いてみると思わぬ発見をするものである。

電車に乗って何気なく見ていた川の原型は実は江戸時代に作られていたものであったり、6年ぶりに通った川崎街道は当時、工事中であったが見違えるように変貌している。

  順をおって記す。
マップとアルバムを参照願います。
アルバムは
ウォーク・フォト(多摩川下り)
マップにはウオーキングしたところを赤色で、電車を利用したところを青色で記している。

第一日 (4月3日)我が家から京王稲田堤駅まで

  稲城市大丸の北部の多摩沿線道路を目指し、多摩市役所の側の旧鎌倉街道を通る。熊野神社の境内に紅白の梅の木があった。花も紅白、花びらにも紅白が混じっておりめでたいものに出会ったと思う。
側に「霞ノ関南木戸柵跡」という東京都指定の史跡があった。

連光寺の都立桜ヶ丘公園を通り抜け川崎街道に出ようと通りがかりのご婦人に道を尋ねるがご存じないようだ。入り口に公園の案内図がなく立て札は禁止事項ばかりが記されている。見当をつけ広大な公園の雑木林の間の散歩道を歩くが標識が見つからない。うろうろしながらようやく「旧多摩聖蹟記念館」の駐車場に出た。
連光寺坂上を右折し川崎街道を進む。私の頭にはこの道路は片側一車線で歩道がなくウオーキングには「不適」というイメージしかなかったが、6年ぶりに通ってみるとびっくり。車道は片側2車線、歩道も完備されている。道路の両側にあるゴルフ場からのボールをガードするための鋼製のネットがトンネルをなしている。

稲城市立病院の回りも道路が整備されている。私は利用したことはないがこの病院にも知人についての思い出が少しだけある。
現川崎街道から「旧川崎街道」に出てアカシア通りを進む。
「稲城北緑地公園」の桜も美しい。上流を見れば「是政橋」、下流には「稲城大橋」が見える。2時間かかってようやく多摩川の堤防にたどり着いた。 さて今日はどこまで歩こうか「稲田堤」か「登戸」か、このあたり多摩川中流の景色は見慣れておりなんとなく安心感がある。しかし河原の木立の間にはブルーハウスがかなり多い。
結局この日は京王相模原線の近くの桜を見て「京王稲田堤駅」へ向かう。第一日は終わった。


第二日(4月7日)京王稲田堤駅から武蔵中原駅まで

第二日は京王稲田堤駅からのスタート。多摩沿線道路を越え再び堤防に立つ。堤防の上のジョギング道を歩けば見晴らしがいい、堤防を降りて水辺を歩いて水の香りをかぐのもいい。水も思った以上にきれいで水鳥もかなり見られる。「二ケ領上河原堰堤」、「稲田取水所」がが見えてくる。手作りの説明板が立っている。「二ケ領用水」の取水口のひとつだそうだ。もうひとつは宿河原にあると記されている。「布田橋」を渡ると布田とい地名だ。この地名は対岸の調布市にもある。このように多摩川の両岸は別の行政区でありながら同じ地名があるのは多摩川が蛇行したことによるらしい。上流の「石田」、下流の「宇奈根」、「等々力」など。

このあたりの河川敷は運動場が整備されている。「多摩川水道橋」をくぐり小田急線の橋梁は改修工事中のようだ。くぐり抜けしばらく歩くと宿河原堰堤と「二ケ領用水」の取水口に出会う。対岸は狛江市、昭和4X年かの洪水で堤防が崩れ家が流されたのはこのあたりらしい。説明板を読んでいるとテレビのニュースで見たシーンを思い出す。

宿河原の河川敷に勤めていた会社のグランドがある。社員の頃は特にスポーツをやっていたわけではないので一度も利用したことも来たこともなかったが今初めて見る。この歳になってみると多摩川の流れを見ながら思い出す。
東名高速の橋梁、国道246号の新二子橋をくぐる頃から少し疲れたのかどうやって南武線の駅にたどり着こうかと考える。第二日で一気に多摩川河口までと考えていたが、自分の体力、気力のなさにがっかりした。東急田園都市線の橋梁を通過してしばらくして「武蔵溝の口駅」に行こうかと振り返る。南武線までかなりの距離がありそうだしもう少し歩こう。このあたりの河川敷はグランド、車が通れるくらいの砂利道も整備されている。
第三京浜の橋梁をくぐると河川敷はゴルフ場となっている。しかし水辺にはブルーハウスが点在している。

(以前武蔵小杉に車で来たとき川崎市民ミュージアムの側を通ったこと、ガソリンスタンドの側を右折したを思い出す) 「宮内北側」の交差点で多摩川ともお別れし「て武蔵小杉駅」をめざす。6年前に何回か車で通った道であるが歩いて見ると以外に遠く感じる。バス停の標識を見ると「武蔵中原駅」行きとある。3キロぐらい歩いたところで歩いている会社員らしい中年男性に道を尋ねる。親切に教えてくれ「私は急ぎますから・・・」と言って通り過ぎて行った。その人には私がおじいさんと映ったのであろう。嗚呼。 「武蔵中原駅」に到着。昭和37年ころこの駅をしばらく通勤で利用していたのだが・・・。 第二日目終わる。


第三日(4月9日)武蔵中原駅から産業道路駅まで

  
第三日は武蔵中原駅から富士通川崎工場の横を北の方角に向かう。
工場の敷地のはずれから北東に向きを変えたところに「二ケ領用水」が流れている。
地図で事前に確認していたから分かったが、第二日の帰りは気づかなかった。
カメラを構えているとおばさんが「あの花は何だろうね」と話しかけてきた。私もウオーキング中はなるべく見知らぬ人に声をかけるようにしている。これを「一日一声」とか「日々一声」運動と自分で称している。

ウオーキングはやはり天気の良い日を選ぶが前日の強風雨の影響が残っているのであろう風が強い。堤防の上はかなりきつく帽子を飛ばされそうになりなるべく河川敷を歩く。遠くに東横線とアーチ型の丸子橋が見えるこのあたりの河川敷は広く立派なグランド(日ハム・巨人のグランド)や公園が多い。 やがて新幹線・横須賀線の橋梁が並んで見える。新幹線が通り過ぎるのを待ってみるカーブで速度をおとしているためか騒音はそれほど感じない。

社会人になりたての頃はこのあたりは職場からそんなに遠い場所ではなかった。新幹線は未だ存在せず横須賀線の線路は「品鶴線」と呼ばれて品川・鶴見間の貨物専用の線路であった。昼休みに多摩川の堤防の草むらに寝転んだりしたことを思い出す。
男子寮と事業所の高層ビルが見えた。
遠くに「ガス橋」が見える。一般の橋の名前と違うので奇妙に思っていたがガス専用の橋であったらしい。(別掲)
川崎駅まで5km、浮島まで13kmの標識が見える。上流の二子橋あたりから河川敷の中に広い砂利道があるのが気になっていたが、よく見ると非常用河川敷道路と表示されている。地震等で通常の道路が使用できなくなったときのためらしい。このような道路は使用しないで済めば幸いだがいざの時にけが人・救援物資の輸送に使われるのだろうか。どこまで?

やがてアーチ型の多摩川大橋(第二京浜)まできた川崎市幸区・国道1号の表示が見える。川崎駅は近いのかと想像するが川は国道1号に並行するように流れを変えまだまだ遠い。やれやれ。小向の競馬練習場がみえラジオ日本のアンテナが立っている。海から8kmの標識。

京浜東北線、東海道本線、京浜急行本線の橋梁を続けざまにくぐる。このところは歩道が整備されていないので街中の歩道を歩いたり鉄橋に頭をぶつけそうになる。立派なマンションの近くにブルーハウスがあったりしてなんとも言えない気分になる。六郷橋(第一京浜)を過ぎると工場の裏手を通ることになるがウオーキング道はきれいに整備されている。工場の塀にもブルーハウスが並んで建てられていた。

ツバメが飛んでいた。私はツバメはもう少し遅い時期と思っていたので「もういるのか」とびっくり。あまりの速さにカメラが追いつかない。 4時半近くになった。空も雲が多くなった工事中の大師橋を右折し京浜急行・「産業道路駅」に向かう。
海から3kmのところまで来た。
第三日がそろそろ幕を下ろそうとしている。


霞ノ関南木戸柵跡 所在地は多摩市関戸1190.鎌倉時代の建暦三年(1213)に鎌倉街道に設けられた木柵の関で街道沿いに設置された監視所の跡と考えられる。
なお中世の関所跡として既に地名にも関戸と称せられ歴史上貴重な史跡である。
柵跡地は熊野神社境内参道に平行し、地表下30−45センチのところにおよそ45センチの間隔に丸柱(直径25センチ)の痕跡16があり、道路の東側にも 6,7ヶ所丸柱の跡が認められる。
二ケ領用水 二ケ領とは 川崎領と稲毛領の「二」つの「領」にまたがって流れたことに由来するそうだ。二ヶ領用水と対岸の世田谷領・六郷領を流れる六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」と総称することがある。中野島取水口からの用水は全長32kmで1611年に14年の歳月をかけて完成した。宿河原取水口からの用水は1629年に完成。
ガス橋 ガス橋は、下丸子と川崎市平間間に昭和4年(1929)、東京ガス鶴見工場のガスを東京に供給するためにかけられ、昭和35年(1960)に現在の橋にかけかえられ、自動車が通行可能となったそうである。(あるHPより)


ウオーキング