14年ぶりの新車だとか
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巣鴨駅前のサクラ 一輪!
”おばあちゃんの原宿”巣鴨に来たのは二度目、なかなか下車する機会がない。 昨年暮れのウオーキングのとき以来。 駅入口の桜の木に一輪開きかけているのを見つける。 空は青い、暖かいウオーキング日和である。 Oさん、Hさんに13日の昼食時にいなかったことを尋ねる。 「あなたもXXクラブに入んなさいよ」 そうか、道理で時々大きい道具をもってくるのか スタートまでのお喋りタイムも楽しいものである。 |
徳川慶喜さんの巣鴨屋敷跡
明治30年から4年間、中山道(現在の白山通り)に面したところに住んでいたそうだ。 駿府での謹慎生活の後この地に移り住んだときは61歳だったという。しかし4年後に文京区の方に移った、屋敷のそばを鉄道(現山手線)が通ることが決まり騒音を嫌ったからだそう。屋敷の奥に梅林があり梅屋敷と呼ばれた由。 慶喜さんは静岡での謹慎中、カメラを趣味としたり自転車に乗ったりしたそうだ。以前大政奉還後の暮らしを紹介した写真を見たことがあり、新しいものを積極的に取り込んでいると思った。 静かな暮らしをした人には新しい物の騒音は耐えられないのだろう。 |
染井吉野の碑
山手線に沿った道路と歩道の間に「染井吉野」と刻まれた碑があった。 昨年12月駒込をウオーキングしたとき「染井吉野の里」という石塔を見た。 近くには染井霊園、染井神社、染井よしの町会など染井の名前を残している。 桜のソメイヨシノは染井霊園があった旧染井村が発祥の地だという説がある。 どちらが元祖なのだろう。昔は染井という地名が広かったのだろうか。 山手線が川のように街並みの崖下を走っている、小さな橋を通り対岸に渡る。 狭い道を通って東福寺に着いた。ここは南大塚(一)だそうだ。 |
疫牛供養碑のある東福寺
むかしここらは緑豊かな農村で牛を飼育する牧場がたくさんあったそうだ。そこで病死した牛を供養するために碑が立てられたという。 お寺は一段高い所にあり、門は閉められて境内には入れなかった。 狭い路地道を曲がりくねって進む。巣鴨小、巣鴨幼稚園の横を通って千川通りへ出た。 「こういうところは住人じゃなきゃ歩けないね」 やがて都立大塚病院の前を通って大塚公園へ。 大塚公園の所在は文京区大塚、豊島区南大塚の南に位置する。??? 南大塚というのは大塚駅の南にあるから「南・・」が付くらしい。 |
大塚公園で小休止
山手線外回り、池袋の次は大塚駅。駅の北側は北大塚、南側は南大塚という町名になっている、豊島区だ。 今いる大塚公園はずっと南の文京区大塚にある。 大塚の地名はたいがい、大きな塚つまりお墓があったところのようだ。 公園のなかをひとまわりする。それほど広くはない、わが住まいにも同じ名前の公園があるがニュータウンのなかにあり広さだけは負けないようだ。 園内に子育・開運/大塚地蔵尊がある。庚申文字塔、地蔵、大日如来像、観音が並んでいる。300年以上前から供養してきたという。痛みが激しくセメントで補修されている。合唱 |
吹上稲荷から護国寺へ
春日通りで信号を待つ。 路地道に入り階段を下る、「ひとりではこれないね」。 文京区大塚五丁目6の表示が電柱に貼り付けてある。 一方通行の道から少し広い道路に出た。角の家に「売家」の紙が・・・。 またまた路地を曲がりくねって、吹上稲荷へ。稲荷神社は農耕の神様だとか、昔は田畑が多かったのだろう。 ぐるりと路地をまわると立派な屋敷門が目にはいる。つづいて護国寺の惣門をくぐる。 広い境内に驚く、さすが徳川将軍!! 不老門への階段を登る。桜の花が・・・奥に本堂(観音堂)がどっしりと構えている。 右に大師堂、 左手の多宝塔も優雅な佇まい。 |
大塚台公園へ向かいます
豊島ヶ岡墓地の中を通って広い道路へ、首都高5号線の下だ。 ふたたび狭い道に入る。文京、豊島の区境となっている、右へ左へ曲がりながら着いたところは天祖神社。社の裏側を都電が走っている。 都電の線路、踏み切りを渡って大塚台公園。公園には古いSLのC58形が金網に囲まれて展示されている。子供たちからも見向きもされないようだ。 お昼の時間です。 いつものコンビニ弁当をソコソコに食べると、私は先ほどの道へ戻り都電を”激写”。 |
ウオーキング
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