オーキング
08. 5.  18
ウオーキング(隅田川水辺歩き) <東年協/健歩クラブ・イベント>
1時間早く・・・!
隅田川4番目の橋だって・・・永代橋

日時:5月  7日(水)10時〜15時
本日のコース:史跡めぐり 東京駅→ヤン・ヨースチン(八重洲地名発祥)記念碑→秤座跡→堀部安兵衛武庸碑→船員教育発祥の地→隅田川テラス<新川公園→中央大橋→石川島公園→相生橋→越中島公園>→大島川水門→清澄公園→清澄白河駅(約6.5km)

この日は当番にあたり集合時刻の40分前に東京駅八重洲中央口へ行かなければならない。
5時に起床7時35分の快速に乗る。新宿駅には5〜6分遅れて着いた。
「JRとの中央連絡通路は混みあいますから西口へ・・・」素直に西口へ向かう。トロトロ歩いているより多少遠回りでも普通の速さで歩ける方がいい。
中央線の快速に乗ってみるとウソのよう! 意外に空いている。
あの電鉄会社も連絡通路、朝の混雑は何とか手を打たねばならないのでは・・・と思う。

東京駅には1時間前の9時に着いた。 改札を出ると今日のリーダーのHさんが立っていた。
私は当番は初めてである、もうひとりのNさんは手馴れている。徴収額「500円はここへ入れて! 名前書いて」、「お釣りあるよ」と言って千円札を受け取る。
こっそり「硬貨より札のほうを数えるのが楽!!」と教えてくれる。 「なるほど」

本日の参加者:56名

ヤン・ヨーステンの碑 
前夜、ヤン・ヨーステンをネットで調べる。”ヤン・ヨースチン”と入力すると”ヤン・ヨーステンではありませんか?” Google、Yhaooでも同じである。
徳川家康の頃漂着したオランダ人で、のちに幕府の外交顧問の役になったらしい。この地に邸を与えられ、八重洲は彼の名前にちなんだという。

中央通りと交差する八重洲通りの中央分離帯にその碑があった。
近くにはブリジストン美術館があり、昨年秋にはそこまで来たのだがこういう碑については知らなかった。
碑は通行する車のことを考慮してだろうか地面に埋められている。通りは広く中央分離帯もそれなりに広いのだが50数名が一度に見学するスペースはない。
堀部安兵衛武庸の碑
八重洲通りを東へ進み、昭和通の少し手前で日本橋三丁目に入り込む。秤座跡の碑が立っている。
秤の製造や校正などを行っていた所らしい。 200年余続いたとそうだから地道に江戸時代を支えていたのだろう。

ふたたび八重洲通りを東へ、亀島橋のたもとに堀部安兵衛武庸の碑がある。 堀部安兵衛と聞くと「決戦!! 高田馬場」叔父の果し合いを助太刀すべくタスキをかけながら踏鞴を踏む慌てている姿が頭に浮かぶ。
碑には「越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ元禄元年江戸之堀内道場入門・・・」と経歴が記されている。
その後赤穂浅野家の家臣堀部家の養子となり、赤穂浪士として仇討ちの後切腹した。34歳  この若さで、嗚呼!
新川公園から眺めた”新しい史跡” 
道を東に進み新川二丁目の信号を左に曲がり永代橋に向かう。
ここに船員教育発祥の地碑がある。1875年岩崎弥太郎が三菱商船学校を始め、東京商船大学となり現在の東京海洋大学となったそうだ。

永代橋のたもとから新川公園、隅田川の水辺に降りる。ここらを隅田川テラスという。
川沿いは細長い公園として整備されている。川の水はそれほどきれいとは言えないが、遠く大川端リバーシティに聳え立つ高層住宅は東京の”新しい史跡”となるのだろうか。
時おり船が行き交う、水上バスのデッキにも人が見える、 春のうら〜らの・・・である。
対岸に見えるのが大島川水門なのだろうか。
1993年に架設されたという中央大橋を渡って佃に向かう。
パリ広場にあるモニュメント・・・ 
以前のウオーキングで佃大橋から島へ渡り、リバーシティを南側から眺めたことがある。
ここはIHI(旧石川島播磨重工業)の工場跡地である。今日のウオーキングに参加した最高齢のKさんは昭和10年に入社したそうだ。 昔の職場があった場所を懐かしく参加されたらしい。

今は工場の面影はなく島の大半はリバーシティと呼ばれる高層住宅となっている。 水際には石川島公園がつくられ、一角はパリ広場と名づけられている。
時の流れとはいえ、そのような昔があったことに縁のなさそうな若い女性が自転車で通り過ぎていった。
マロニエの赤い花が無彩色の街に彩を添えている。新しい歴史が始まるのだろう。
明治丸のマストが見える  
石川島公園での昼食後公園内や水辺を散歩する。 水際には汐の干満で川の水が流れ込んでくるらしい。川との間の鉄製の柵には汐がこびり付いている。
公園内の「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」の碑には水戸藩が嘉永6年に命を受け石川島造船所を創設した・・・と記されている。

公園から相生橋の向こうの越中島に保存されている明治丸のマストが望める。この船は明治7年建造・・・。

このあたりは太平の眠りから覚め日本が立ち上がった場所のひとつかもしれない。
中の島公園・・・だって  
相生橋を渡る。渡りながら橋の由来を想像する、兵庫県の”相生”に関連しているのかな?
佃は大阪の佃島の漁民を住まわせたことからだという・・・。
後で調べると、 写真にある中之島を挟んで二つの橋が架けられ、相生の松にちなんで相生橋と名づけられたそうだ。
なぁんだ。でも相生の松は兵庫県高砂市のXX神社のが・・・。

中之島は公園になっているそうだ。
清澄通りをつなぐ相生橋から越中島公園に降りる。まもなく越中島発着場という水上バスの乗り場があった。いっそのこと水上バス停でもと言ってもいいだろうに。
公園の北側から大島川西支川に沿って永大通りを越える。澁澤シティプレイス永代に着く、おそらく 澁澤栄一にかかわりのある会社で史跡の発展したものだろう。
セメント工業発祥の地  
仙台堀川を越えたところに明治8年に日本で初めてセメント工場がつくられたという記念碑が建っている。 ここでも日本の夜明けを感じることができる。
今ではなんでもない技術、製品でも自ら作り上げるというのは大変な苦労であったろう。
なんて感傷もすぐ通り過ぎ、お隣の清澄公園に入り解散する。
公園の東隣は有料の清澄庭園、希望者だけが向かった。 私は数年前に1、2回訪れたことがある。

史跡といっても碑が残るだけになっている。古いものは消えいくしかないかもしれないがちょっと残念な気がする。

今日は浅草だって・・・
このあたりの史跡めぐりのとき、反省会は浅草のようである。大江戸線で蔵前駅へ更に浅草線で浅草へ。
お目当ての神谷バーは振り替え休業ですって。
あちらこちら探し回ってようやく腰を落ち着ける。午後3時10分。
定例のカラオケも4人でこなして都営浅草線・東日本橋で都営新宿線へ乗り換え8時ごろ帰宅。
暖かい夜はいいね。


ウオーキング