ウオーキング
04. 2. 1
ウオーク・古道(古戦場跡)
分倍河原古戦場跡碑
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分倍河原古戦場跡
多摩地区の「鎌倉みち」の周辺の古戦場跡を訪ねた。最も有名な古戦場は「分倍河原古戦場」かも知れない。
1333年(元弘3年)、新田義貞が上州で、鎌倉幕府を倒すため兵を挙げここ分倍河原まで鎌倉街道上ノ道を南下してきた。
古代・中世の武蔵の古道は国衙があった府中を中心に広がっていた。鎌倉街道上ノ道もそのひとつ。高安寺の近くを通り、分倍河原、三千人塚の西を通り、古多摩側を渡り、芝間、下河原、関戸へとつづく。さらに瓜生、小野路、野津田、七国山へいたる。
三千人塚
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中世の多摩川は青柳村(国立市・青柳)あたりから府中崖線に沿うように、現多摩川より北の方を流れていた。府中・小野神社のある小野ノ宮村(府中市・住吉町)、四ッ屋村(府中市・四谷)、芝間(府中市・南町一、五、六丁目)、下河原(府中市・南町四丁目)あたりは古多摩川の南側に位置していた。
芝間は現在、町名として残っていないが、「芝間通り」、「芝間稲荷神社」として名を残している。下河原も下河原緑道(国鉄下河原線の跡地)に名前を見ることができる。
多摩川は鎌倉幕府の防衛ラインであった。
幕府軍も北条泰家が加わり分倍河原は激戦となった。倒幕の新田義貞軍はやむなく堀兼(埼玉県・狭山市)まで退却した。
幕府軍は勝利の祝杯をあげていた。5月15日のことである。
分倍河原古戦場跡の碑は現鎌倉街道に面する分梅町の新田川分梅公園のなかにある。
古戦場跡碑からおよそ2km、東に行った矢崎町に「三千人塚」がある。分倍河原の合戦で戦死した兵士の、いわば無名戦士のお墓だそうである。
分倍河原古戦場跡は東京都指定旧跡である。あらためて説明を引用しよう。
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を速めた。元弘三年(1333)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路なんかし、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに久米川合戦で優位に立った。
関戸古戦場跡
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北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日
未明再び分倍の北条勢を急襲した。
関戸古戦場跡
翌16日の早暁、新田義貞軍は援軍を得て分倍河原に攻め込んだ。幕府軍はあわてて多摩川を渡り関戸にて陣をつくろうとしたが、新田軍の攻撃が激しく戦いは壮絶であった。関戸の戦いである。幕府軍の大将・北条泰家は家臣「横溝八郎」が応戦している間に鎌倉に退却した。
幕府の家臣・横溝八郎の墓
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5日後の5月21日、新田軍は鎌倉を攻め落とし鎌倉幕府は滅亡した。
関戸の「古戦場跡」の碑の近くには観音寺というお寺があり、副住職は「毎月16日の月命日には、古戦場で戦死した無名の兵士の供養をしている」と話していた。
古戦場跡碑がある場所から、少し奥にはいった
民家の庭先には北条泰家の家臣「横溝八郎」のお墓がひっそりとあった。
この近くには路傍に供養塔が多く、今でも花束が手向けられている。
参考文献
「鎌倉街道伝説」 2001.11.28 宮田太郎 ネット武蔵野
「東京都の歴史」 1969.10. 1 児玉幸多、杉山博 山川出版社