百草八幡宮
| 枡井坂
| 樹齢300年を越す寿昌梅
百草八幡宮の創始は康平五年(1062)源頼義が勅により、陸奥の国に出向の折、山城国男山八幡の土を携え来り、この百草の山頂に埋めて神を祀ったと伝承される。即現在の百草八幡宮である。
|
緑地の西側、山路に囲繞された台地は、古くから「枡井」の旧跡と語り継がれている。百草八幡宮社殿の修復の度毎に大工たちが木どりを行ったことに因ると言われた。この台地は大昔、椎や樫、杉などの巨木がうっそうと生い繁り、その根の近くから清冽な水が湧き出ていた。湧水源を枡井と名づけた。枡井の名は八幡宮や古代松連寺の山号に用いられた。山の南斜面中腹の民家をマシイ、その下をマシイ下と呼び夫々の家号(いえな)としてきた。 | 八幡宮下から百草観音に通じる坂路をマシイ坂と呼ぶ。マシイはマスイ(枡井)の土地訛りである。 巨木の倒損、伐木などによりこの湧水は衰え、路傍に痕跡を留める姿に変わった。枡井の原泉跡は精査されたが、所在は確認できていない。 「日野の歴史と文化」より
松連寺は奈良時代に創建された。平安時代から鎌倉時代にかけ真慈悲寺という大寺院があったそうだ。
南北朝時代には百草八幡宮を中心とした城が構築され、物見(奥州古街道を通過する監視)と通信のために使われていた。
元弘3年(1333)分倍河原合戦により松連寺は焼き尽くされ廃寺となる。享保元年(1716)小田原城主夫人「寿昌院」慈岳元長尼が岡崎三郎信康追悼のため松連寺
を再興する。明治6年(1873)廃仏毀釈により再び廃寺となる。
| |
ウオーキング
| |
---|