ウオーキング
04. 12. 1
ウオーク(いちょう祭)
八王子市内の甲州街道
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11月20、21日に八王子いちょう祭が開崔されていたので出かけてみた。新聞の地方版、市の広報やNHKの朝のニュース番組でも紹介されていた。
第25回と記されていたから四半世紀になるが、人ごみが嫌いで一度も見たことがなかった。今回は黄金色のイチョウの写真が撮れればと思いつつ、人出が少ないであろう午前の早めに歩くことにした。
京八から追分町
京王八王子駅から高尾駅までウオーキングするつもりでいた。甲州街道は西におよそ2km、追分町の交差点まで真っ直ぐ伸びている。
追分の交差点を過ぎると南西方向に高尾駅辺りまで約3kmの真っ直ぐの道である。
追分町の歩道橋から
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この追分の交差点から高尾駅あたりまでに銀杏並木があり、ここで市民手作りの「いちょう祭」がおこなわれる。
この銀杏並木は、大正天皇の陵が造られた昭和3年に植えられたそうである。
八王子市に住みながらめったに市街には来たことがなかった。私の住まいが八王子市でも東端にあり、生活圏は多摩市である。しかし1年前八王子市に美術館が出来、時たま市街を歩くことが多くなった。ついでながら美術館は写真のビルの2階にある。このビルはビュータワーという名前で、上層階は住宅になっている。
写真では分かりにくいが、ビルの並びの東側に荒井呉服店というお店があるがユーミンの実家だそうである。
私は甲州街道に面した商店街を歩く、この歩道は商店の屋根が突き出しているアーケード風になっている。お店も昔風のたたずまいが多い、なんとも古い町並みである。歩いている人も腰が曲がったおばあさんが多い。
なかにはいちょう祭に向かっているらしい人々もみえる。
そんなオバサン、おばあさんの間を縫って歩き追分の交差点に着く。
歩道のフリマー
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追分町〜多摩御陵
交差点を曲がったところから、まだ青さを残した銀杏並木が見えてくる。歩道にも人が多くなってきた。「これは歩くのが大変だぞ!」と思いつつ、通行手形なるものを500円で求める。寛永年間(1789〜1801)、幕府の道中奉行によって作られた「甲州道中分間延絵図」を写した地図(絵図)が載っている。
私は古い地図(絵図)を見るのが好きだ。その時代の暮らしが見えてくるように思える。
沿道には俄か造りのフリーマッケットやコンビニ、郵便局が空き地に出店している。
私はひたすら人の少ない空間を見つけては歩を進める。
千人町は八王子千人同心ゆかりの町。
通行手形の絵図を見ると八王子横山拾五組之内、加宿本郷宿、少し脇に千人同心頭石川□□□屋鋪と記されている。今の西八王子駅あたりだろうか。
歩を速め先を急ぐ、絵図には散田村、現在は散田町、やがて甲州街道の標識に多摩御陵の案内が見えてきた。
車も動けない
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多摩御陵〜高尾
昭和の時代にはここの陵墓は大正天皇の「多摩陵」、同皇后の「多摩東陵」だった。ときどきこの陵墓を訪れることがあった。甲州街道から分岐し陵までの道路は樹齢80年に近いけやきの並木で、甲州街道の喧騒さから隔離された別の世界である。陵墓の近くまで入ることが出来るが、さらに見上げる杉並木、他の樹木に囲まれた陵地を進むと深山に分け入り非日常の世界に浸ることが出来る。
平成になって「武蔵野陵」ができ、現在は「武蔵野東陵」をみることが出来る。
このあたりでは高尾駅から歩いてくる人が多くなり、歩道も混雑する。写真のように車道の端を歩く人もみえる。さらに車はほとんど動かない。時計は12時近くになっている。そういえば正午から250台のクラシック・カーのパレードがあるらしい。
町田街道入口の交差点を越え高尾駅まで約500m。人ごみを掻き分けて歩くのも結構疲れるものだ。
高尾駅・京王線のホームは高架になっている。今歩いてきた甲州街道のいちょうの木梢が点々と見える。