00/09/17「快晴」

迷走した台風と,秋雨前線のせいで,この旅行の最初数日は雨ばかりだった。

この日は台風一過の日本晴れ…というか,韓国晴れというのか,1年だけ住んだカリフォルニアを思い出すような晴れっぷりで,長嶋家の用語だと「すかっぱれ」ということになるのであろう。

朝,ちょっとだけ早めに起きだし,出かける前にキャプチャーせよ,と,友人2名に電話を入れる。もう一度書くが,この時点での所持金は,ウォンで900,000ウォン程度,円で2,3万円である。最近の旅行のペースだと,これがギリギリの金額であることはわかっていたので,この後,飲食代を節約,宿もホテルではなく荘級旅館(ラブホテルと同レベル,とも言う),みやげ物はなし,というポリシーを立てたが,現金は持っているに越したことはない。結局,帰国まで手をつけずに済んだのだが,友人二人から,それぞれ,150,000ウォン,200,000ウォン借りることとなる(日本円で15,000円,20,000円)。

その早起きのおかげで,この日,最初のシャッターを切ったのが,午前9時48分である。

先に会う予定の友人との約束までは1時間以上あり,約束の場所までは徒歩で15分程度ということから,ふらふら写真を撮りながら進む。朝食はたしかマクドナルドだったような気がする。余談になるが,チョンノ2街のマクドナルド,コーヒーはおかわり自由なので,インスタントではないコーヒーを朝飲みたくなったら,とりあえず行ってみると良いかもしれない。

お金を借り,感謝しつつ,相手も約束があるので,あっという間に別れ,この日は,僕ははじめてまともに写真を撮って歩ける日となる。

チョンノから,ミョンドンに出て,その後一旦宿に戻ることにして,午後1時頃,インサドンキル(仁寺洞キル)に戻る。そういえば,このとき,ミョンドンで,ルースソックスをはいたキャンギャルというか,コンパニオンというか,客引きを見かけたので,いずれ,ページを設けて写真を紹介したい。

インサドンは,骨董屋と連れ込み宿の街,という雰囲気のところだったのだが,この数年で,若者向け(こうかくと,自分が年寄りのようであるが)の居酒屋や,お洒落系の喫茶店が増えたように思う。休日ともなれば,道は車両通行止めで,屋台系が出てくるのだが,ここで営業している屋台はソウル市内のほかのところとは違って,なんらかの伝統風俗系のものでなくてはいけないようだ。つまり,違法コピーカセットテープや,怪しい時計ではなくて,朝鮮時代を彷彿とさせるような飴売りや,花文字書きなどである。手相見も出ている。

EOS-1v, EF135/2L, Av 2.8, RDP III
(写真は,飴売りのおじさん(というかお兄さんか?)。この大きなハサミの柄の側で,軽快に飴を叩き割りながらパフォーマンスを披露している。そういえば,インサドンのパフォーマー(?)には,髭を蓄えた人が多く,この国では非常に異例だと言える。)

個人的には,ちょっとあざといかな?という気もするのだが,外国人観光客の他,現地の10代〜20代の女性客も多いという土地柄。また,天気が良いと,現地のカメラ好きも被写体を求めて多数出没するのだ。上の写真も,現地のアマチュアカメラマンの人垣を掻き分けて,というか,前の方に居た人達が他の被写体に移るのを待って,徐々に前に出て撮影した中の一枚である。

さて,午後も3時をまわり,次の約束:もう一人の友人に会いに,アプクジョンへと向かう。チョンノ3街から地下鉄で20分。約束は確か4時頃だったと思う。

奥さんが出産直後で入院中の彼は,長男を連れてやってきてくれた。30分くらい話して,別れ,それから僕はまた写真撮影へと復活。5時過ぎまですごした後,梨花女大(イーファヨデ)〜新村(シンチョン)へ移ることにする。
前の旅行でも記したが,ソウルは東京に比べて西日がぎりぎりまで差し込むような地形となっているようで,坂がある梨花女子大のあたりは,夕陽があたる時間帯は,結構遅くまで撮影ができるのだ。

EOS-1v, EF135/2L, Av 2.5, RDP III
(こちらは,普通の屋台:梨花大前,アクセサリー売り。店の場所も「31」の前である。)

こことシンチョンの間で撮影をしたのち,7時前に夕食。確かトンカツだったと思う。結構本格的(肉は薄いが…)で,ソースが一風変わっていた。というか,ゴマとすり鉢が渡されて,それをテーブル上のソースと混ぜて使う,というものだったか。

普段であれば,この後は,繁華街の光を求めて誰かを呼び出すなり,一人でカメラを構えるなりしてでかけるところだが,どうも気分が乗らない。その原因を自分で考えてみると,大体以下の二つに要約される。

自分にしては非常に早いのだが,この後8時前には宿に戻る。

宿でぼーっとしていると先ほど,4時前にアプクジョンで会った友人から電話が入る。

『財布見つかったよ』
「え?」

…こういうことらしい。財布の中には,キャッシュと,カードのほか,レシート,韓国のテレカ,メモなどの他,15日夜にあった知り合いの内,HJY嬢の名刺が入っていたのである。他の2枚の名刺はカメラバッグの方に入れてあったのだが,彼女のものだけは,その後漢字を聞いたりしたため,財布の中に収めてあったのだ。そして,財布を見つけた,と届け出てきた人は,その名刺を見て,彼女に連絡を入れてみた,ということである。

その後,まず,彼女と,僕の友人とで,先方からの再連絡を待つこととなり,僕はさらにその結果を待つことになった。

8時半だったか9時半だったか,とにかく,30分というのが付く時間まで待ち,もう一度電話が来る。

『先方は,HJYとナオキに直接会いたがっている』

…そういうことなら行きましょう。この直接会いたがっている,という部分,後で若干考察する。

彼ら二人が乗った車を,マクドナルドの前で待つこと少々。車の中で,クレジットカードはもう,戻ってきても使えないことなどを説明させられる。(これは彼らをがっかりさせてしまった部分があるが…相変わらずお金がギリギリ+αであることを知っておいて欲しかったので,やんわりと説明したつもり)それにしても,財布だけでも戻ってくると嬉しい。カメラ屋のカードもあるし。

財布を見つけてくれたらしい人というのは,カンヌンの漁船オーナー氏だった。

彼に寄れば,16日(前日である)早朝4時半,カンヌンからバスでソウルに出てきてホテルを探していた時に,地下鉄の出口で財布を見つけたということである。が,これは腑に落ちないのだ。
 

  1. 午前3時半には,この友人は僕のそばにいた:財布とストロボはその時点ではあったはずである。15分くらいは一緒に居てくれたらしいので,僕の財布は45分間でそれだけ移動したことになる。
  2. 見つけたという駅は,チョンノ3街から地下鉄で25分程度の場所であるが,僕はその駅には行っていない。今まで一度も降りたことがない駅。(地下鉄の終電は日本より早い)


届け出てくれたことは嬉しいし,感謝しているのだが,ただ,腑に落ちない,のである。それでも,感謝の意として,若干の謝礼を手渡す。
先方は,金額よりは,僕と,同行していた友人2名(KSHとHJY)の連絡先をしきりに知りたがる。

『良かったら,名刺をもらえませんか?』

この旅行に僕は名刺を持参していなかったので,残念ながら,と答えると,僕の友人KSHも同様に答えている。結局,最初から財布に入っていたHJY嬢の職場の情報だけが先方に残った。

漁船オーナー氏と別れた後,車中で。

『どうして名刺渡さなかったかわかるか?』
「いいや」
『こういうときに渡してしまうと,後になって,「あの時,助けてあげたじゃないですか。今度は私を助けてください。」と,たかられるケースがあるんだ』

…なんと。

ここで,考察に入る。会いに行く直前,友人連に確認したことが一つある。それは何かというと,謝礼について,なのである。日本では,皆さんご存知の通り,拾得物の10〜20%を目処として謝礼を請求できることになっているはず。これはどういう類の規則なのかはしらないが,以前,落し物を届けてもらったときに,警察でもそう言われたので,それなりに法的拘束力があるのではないかと推測する。

ところが,韓国の場合,このような規則も風習も,まったくないそうなのだ。

日本のこの規則は,届出主が謝礼を受け取れることを定めているのと同時に,謝礼額にも制限を設ける,という役割を果たしているといえる。しかし,このルールがない韓国の場合,悪い言い方をすると,拾われたが最後,返すことができない,限度がない「恩」を受けてしまうことになる。

それを恐れて,僕の友人は,名刺を渡さず,すでに情報が渡っている,HJY嬢の名刺を渡すのみにとどめたのだそうだ。これを考えたら,10〜20%の謝礼で,終り,というのは,水に流す文化の日本的ではある。

…この話を聞いて,韓国・北朝鮮への戦後保障と謝罪請求のことを僕は思い出してしまった。

それはさておき,翌日からは物価が安い地方への移動である。この日から,18・19という3日間は,台風一過の晴天続きで,非常に写真向きの天候であったことをあらかじめ記しておく。

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