歌謡曲落ち穂拾い

あれ?フォントサイズがかわってしまったか?
直前の話は、ビートルズに出会って人生どつぼにはまっていくところを書いた訳だが、次は洋楽とまた別な流れ、歌謡曲について書いてみたいと思う。とはいえ、大層なものではないのだけれど。

このページ、意外に長くなったので例外的に文書内リンクつけときます。

「小指の思い出」・伊東ゆかり

自分では良く覚えていないけど、幼稚園の頃はどうやら伊東ゆかりが好みだった様である。とはいえ、この曲以外覚えてない・・・一応原点ということであげておくが。別に隣に住んでいた同い年の女の子の小指を食いちぎったとか、そんな記憶ではないんだけど。もう30年もあってないのかー、となりのおじさん。
 

「赤い風船」・浅田美代子

あれ?次と順序が逆かもしれない。あってるか?
当時は、というより、小学校6年になって親が持ち家になって自分の部屋をもらうまでは夜は9時には寝ていた。テレビも一日1時間しか見せてもらえず、土日だけは2時間。よくそんなストイックな生活ができたもんだと思うが、上には上が居て、大学の後輩の女の子は、なんと、20過ぎてもNHKしか家では見られず、家にあるブラウン管は「98のモニターだけなんです」なんて聞いたことがあるぞ。

なんでこんな話がというと、いや、私は浅田美代子に一時期入れ込んでいた記憶があるのである。今でこそ天然キャラクターとしてその名を馳せているオバサンになっちゃっているけど、「時間ですよ」でデビューした時の浅田美代子は一大ブームとなった様に記憶している・・・・が、上に書いた制限で、僕はドラマは見られなかった!おまけにあれはPTAの目の敵みたいな番組だったしなー。

とにかく、歌はすごいです。はい。でも、ソニーさんなんでバックは結構録音良いです。というのは10年位前にベスト盤のCDを買ってしまった。歌はとりあえず置いといても、当時の歌謡曲の典型として一度位聞いてみません?ベースはピック弾き。それはおいといて、新人アイドル歌手でも、オケは結構気合入ってるし、タイトルの「赤い風船」は最近また今をときめく吉田拓郎の曲だったせいもあるのか、アコギのオブリも印象的。

なんというか、売れる曲、あるいは売れた曲って聞いてみると「あー、こりゃ売れるわ」と思うようになったのはさすがに高校に入ってからだったけど、私の歌謡曲ポップス好きはこの辺に原点があるにちがいない。
 

「スプーン一杯の幸せ」・桜田淳子

うむ。この曲はラジオで良く聞いた記憶があるんで、順序はあってるな。というのは小学校高学年になった私は、当時のBCLブームなるものに巻き込まれていくのだが、そんな中でこの曲を聞いた記憶があるもので。

中三トリオなる3人組(山口百恵、桜田淳子、森昌子)の最初のブームの頃だったと思う。演歌の森昌子が爆発的ヒットするというのはありえないから山口百恵・桜田淳子の比較以外は行いづらいが、私の記憶では、最初は桜田淳子が人気の点で一歩リードしていたと思う。大学生には山口百恵の方が人気があったようだが。

とにかく、デビュー直後の波にのっている時期で、これは落合恵子原作の同名小説を映画化したものの主題歌であった。映画自体はその後テレビか何かで見た記憶があるが、とにかく、私はこの曲で桜田淳子ファンとなった。だんだんマセて来る時期で、当時同じクラスに居たとある女の子を気に入っていたんだが、思い込みというのは恐ろしいもので、勝手に「似ている」と思い込んでいた節がある。まったく。なのでこの曲を思い出すと未だにその子の小学生の頃の姿を思い出すのであった。

全然別の中学に行ってしまったので、結局卒業してからは一度も顔を拝見することはなかったんだけど、大学に入ってから、帰省から帰京する飛行機に乗るときになんとなく似た人を見かけたことがある・・・が、羽田では目の前にカルーセル・真紀さんが荷物待ちをしているところに出くわし、(同郷なんです^_^::)結局私の初恋相手かどうかは確認できないかったまま現在に至る。
 
 

「微笑日記」・榊原郁恵

えーと、上の桜田淳子と榊原郁恵の間にはピンクレディやらキャンディーズが世間では入っているんだが、残念ながら私はそこを経由しなかったもので。吹雪ジュンなんて方もいらしたかな?

ちょうどビートルズとかを聞きはじめて居た頃だったと思うが、1977年にもやはり3人娘の線で、3人の同世代の歌手が一くくりにされていたと思う。榊原郁恵、高田みづえ、清水由紀子の3人・・・高田みづえは「私はピアノ」でおお売れする前でデビューの「硝子坂」をなかなか超えられず、清水由紀子も苦戦する中で、やはり榊原郁恵が一番売れやすい状況だったのだろうとは思う。まあ気に入るのには理由はいらないんだが。どうやら当時の私はぽっちゃり型が好みだったらしい。

これも最初はラジオか?当時、冬の間、野球が無い時期の民放ラジオも良く聞いていて、黒部幸英(字?ホリプロ)、神谷明(ヤマトに出てた頃)と週一でやっていたレギュラーがあり、そういえば、毎週テープに取って繰り返して聞いていた気がする(まったく)。

歌謡曲系のレコードはそれまで買ったことがなく、後にも先にも、LPでアイドルを買ったのは、実はこの榊原郁恵が最初で最後であり、今もそれは持っていたりする。しかもライブ盤が2枚とスタジオが1枚。これは滅多にオンエアされないライブは買わなきゃいかん、と思ったためらしい。

で、榊原郁恵だが、最近でも元気なオバサンとしてテレビをにぎわす、息が長いタレントになったが、レコードのセールス的には、デビュー2年目に出した「夏のお嬢さん」が最高だったはずで、この曲でTBSのザ・ベストテンに2週出演したのを見た記憶が。「微笑日記」は、その直後に出したシングルで、バラード系の曲である。多分戦略的には、ここでドーンと売ってしまえばもっと歌手として大きなセールスを記録できたんだろうと思うが、実はこの曲は結構むずかしくて。曲はよかったんだが・・・結局、この曲で畳み掛ける事ができずに、ベストテン出演は前述の2週のみとなってしまった。

ライブ盤についてだが、当時のは収録後に姑息な事をしていないので、録音を聞くとステージでバックがこけたのがそのまま入っていたりする。今聞くと演奏のアラが耳についてしょうがないのだけれど、なるべくそれを無視して、20年前の事などを思い出してみるのであった。
 
 

中森明菜、菊池桃子

高校時代は、久保田早紀がデビューしたり、大都会が流行ったり、それからルビーの指輪。ザ・ベストテンで連続10週一位を記念した椅子というのはTBSの就職説明を聞きに行った時に見学させてもらったな。それはともかく、松田聖子がデビューして世の中に「聖子ちゃんカット」が流行ったその頃、逆に僕自身はあまりアイドル系には入れ込まなくなっていった時期だったと思う。もともと、入れ込むってほどのものでもなかったが。YES, 渡辺貞夫、クルセイダーズ、リッチー・コール、マンハッタントランスファー。そのあたりがキーワードだったか?

大学に入って・・・某大学のフォークソングサークルというところでなんとなくバンド活動(今から思えばもっと練習しとくんだった)。そこで組んだドラマーのO氏が、実はかなりなアイドル大好き青年だったのである。彼のおかげで僕らの代の前後は、かなりアイドル系(まーかたよりはあるけど)を聞いたり、バンドでコピーしたりってのが増えたんじゃなかろうか?

貧乏学生で部屋でレコードも聞けない状況だったもんで、もっぱらテープをもらってましたね。実は最初は聞くためというよりは、音を拾うためのテープをもらったのだが。

高校の頃、上でリストしたようなのを聞いてたわりには、ベースはピック弾きがメインだった。これはポールマッカートニーとクリススクワイヤの影響ずばり、であり、大学に入ったときは指弾きにちょっとコンプレックス。「ちょっぱー」は、僕のまわりでは、82年当時もまだまだ特殊奏法に近いものだった記憶がある。

そこで、上記のOから「しばたー、中森明菜やるぞ」という誘い。「少女A」の頃はすごかったですよ。で、アルバムを聞くとああいうのばかりではなく、当時のおしゃれ系の曲も結構あったり。あー、フュージョンの軽く入ったポップスちうのか。当時、ファンクなんて聞きもしなかったから、ちょっぱーというとやはりフュージョンという安直な連想もあったのだが。数ヶ月前にライブで、なぜか、リッケンバッカーでちょっぱーしたことの印象がきっと深かったに違いない。それで、そういう曲があって僕のところにお願いがきた、と。

今でこそ自分が弾く物は、何らかの譜面にしたりしているが、当時は譜面全然かかなかった頃で、短期間に覚える自身がなかったんでひじょーに困った記憶がある。必要に迫られて、結局覚えられない物は譜面に。今では逆に何か書いたものがないと弾けないという情けない状況だったりもするが、それはさておき。

当時の歌謡曲のベースは、それほどコピーが難しい訳でもなく、かといってやさしすぎず、またアレンジャーの方の書き譜でもなくなっていた頃だと思うので、曲調はともかく、色々覚えられて良い例だったと思う。フュージョンをやろう、と思った時期がなかった私にとっては、唯一(?)汎用性がある物をまとめてコピーできたというのか。

能書きはともかく、中森明菜のファーストとセカンド、これは随分聞いたし、両方あわせて10曲は少なくともコピーしてバンドでやっていると思う。当時の演奏だから随分とあらいもんだったろうけど、あれはあれで楽しかったな。

2年近くたって、中森明菜はすっかり大御所となった頃の、84年後半から85年といえば、今度は菊池桃子の当たり年。台本丸暗記のライブもなかなかだったけど・・・林哲司氏の曲とアレンジは、ごく短い期間ではあったけど、一世を風靡したともいえるのではあるまいか?(パクリとか色々言われたみたいだが)。
菊池桃子の場合には、ファースト武道館で、「コイノニア」をバックにコントをしたというツワモノ。(笑)エイブラボリエルを初めてまともに聞いたのが実はこのライブビデオだったという事実。これはコピーしてて楽しかった。

まぁ、このころから段々自分の芸風が固まってきて、結局今の「ポップス好き」な部分の基礎はかたまったんじゃなかろうか?で、コードチャートとかもらって、それっぽく弾くという練習は実はこの菊池桃子のコピーで始まった・・・というのは、すでにライブ盤もあるので、スタジオとの比較をすれば、どの辺がプレイヤーの裁量か、などもわかるわけで。おいしいところだけコピーしてあとは自分の好きなようにという。

大学に入って、アイドル系に戻るとは思わなかったけど、大学院まで入れての6年間で、一番多くコピーしたのがこの二人をはじめとする歌謡曲ポップス系であることを考えると、自分の演奏のスタイルの基本というか、はずせない原点の一つと言えると思う。威張れないか、あんまり(爆)

他の人たちみたいに「じゃずー」「Jふゅーじょんー」「ふぁんくぅー」っていうバックじゃないんですぅ、最初が。

個人的には、この後数年間はBill Evansを中心にモダンジャズに入れ込んでいき、なんとなく聞く方も演奏も気分がマンネリに陥りかけた頃、アジアンポップスに出会い、カンスージーにはまっていくことになるんだが、それはまさに彼女のアルバムの中に80年代日本歌謡ポップスの匂いを見つけたからに違いない。この話はまたおいおい。
 

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