紫の香り(ポラビッヒャンギ)/カン・スージー

うーむ、このアルバムのシリーズはなるべくそのアルバムのジャケットを意識した配色にしているのだが、白に紫というのは非常に目が疲れてしまう。が、しょうがない、この設定のまま。

カンスージーさんについては、別ページにすでに1セクション設けてあるのでそちらも参照していただきたいのだが、こちらでは、特に僕自身の音楽的な趣味とか生活とか、バンドに関しての影響を書いてみようと思う。

貧乏学生だった私は(ということにしておく)、卒業旅行に海外なんて行かなかったもんで、初めての海外というのは、会社に入って2年目の冬(1990/1)、アメリカはワシントンDCへの学会出張だった。10代と同じ感性で、というのはさすがに無理だったが、それでも随分と見識が広がったような気がしたし、英語の学習熱が高まるという効果を僕に残してくれた。TOEICテストなるものを、僕が勤めている会社でも頻繁に受験させるのだが、ちょうどその点数が800点代の後半になり、アメリカ熱がピークの頃にその事件は勃発した。

「柴多君、韓国の展示会にあれを出品してくれって依頼があるんだけど。」

当時、会社の研究所で担当していたシステムを、客寄せのために出したいという依頼で、上の台詞は当時の上司T課長のものである。確か1990年8月のある暑い日の事だったと思う。

正直、「なんで、私が韓国なんぞに行かねばならんのだ?」というのが最初の反応。アメリカに行きたくてしょうがなかったから。業務命令は業務命令である。システムを送る準備をし、部内旅行に皆が出かけた初日に僕は休出して、マシン10数台近くのIPアドレスの付け替えを行い(当時、まだまだ接続は細くて、社内のIPはプライベートアドレスのみだったのを、一気に全社で正規アドレスに切り替えた)、皆が旅行を楽しんでいる日曜日に一人で成田に向かった。

金甫空港に到着し、機内から出る瞬間に、例の匂い。「げげっ、こんな国にいるのかぁ???」
成田でいっしょになった同じ会社の人と、指定のホテルである「ソウルインターコンチネンタル」にタクシーで向かう。タクシーの運転手には英語は通じない。おまけに到着してメーターは7000ウォンのところ、10000ウォン払ったらお釣がこない。レシートをよこせといっても手を上にあげるばかり。一悶着しているところにホテルのボーイがトラブルを嗅ぎ付けて仲裁に。釣りの3000ウォンは当時のレート(100円=550ウォン)で500円強程度のもの、それくらいで怒りなさんな、というのがボーイの主張。こちとら、引き下がったら自腹になるから、食い下がるがだめ。それなら仕方ない、10000ウォンのレシートをくれ、というとそれもない。ボーイがちょっと待てといって戻ってきたその手には、ナプキンが。それにペンで走り書きしたものを受け取れという。この事件で、僕は滞在が最悪のものになりそうな予兆を感じた。(まぁ、その後、韓国のタクシーについてのさまざまな実態を知るにつけ、「あんなもんかー」とは思いもしたが。当時はまだ模範タクシーはなかったし。)

前振りが長くなってしまった。その後1週間の滞在をしたわけだが、社用で行っているため、その後の私用旅行にくらべて非常に良い待遇の旅行となった。つまりは、韓国料理にはまってしまったのである。現地ではホテルと展示会会場(KOEX)は隣接しているため、地下鉄すら利用せず、もっぱら会場とホテルと夕食の場所を行ったり来たりするのみ・・・で実際テレビなんてまったく見ている余裕も無かった。もし、知っていたなら、その年はカンスージーさんの韓国デビューの年であり、ベストテン物にかぶりつきで見ていただろうに。

さすがに初体験での辛いものの応酬に胃がやられてしまったものの、プルコギ、サムゲタンなどにはまってしまった私は、会社に帰るなり、同期のT(現在は退社して日本語講師をしている)に韓国の報告。その彼は実は大学院時代に韓国を1ヶ月さまよったことがあるという。食い物の影響は恐ろしい。僕はその時から「現地語ができないと、上手いものにはありつけん」と思い込み、韓国語の勉強を始める。

どうもこうもなく、翌年のGWにそのTと、さらに先輩のTさん(このページにはTさんしか出てこないなー)と3人で韓国旅行となる。この旅行はこれまでの韓国旅行の中でも、やはりベストだったと言えると思う。91年4月といえば、過去10年の中でもっとも学生運動が長い間続いた年で、われわれ日本人3名も行く先々で催涙弾の洗礼を浴びた。テレビをつければ「ミアン、ミアンヘー」と歌う中年演歌歌手(テジナ)が、ベストテン1位になって泣いている。おおお、なんて熱い国なんだー。(どうでもよいが、このミアン、ミアンヘーは、その昔のチェッカーズの「ジュリアにハートブレーク」とサビメロが偶然の範囲を超えて似ていると思うんだが。)

方々でいろいろ事件に遭遇しながら(?)、帰国する直前になって、別の同期Sから頼まれた土産物を探しにレコード屋に。確かその土産は、梨花女子大そばの小さな店で買ったと思う(ヘバラギ:ひまわりというデュオ)。他人のために買ってみると、そういえば、自分の土産もかわねば、と思う。当時、なんとかハングルを中途半端に読める様になっていた私だったが、今から考えれば、はっきりいって全然使い物になっていなかった。銀行とか空港というのが読めても、歌のタイトルなんてまったくわからないのである。空港の銀行などという歌謡曲、ひょっとしたら20年前に1曲くらいはあったのかもしれないが。

そういう時は、大きなお店にいって、ジャケット買いをするのに限る。ソウル市内の明洞(ミョンドン)なる繁華街にあるロッテデパートのレコードコーナーへ。あまり大きいとは言い難いところだったが、そこで、まだまだ枚数が少ない韓国盤のCDを漁る。基本的にジャケットを見てポップス系かどうかの判断を迫られる訳だが、男性歌手は全部捨て、女性に絞る。名前を知っていた訳ではないが、その場でピックアップしたのは、確か以下の4枚:「カンスージー」「キムワンソン」「イジヨン」「ミンヘギョン」。ミンヘギョンは80年代序盤にデビューのミニスカート歌手。キムワンソン、イジヨンは88年のソウルオリンピックのちょっと前位のデビューのはず。

まぁ、まだまだCDが普及途上である状況で、最初にCDになって出るものは売れ筋か大御所と決まってはいたのだろうが、偶然にもこの4人は、さらに「ヤンスギョン」を付け加えれば、80年代から91年までの、売れ線歌謡曲女性歌手の系列となっている。(さらにフォーク歌手のイソンヒを加えれば完璧だろう)

ミンヘギョンは、本当に韓国歌謡の色を濃く残す歌謡。リズムは新しいんだけどね、という世界。後で日本でテレビを見ていてしったのだが、脚線美の歌手と言われていたらしい。柴田はつみの世界か?

キムワンソンはモデル出身の歌手。目がちょっときついけど、確かにものすごい美人。たまたまピックアップした、その当時の新譜は通算5枚めか6枚めのもので、レーベルを移って、録音を L.A. で行ったという豪華版。確かに当時の韓国ポップスCDの中では音もアレンジの洗練さも一番だったと思う。(仮装舞踏会、ピエロは私たちを見て笑う、が入っているもの)

イジヨン。最前に書いたキムワンソンは、どうやら息は長かったが、トップに躍り出たというタイプの歌手ではなかったらしい。かわりにこのイジヨンは、派手な性格と、しっかりした歌唱力で、86年〜89年頃の歌謡界でトップに居たらしいのだ。「パラマ、モムジュオダオ(風よ止んでおくれ)」は大ヒットとなっており、実際、日本で購入できる某5冊組み教科書にも載っているほど。そうやってピークを極めた直後、新譜を出してすぐに、駆け落ちして実質芸能界を引退。92年にカムバックを目指すものの、アルバムのできはよかったのだが、もはや時代は代わっていた。この彼女の現役時代までが、80年代韓国ポップスといえる。

カンスージー。90年にデビューしているが、この彼女のアルバムは、前記のキムワンソン、イジヨンと異なっている点が数点。まず、デビューがソウルオリンピックの後のNIES各国が台頭してきた上り坂の年以降であり、曲のスタイルが、あきらかに80年代と決別し、どちらかというと日本の歌謡曲ポップスに近い出来となっている点。80年代までの歌謡曲ポップスはあきらかに「トロット(演歌)」の影響下にあり、その影響度を見れば年代もわかると思う。デビューからCDという新メディアに載っている点。アレンジ・作曲へ「ユン・サン」という、日本歌謡ポップスフリークが全面的に参加している点。また、カンスージー自身も(そういえば、本名は、ノ・なんとかというらしい)作詞を手がけているところも、それまでの歌謡曲とは異なる点ではなかろうか。

実際彼女のデビュー盤を見ると、全10曲の内
日本風ポップス tr.1, tr. 5, tr.6, tr.10
演歌系 tr.2
香港風ポップス tr.4, tr.7
フォーク系 tr.3, tr.8, tr.9
となっており、ちょうどこのアルバムが韓国の歌謡ポップスの主流の変遷のはざまにあるアルバムだということが感じて取れると思う。

タイトルの「ポラビッヒャンギ」は tr.1 に収録されている。この曲をはじめ、このアルバムはデビュー盤だけあってあまりお金がかかっていないのがバレバレなんだが、一曲めのリズム(作詞カンスージー、作曲・編曲ユンサン、ベースと打ち込みもユンサン)を聞くだけで、そこには80年代に急成長を遂げた韓国経済が、こんどは大衆文化も変えていくという勢いを感じられると思う。そこにデビュー当時の若く、明るく、はつらつとしたカンスージーさんの声。これは当時に戻って聞いたなら、売れない訳が無いという出来。(5歳年下の韓国人の友人曰く:「ようやく韓国にも歌が上手くてかわいい子がデビューしたと思った」(普段はプログレを聞く知人))

僕がこのCDを購入した91年5月は、すでにデビュー1年を経て、2枚めのアルバムがリリースされる直前だったのだが、それまで毎日ビルエバンスがかかっていた我が家のCDプレイヤーには何ヶ月もカンスージーのファーストが載ったままになる。ファーストを聞き込んで3ヶ月ほどで、ようやく日本でもセカンドのテープをゲット。当時は韓国ポップスの音源は三中堂などの韓国書籍専門店で買わねばならなかったのだが。

ファーストとセカンドを買う間の間隔は、僕にとってはそれでも3ヶ月。セカンドからサードへは1年以上が必要だった。それまで、演奏の方も、ジャズばかりというこだわりを持っていたのだが、「ポップスもいいじゃん」という再認識をさせてくれたのが、このカンスージーさんの1枚めだったと言える。

その後、ブレインのユンサン氏の徴兵で3、4枚めには彼のクレジットはなし。徐々に彼の方も活動が戻ってきている様だが、一番の売れ筋の時代に軍隊に行かねばならない韓国の若い男性のことを考えると、とりあえず日本に生まれてよかったと思う。

デビュー数年後、フジテレビの「アジアンビート」なる番組に取り上げられた(93〜94年)ことがきっかけとなり、彼女は日本でもデビュー。まだまだあまり目立った活躍をしているとは言い難いかもしれないが、昨年レーベルをBMGに移り、ミュージカルに出たり、バラエティに出演したりと、95年から見たらかなり表面に出てきてはいるようだ。7枚め位が出た頃のインタビューでは、30になったら結婚して引退したいといっていたが、その彼女も、もう韓国式では30歳、満では来年が30歳となるわけで、そろそろ、もう一花位、大きく咲かせて欲しいと祈る今日、このごろである。
 

それにしても、日本でライブをやってくれないものか・・・ノーギャラも、ベースならいくらでも弾いてあげますよん!
 

[前のアルバムへ][次のアルバムへ][アルバムのリストに戻る][topに戻る]