書名:親鸞 仏教無我伝承の実現
著者:二葉 憲香
発行所:永田文昌堂
発行年月日:1995/9/20
ページ:304頁
定価:2427円+税
西洋哲学に「我思う故に我あり」デカルトがあります。自我の確立からヒューマニズム、人間中心主義、人間が一番偉い、頭の良い奴は偉い、金のある奴は偉い。知識偏重主義、知識中心主義に落ちいってきた明治、大正、昭和、平成、お金が大切、知恵が大切、経済、技術を貪欲に自分のものと囲って、他の人には分けることをしない。そんな根本のところに「我思う故に我あり」があると思う。
仏教の本質は無我(非我)である。
無我というのは、我が無いと書いていますが、全くその通りで、仏教というものは、その根源的な立場をその無我という点において立てている。しかし、その無我ということはいったいどういうことなのか、我が無いというから、我は無いのか。自分がここにいると思っているが、それが存在しないということか。
無常というのは一切の存在が自分の意志によって存在するものでもなければ、変わって行くものでもない。苦というのは思うようにならないということ。自分と思っているものが、どんどん自分の意志にかかわりなく変化をし、思うようにならない。それが自分であるわけはない。自分の意志で年をとるわけでも、自分の意志でしわくちゃ婆さんになるのでもない。私の力を超えた一切の不可思議なこと。人間の智慧を超えている。つまり考えても判らないこと。この判らないということ判るということを仏教の本質は教えてくれている。自分の意志で生きているのではない、不可思議な働きでいのちを与えられ、意志を与えられ生かされている。
本のタイトルを見ると難しそうな本ですが、仏教の奥深い教えを平易な言葉で語っています。やさしそうですが中々深い深い内容も含んでいます。味のある良書です。座右において読んでみたい本です。たまたま寄った京都の古本屋で偶然見つけた本です。それも100円で。著者は京都女子大・学園の学長(西本願寺系)で故人です。
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色等は無常なり、無常なるものは苦なり、苦なるものは我ではない。
無我
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろずのことみなもてそらごとたわ言、まことある事なきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
『歎異抄』
本文より
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人間は自分が賢いと思って生きている。人間のほかに生きているものはみんな人間の道具だと思っている。山の木もどんどん切って、地球も砂漠になりつつあるそうですが、空気は汚染され、海岸は汚染される。不可思議な世界を与えておりながら、人間中心、自我中心でどんどん汚して壊しているわけでしょう。それこそ「そらごとたわごと、まことあることない」ことをしているでしょう。
自分の子供がかわいいと思いながら、どうしてかわいがっているかというと、他人より偉くなれ、他人より立派になれ、他人を押しのけてもかまわん、そんな心をもちかねない。それが人間でしょう。本当にわれわれ自身が「そらごとたわごと、まことあることない」生活をしているけれど、どんな人間にあっても、その基本には、すべての人間を生かそう、あらゆるものを生かそうという不可思議なはたらきがあり、また終わったならば真理の世界、その不可思議な世界の中に迎えるという、そのはたらきの中におるわででしょう。
その真実まごうことなき真実の中に私は生かさせていただいている。私だけではない。一切がそうなのです。一切はみなその不可思議な中でいのちを与えられ、心を与えられ、そこに目を開くという心すらも与えられて生きている。その世界を知ることが、おのずからしからしめる世界に目を開くことなのです。