書名:川和の歴史
著者:横浜市立川和中学校
発行所:横浜市立川和中学校
発行年月日:1983/2/26
ページ:165頁
定価:非売品
1980年創設の川和中学校が3周年を記念して、1983年「川和の歴史」を発行した。この地域は港北ニュータウンの計画、実行が間近に迫っていたため、過去の歴史の大切を知らせる意味でも、重要なことであった。川和富士も旧場所から、新しい場所へ。花見山遺跡も発掘されたばかりで成果が見えてきた頃、都筑の郡衙はまだ位置が確定していない時代。時代の変遷と共に川和の歴史が書かれている。また古文書の釈文などが多用されていて、中学生には難しい内容になっている。でも信田家文書、城所家文書、横溝家文書、岩沢家文書など引用している。特に信田家の「幽篂日記」(幕末から明治の初めまで)は当時の生活の様子がよくわかる。また川和は増上寺領であったから増上寺とのやり取りの古文書がたくさん残っている。
ちょっと以外に思ったのは川和富士信仰、比較的新しくて明治になってからの事。幕末に川和富士を作る話が出て明治20年代までかけて塚を築いたとのこと。(旧川和富士:今より400m程離れたところ)江戸時代の富士山信仰の頃だとばかり思っていた。港北ニュータウンの開発と共に新しい発見が続々と出てきている。歴史に興味を持つきっかけになる本です。
1977年9月に川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。
中世は武蔵国都筑郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条氏の評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。
江戸時代になると都筑郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。
明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から川和に移転して置かれ、以後は周辺地域の政治経済の中心地として栄えた。
川和の由来は武蔵七党の猪俣党の河匂氏から来ているのか?河匂・川匂・川輪・川和など。河匂氏の出身地といわれているところは中郡二宮町川匂神社付近、久良岐郡河匂郡の2カ所です。
旧川和町の沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が発足。
1934年(昭和9年)4月1日 - 都田村が改称して川和村となる。
1935年(昭和10年)9月30日 - 川和村が町制施行して川和町となる。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。
10月1日 - 旧川和町域が港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 港北区の再編により、旧川和町域が都筑区の一部となる。
都田の由来は、都筑郡の「都」と田園地帯であったことから「田」を採ったものである。
本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、下川井村等の合併村も「都筑村」を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局丘陵地帯であった方が都岡村(「都筑の岡」の意。現在の横浜市旭区)、田園地帯であった方が都田村を名乗ることで収拾した経緯がある。大字川和の当時の人口630人。乳牛や養豚が盛んで、大正時代には川向のモモなどの栽培も盛んに行われた。