大白法

平成15年6月16日号


主な記事

<1〜3面>

<3〜8面>


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平成15年度第三期 広布推進会期間テーマ

広布大願の使命達成に向けて、

  1. 下種先拡大・折伏実践の徹底
  2. 御報恩御講・広布唱題会参加の徹底
  3. 少年部大会参加と少年部育成の徹底



海外リポート ガーナ・法華寺

ガーナ

西アフリカ、ギニア湾に面する国。国土の大部分は低地帯・熱帯気候で、南部は熱帯雨林地帯。15世紀以降ヨーロッパ列強の進出が続き、19世紀にイギリスの支配下に。1957年3月独立を達成し、60年7月共和制へ移行。その後70年代には軍事クーデターが続発し、めまぐるしく政権が交代した。

2000年12月の大統領選挙で当選したジョン・アジェク・クフォーが大統領に就任。1人当たりの年間国民総所得は340ドル(〜4万円)、産業の中心は農業と鉱物資源。面積は、23.85万平方キロメートルで日本の本州の約1.1倍。人口は1841万人。住民は、アカン族、モレ・タグバニ族、エウェ族など。公用語は英語で、その他8大民族語が使用されている。

今回はアフリカ・ガーナの法華寺信徒クワミ・ガゾー・アペニャジー氏に、ガーナでの活動や、昨年の宗旨建立750年海外信徒総登山並びに、今年2月に行われた慶祝記念アフリカ総会などのお話を伺った。

アフリカに初の寺院である法華寺が建立されたのは、1998年(平成10年)2月21日。このとき、御法主日顕上人猊下の御下向を賜る予定だったが、ガーナ大使館へ虚偽の告発を行った者があり、突如ビザが無効となり、御法主上人猊下の渡航が叶わなかった。また1年半もの間、居住ビザが下りなかった御住職は、日本に帰国できなかった。

その後、2000年(平成12年)8月に法華講支部が結成され、多くの信徒が様々な妨害や嫌がらせをはねのけ、活発に活動している。信徒は経済的に厳しい中でも、御供養と寺院の外護を欠かさずにがんばっている。そのような中、今年の2月にアフリカ総会並びに法華寺の5周年記念法要を盛大に行うことができたことは、たいへんな喜びである。


●(編集)昨年の海外信徒総登山にはガーナから12名ものメンバーが登山されましたね。しかし、当初はもっと大勢の方が登山される予定であったと聞いていましたが、どうだったのですか?

■(ガゾー氏)今回の総登山会の啓蒙を、御住職は3年前からされていました。目標を50名として取り組み、80名近い方から申し込みがありましたが、最終的に昨年4月の時点で登山に要する費用(1800ドル〜21万円)を揃えられたのは36名でした。この中には、トーゴの1名、ナイジェリアの2名も含まれていました。

実際にこれだけの費用を貯めるのは容易なことではありません。ガーナでは月給が30ドル(〜3500円)を下回る方も少なくありませんので、準備できた36名の中には、家族・親戚中の支援を受けて、やっとのことで工面した方もいました。

7月、36名のメンバーはパスポートを用意し、毎週日曜日に御住職から登山のためのミーティングをしていただき、皆さん、とても楽しみにしていました。そして、手配がほとんど整った9月半ば、御住職と私とでビザの申請のため在ガーナ日本大使館に出向いたところ、なんと「許可できるのはせいぜい5人です」と言われたのです。そのとき、御住職が愕然としてガックリ肩を落とされた姿は、それまで一度も見たことがありませんでした。

その後、御住職は一人ひとりと話し合い、何度も大使館へ足を運んで渡航人数を増やしてもらえるよう懇願されました。その結果、13名の書類が受理されることとなり、最終的には12名のメンバーが登山できたのです。


●なぜそれほど日本への入国が厳しいのですか?

■大使館の担当者の話では、日本やヨーロッパ、アメリカなどに多くのガーナ人が渡航するが、その先で不法滞在、また軽犯罪などの前例が多いため、ガーナのみならずアフリカ諸国の人へのビザ発給を、数年前から厳しくしているとのことでした。そういう背景を考えると、私たちの中から12名が許可されたのは幸運だったと思います。


海外信徒総登山はいかがでしたか?

■私は今回で4回目の登山でしたが、ほとんどの方が初めての登山、初めての海外旅行でした。総本山に着いてから、山内の景観と落慶法要を終えたばかりの奉安堂の姿に、一同、長旅の疲労も忘れ、大変感動しました。そして奉安堂で初めての御開扉を受け、堂内いっぱいに世界各国から集まった同志たちと大御本尊様を拝せたことは、生涯忘れることができない思い出です。

総会では法華寺支部の婦人部員が、各国の婦人部の代表として決意発表をさせていただけました。本人はもちろんアフリカ信徒一同が誇りに思っています。

この海外信徒総登山に合わせて、これまで3年以上にわたって私たちガーナメンバーと交流を続けてきた長野県・開法寺支部の方々と、総本山で交流会を持つことができたことも大きな喜びでした。とても楽しく、有意義な時を過ごすことができました。


●2月に行った宗旨建立750年慶祝記念アフリカ総会には、3000名を超える信徒が集まったそうですね。

■今回のアフリカ総会には、日本をはじめ、アメリカ・ヨーロッパから15名の御僧侶に来ていただき、総会は大成功でした。3年前から御住職と共にプランを立てていました。

一番の問題は、たくさんの来賓のビザが発給されるのかどうか、また発給された後も無事に入国できるかどうか、最後まで油断できませんでした。苦い思い出があるだけに慎重に検討してきました。さらに、直前になって経由地のロンドンの空港がテロ騒動で封鎖されるなどの報道もありましたので、皆さんが無事にアクラ市に到着されたときには、ほっと胸をなで下ろしました。

総会は実に盛大に行われ、アフリカ信徒全員が一層の精進を誓い合うことができたと確信しています。総会の成功により、これまでの苦労は大きな喜びに変わりました。


●ガーナ以外の国から集まったメンバーは、特に問題なく総会に参加できたのでしょうか?

■ベニン、トーゴから参加したメンバーは問題なく出席できました。ただし、コートジボワールでは昨年クーデターがあり、国境で非常に厳しいチェックがあったそうです。それでも戦火をくぐり抜けて、16名が18時間かけて馳せ参じました。また、ナイジェリアからはジャングルの中をくぐり抜け、40時間以上の道のりを経て参加したメンバーもいました。

西アフリカは陸続きではありますが、隣国に出かけるにも大変な費用と手間がかかります。ですから、ガーナ以外の国の信徒も、一日でも早く自分の国に御僧侶をお迎えしようと、がんばっています。


●最後に、今後の決意をお聞かせ下さい。

■2月の総会を期に、法華寺では学校建設が具体化してきました。メンバーからの学校設立基金と、日本からの寄付を募って、大聖人様の教えを基調とした、待望の学校建設のプロジェクトが始まります。

近い将来、そこから多くの法華講員の子供たちが、社会へ清風を送る人材として巣立っていくことでしょう。そのためにも、ガーナの信徒が先陣を切って、僧俗和合を基として折伏弘教し、アフリカ社会に実証を示していかなければなりません。

各国に最低一カ寺の建立を目標に掲げ、一層アフリカの広宣流布のために、邁進していきたいと思います。




体験発表 『御本尊様のもとに夫婦で歩いた59年』
長妙寺支部・安田貴和子


本日は、私が入信してからの60有余年の信心の軌跡を申し上げさせていただきます。

昭和10年頃、両親が、八幡の法霑寺信徒であった藤木竜次郎先生に折伏されて入信いたしました。この方は学者でもあり、有名な絵描きでもあり、「絵のために家を5、6軒売ってしまった」と話されていました。藤木先生はその頃、奥さんと子供さんを亡くされ、それが因となって発心して「自分は、この仏法のために生涯身を捧げて一生を終えるのだ」と決意して、故郷の福山に帰ってこられました。そして不思議な縁で福山の一粒種として信心をすることができました。

しかし、この頃は広島県には日蓮正宗の寺院がありませんでしたので、御授戒はなかなか受けられませんでした。私の家は小さなアバラ家でしたが、「日蓮正宗法華講座談会場」と書いた大きな提灯をぶら提げて、月2回の折伏座談会をしていました。「福山布教所」という名前も戴いて両親はたった2人から始めて、折伏をし、私も十代でしたが、友達をたくさん誘って、藤木先生の話を聞かせようとがんばりました。

終戦前、20世帯以上の折伏もできて、御会式も奉修させていただき、歌や舞、琴など、賑やかにお祝い申し上げました。その頃、総本山第60世日開上人が「折伏をがんばったから、御褒美に生前戒名をあげましょう」と仰せくださり、両親は戴くことができました。昭和19年春頃までは座談会も続きましたが、戦時中のこととて強制疎開で家を壊され、座談会もやむなく中断して「福山布教所」は終わりました。

私も24歳になり、結婚の話がありました。条件として「この信心をするならば結婚してあげましょう」と言って、何もない私ですが「諸経中王最位第一の宝物を持参金として持っていくのだから、私に随いなさい」という、高飛車な心でおりました。映画館の絵看板を書いていた主人にそのことを伝えましたら、「信心する」と言ってきたので、一度も顔を見ていないのに結婚を決めました。

もう一つの条件は、「新婚旅行は富士大石寺で、それも2人だけでなく、私の両親と妹と計5人で登山すること」。これも承諾してくれました。昭和19年3月28が、私たちの初登山でした。その時は総本山で御授戒を受けて、御開扉は御宝蔵で、10人くらいでした。丑寅勤行に行く夜中、塔中は今のような電灯はなく、真っ暗闇を、ようやく歩いて参加いたしました。

それから私たちの信心の人生行路が始まって、今日で59年、「現世安隠・後生善処」の御金言を信じて寝食を共に苦楽を分かち合ってまいりましたが、決して平坦な道程ではありませんでした。

昭和20年に主人に召集令状が来て、主人は岩国に行きましたので、私は福山に帰りました。広島の原爆投下の2日後の8月8日、福山も大空襲に遭い、福山の街は一夜にして灰燼(かいじん)に帰しましたが、御本尊様に守られて無事であったことを喜び合いました。

昭和26年8月6日、藤木先生が亡くなられました。その直前に四国より奥法道御尊師が来福されていて、「福山の信徒を頼みます」と藤木先生が遺言されていましたので、奥御尊師は小さな一室を借りて、私たちはそこへ集まって信心を続けさせていただきました。

昭和29年の御会式が行われた席へ学会員が来て、学会に入ってくれと勧められて、私たちは入会いたしました。その頃は戸田城聖氏が会長の時代でしたので、信心の指導も正しくされていました。しかし、平成2年の大作の総講頭資格喪失以来始まった学会の正法誹謗、御法主上人猊下への悪口雑言の大謗法に、愛想をつかしていました。

私の家は昭和26年4月3日、第64世日昇上人から、父が常住御本尊を戴いておりました。広島県府中市長妙寺の御住職・佐藤記道御尊師が再折伏に来られましたので、お話を聞いて、「すぐに学会をやめて法華講に入ります」と申しました。平成3年5月に入講用紙に記入して長妙寺につき、同年9月に支部結成以来、長妙寺支部所属となって、今日まで御住職や支部の皆様に親切にしていただくので、楽しくがんばっております。

学会時代、主人は昭和38年より福山市議会議員として公明党より推薦を受け、5期21年務めてまいりました。そのために法華講に入ってからは、学会員が押しかけてきて「恩知らず」「お前が死んだら地獄の相を見てやる」などの大悪口を受けております。また、3人の娘までが未だに大謗法の大作を見破ることができず、「もう親とは思わない」と言っておりますが、一刻でも早く救い出したい一心で、宗門の機関紙などを利用しながら折伏し努力をしております。

大謗法に随っている毒気深入の子供たちを救わんがためにも、奉安堂建立に際し、思い切って満足できる御供養ができたことを今は喜んでおります。大聖人様に護られて生涯を送れるということ以上の幸せはありません。私たち夫婦は、愚人どもに嫌われても、猊下様の御指南のもとで信心してきた故に、現在は「我此土安穏天人常充満」の境界をひしひしと身に感じて暮らせるようになりました。

そんな本年2月14日、主人が亡くなりました。私が側で手を握り、耳元で題目を唱えるのに合わせて、主人も酸素マスクをつけながら題目を唱え、臨終を迎えました。もちろん生前のときより色も白く、よい顔になっていました。生老病死・愛別離苦の苦しみはよく習って知っていたつもりでしたが、悲しみを押さえることができませんでした。

春が来れば爛漫(らんまん)の桜を愛でることもできましょう、鶯の鳴き声に心を踊らせる日もあるでしょうが、亡くなった者の姿をそこに留めることはできません。59年間の二人三脚の道のりは終わりました。

「皆、夢の中の幻だったのでしょうか」、そんな思いが胸を駆け巡る2月15日、釈迦涅槃の日が御通夜に当たり、明けて2月16日の御本仏日蓮大聖人様が世界の民衆を救うために御誕生になった一年でも一番おめでたい日に、日顕上人猊下より戴いた「眞如院法寛日慈居士」という生前戒名をもって葬儀は行われました。

お通夜の席で佐藤御住職は、戒名についての有り難い お話をしてくださいました。それをお聞きして思い出したことがございます。それは大聖人様が『総勘文抄』に、「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たって」(御書1425ページ)と、成仏すればアッという間にこの裟婆世界に生まれると仰せです。成仏も叶い「九識心王眞如の都」で大聖人様に御目通りもできて、今ではもう正法を持って生き続けているのではないかと、私には思えてなりません。

満中陰(49日忌)を迎えるまでに折伏もできました。本年はこれまでに4世帯の折伏ができました。支部では12世帯できているそうです。よかったこと、嬉しかったこと、みな主人に報告しております。きっと成仏できて、私とともに喜んでくれていることでしょう。主人は一切の行事を終えて旅発って行きました。

私は本年83歳です。たった一人になりましたが、これからは大聖人様にもっともっと御報恩申し上げて、元気で「広布大願の年」を折伏に折伏をしきって、次の平成21年めざして力一杯がんばってまいります。



体験発表 『慶祝登山の功徳で心の病を克服、発心までの試練』
妙清寺支部・坂東加奈


私は北海道の札幌で生まれ、そのときに御授戒を受けていました。幼稚園くらいまでは母と共に札幌の大慈院に参詣していましたが、その後は信心とかけ離れた生活で、「うちは母独りが信心しているだけ。私は関係ない」と思い、家庭訪問に来る方にも断り続けていました。兄2人も同じでした。

そして私は、2年前から京都で学生生活を始めました。昨年の春、病気知らずだった私の体に異常が出てきたのです。動悸、めまい、手足の痺れ、息を吸っても肺に入っていないような息苦しさ、初めは単なる疲れだと思いましたが、治る気配がなく、いろいろな箇所に新たな症状がどんどん現れ、一つ治まると、また違う症状が出てきました。病院に行っても原因不明と言われるばかりで、不安が大きくなっていきました。症状はますます悪くなり、後頭部の痺れ、締めつけ、痛みが始まって枕を当てることもできず、寝ても激しい吐き気と大量の汗で夜中に目が覚めてしまう、そんな毎日が続き、夜一人になると、恐怖で早く帰省したいと思っていました。

実家へ帰ってゆっくりすれば良くなるのではないかと思い、しばらく家で様子を見ましたが、症状は悪化する一方で、まっすぐ歩けなくなり、歩けば振動が頭に響き、脈打ち、指一本触れられるだけで、痛みと吐き気に襲われました。一日中、体のことが気になり、精神状態も限界に近づいていました。そんなある日、家に一人になったとき、気づいたら御本尊様の前に座っていました。今思えば、その日から、症状だけではなく、何かが大きく変わり始めていたのです。

病院の問診の結果、熱もあり首が動かないことから髄膜炎の疑いがかかり、すぐに脳外科で骨髄を抜いて検査しましたが「異常なし」でした。そして翌日の朝方、私は全身痙攣を起こし救急車で運ばれたのです。

その日は母が30万総登山へ出発する日でした。母は家族の反対を押し切り、御念珠と御経本を私の枕元に置き、「大丈夫だから。苦しくなったら心の中で南無妙法蓮華経と唱えるんだよ」と言って出かけて行きました。私は不思議と「行ってらっしゃい」という気持ちで、御登山を止める気は全くありませんでした。しかし、家に一人でいると不安になり、じっとしていられない衝動にかられ、そんな自分が怖かったです。ここで動いたらおかしくなってしまうと思ったからです。

母のいない2日間がとても長く感じられました。そして母が戻った翌日、入院しました。不安障害と自律神経失調症との診断でした。薬で意識は朦朧とし、寝たきりになりました。将来への絶望感と、両親への申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも症状は楽になっていきました。数日して、母に「今からお寺に行かない」と聞かれ、私は「行く」と返事をし、お寺に向かいました。

そこで御住職・上地広暁御尊師に、「お母さんと一緒にお山に行ってきなさい」と言われました。なぜか涙が止まりませんでした。「そうか、行こうかな。行かなくては」と思い、30万総登山の最終日に2人で行くことにしました。


家族や主治医は大反対でした。「状況を考えてみろ。お前は気違いか」と父に責められても、母は黙って手をついて頼んだのです。主治医もあきれていました。また登山日は、ちょうど母方の祖父の3回忌でもあったのです。しかし母が、かつて自分の実家は日蓮正宗を信仰していて、娘の症状が祖父の病気と同じだったと皆に話すと、祖父の姿と重なったのでしょう。「そういうことなら法事はいいから、行ってきなさい」と言ってくれました。母の強い一念のお陰で登山できたのです。

総本山に着くまでは、薬のせいでいつも通りフワフワした感じで「ここはもう静岡なの、今札幌じゃないの」という気楽で穏やかな気持ちでした。しかし、三門をくぐった途端に豹変し、目は冴えだし、目にする人たちすべてが異常に見え、嫌悪感を抱いたのです。話しかけられれば、その人に対する怒りが込み上げました。一点を瞬きもせずに見つめ、端の方で独りじっと座り、私はうつ病にでもなってしまうのではないかと考えている自分もいました。この2つの気持ちが交互に現れ、とても苦しかったです。それは御開扉のときに一番強く現れ、攻撃的な私と内に篭もろうとする私がいました。

そんな私の所へ、大法要で散華が飛んできたのです。それも頭、痺れていた左腕、痙攣していた右脚に“当たった”のです。「なんだこれは、痛いな」と思い、帰りまで怒りが治まらず、バスに乗ると「早くここから出たい」と泣きました。

翌日、病院へ戻る朝、部屋のドアごしに、「このたびは私のわがままを聞いてくださいまして、ありがとうございました」と母が父に言っているのが聞こえました。姿を見なくても、何も返事をしない父に母が手をついて頭を下げているのが判ったので、母に辛い思いをさせたと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

病院に戻ると症状は消え、心境も大きく変わり、早く退院して京都に帰りたいと思い始めました。そして退院して、母に付き添ってもらい京都に戻りました。すぐにまた情緒不安定気味になりました。毎日泣いてばかりいましたが、ある日、私を妙清寺に連れていきたがっている母の気持ちに気づいて地図で探し、「お母さん行かなくていいの」と聞きました。私の命がこの信心を求めていたのでしょう。

11月5日、2人で妙清寺に参詣しました。その時、御住職・菅原信了御尊師と奥様にお会いしました。ご住職は母に、「あなたが信心しているからといって子供さんに功徳があるわけではありません。いくら御祈念しても本人が信心しなくては、お子さんは幸せにはなりません」とのお言葉をかけてくださり、奥様は「あなた、しっかり信心しなさい。御本尊様をお受けして幸せになりましょう」とおっしゃいました。

私は迷うことなく「はい、やります」と答えたそうです。私はそのことを全く覚えていません。横にいた母はたいへん驚いたそうで、その夜帰ってから、本当にいいのかと念を押したところ、「うん」と私は返事をしたそうです。これも全く記憶にありません。


翌日、御本尊様を御下付いただきました。不思議と涙があふれました。その晩、遅い時間にも関わらず、青年部の方が4人も来てくださり、話すとなぜだか安心しました。

母が札幌へ帰る日に、2人で妙清寺に参詣しました。私は泣いてばかりで、「御題目三唱だけでも本当によくなるんですか」と何度も奥様に尋ねていました。奥様は母に「どうぞ安心してお帰りください」とおっしゃってくださり、母は私と別れ、札幌へ帰っていきました。再び京都での独り暮らしに戻った私は、気分が悪いときはすぐ唱題し、夢中でお寺に向かうこともありました。

今年に入って薬がどんどん減り、生きることがとても楽しくなりました。最近は自分の病気のために唱題することもなくなりました。あの苦しかった毎日のことを笑顔で話せるようになった今、あれはご本尊様が、自分で信心しなければいけないと試練を与えてくださったのだと思います。そのお陰で出会った仲間たちに、苦しいとき、いつも支えてもらいました。そのときにかけてくれた多くの言葉を、私はずっと忘れません。だから今、私ができることは何でもやろうという気持ちでいっぱいです。

そしてさらに驚いたことに、昔、祖母と母が参詣していた北海道夕張市の興隆寺で、菅原御住職が御奉公されていたということです。祖母からの縁が受け継がれ、私はこの地にいるべくして、いるのだと思いました。今、母は北海道で、私は京都の妙清寺で、仲間と共に信心しております。御報恩の心と広宣流布を忘れず折伏を行じ、現状に甘んじることなく常に前進できる強い人間になろうと思います。

最近では楽しそうな私の姿を見て、お寺を嫌っていた兄が、行ってみようかなと言い出しました。父も穏やかになり、母を責めることがなくなりました。友人たちが、この仏法の話を進んで聞いてくるようにもなりました。特にその中の2人の方に頻繁に折伏していて、明後日も会う約束をしています。

『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節に、家族5人と友人たちとで総本山に参詣できるように精進していくことを決意いたします。

※この体験発表は村山京子さんのご協力で掲載いたしました。


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