大白法

平成21年11月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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立正安国論正義顕揚750年・海外信徒2万名大結集第4回総会

31の国と地域から3550名が登山参詣


10月17日・18日の2日間にわたり、本年第4回目となる立正安国論正義顕揚750年記念50万総登山・10月海外信徒総登山が開催された。これには、大韓民国、台湾、フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ノルウェー、デンマーク、UK(英国)、ドイツ、フランス、オーストリア、スイス、イタリア、セルビア、スペイン、ガーナ、ナイジェリア、トーゴ、コンゴ、南アフリカ、コートジボワール、カナダ、アメリカ、トリニダードトバゴ、パナマ、ブラジル、ペルー、チリ、アルゼンチンの31の国と地域から、3550名の海外信徒がはるばるご登山。

成田・名古屋など各国際空港に降り立った海外信徒は、15日午後から16日夜にかけて、順次、総本山に到着した。

総登山行事第1日目となる17日は、各宿坊での勤行から始まった。朝食の後、午前9時から客殿において御法主日如上人猊下御目通りが行われ、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った後、引き続き海外部長・漆畑行雄御尊師の挨拶、登山会の説明が行われた。その後、午前十一時から奉安堂での御開扉に参加し、本門戒壇の大御本尊様への御内拝を戴いた。昼食の後、記念展の見学、翌日の総会のリハーサルなどが行われた。

翌18日は、午前2時半からの丑寅勤行に参加。明けて午前9時からの御開扉に臨み、退場の際に立正安国論正義顕揚750年記念の記念品(袱紗)を頂戴した。秋晴れのもと霊峰富士をバックに思い思いに記念撮影をするなどした後、各宿坊へ戻って昼食を済ませ、総会会場である広布坊へ移動した。

午後2時から広布坊において、今回の主要行事の一つである海外信徒2万名大結集第4回総会が、御法主上人猊下御臨席のもと開催された。

これには、御隠尊日顕上人猊下が御臨席あそばされ、記念局委員長の総監・八木日照御尊能化、佐藤慈暢大石寺主任理事、阿部庶務部長、漆畑海外部長をはじめ、山内教師、海外各国寺院・布教所・事務所の住職・責任者の各御尊師、各国担当教師など御尊師方多数が御出席。また、法華講総講頭の柳沢委員長、大講頭の石毛副委員長・永井藤蔵氏・渡辺定元氏(総本山総代)、総本山総代の井出光彦氏、連合会各部長、地方部長代表が参列した。

両上人猊下が会場にお出ましになると大歓声と拍手が沸き上がり、さらに司会より参加各国が紹介される間中、盛大な拍手が続いた。総会は、漆畑海外部長の挨拶の後、八木総監、柳沢総講頭より祝辞があった。その後、各国代表決意表明では第4回総会に参加した30の国と地域から1名ずつ決意を表明し、最後に決意文を御法主上人猊下に奉呈申し上げた。その後、少年部男子・少年部女子・青年部女子・青年部男子の代表がそれぞれ決意を披露。

最後に登壇された御法主上人猊下は、世界の情勢を見ると、五濁乱漫とした形相を呈しておりますが、我々はかかる時にこそ、御本仏大聖人の仏法を一人でも多くの人に下種結縁し折伏を行じていかなければならないと仰せられ、一意専心、折伏を実践し、新たなる目標に向かって、精進するよう御指南あそばされて、式の部は終了した。

御退場された両上人猊下は、1階ロビーにいる参加者のもとを訪れ、ここでも御法主上人猊下より親しく御言葉を賜った後、記念撮影を行った。さらに、広布坊2階の本堂に再び戻られた両上人猊下と共に、本堂で参加していた海外信徒全員が記念撮影を行った。

小憩の後、パフォーマンスの部では、アメリカ・妙法寺、マレーシア、アルゼンチン、タイ、ガーナ、スペイン、大韓民国、台湾の代表信徒による演奏や舞踊などが披露された。また、富士地方部鼓笛隊が海外信徒を歓迎する演奏を披露した。最後にパフォーマンスの部の全出演者が壇上に集まり、会場の全参加者と共に「地涌讃徳」を日本語で高らかに歌い上げた。以上で総会のすべてが終了した。

下山は18日午後6時より順次開始。20日夕方にかけて、御僧侶、サポートスタッフらに見送られ、バスに乗り込み下山していった。




御影堂 −尊厳なる意義と歴史B−


敬台院の追善菩提の志

前回(大白法746号754号)まで述べてきたように、寛永8(1631)年10月、総本山大石寺は火災に見舞われ、多くの諸堂宇を失い、その復興の中、敬台院(きょうだいいん)の寄進によって現在の御影堂が建立されました。この敬台院の功績を讃えられ、御影堂裏手に建立されたのが敬台院の供養塔です。この供養塔には逝去の後に建てられた墓碑と共に敬台院の生前に建立された逆修塔(ぎゃくしゅうとう)があります。

また、注目すべきはその左手、敬台院の息女、鎮姫こと芳春院(ほうしゅんいん)の供養塔の存在です。この墓地について古来、この場所が芳春院の正墓(お骨が埋葬されている墓所)であると言われてきました。

常泉寺文書『口上覚』には、芳春院の廟所が当初敬台院が開創した江戸・法詔寺にあり、法詔寺が廃寺となった際に常泉寺5代住職の本行院日優師(日精上人の教化によって大石寺に帰依)によって向島常泉寺(東京都墨田区)に遷され、後年、同師によって大石寺の御影堂裏に埋葬されたとの内容が綴られています。事実、近年、同所を発掘した際には、墓碑の地下より瓶(かめ)に収められたお骨が確認されています。

実は芳春院は、寛永9年1月29日、江戸屋敷において逝去されています。このことから、敬台院の御影堂建立寄進には、小さい子息を残し、若くしてこの世を去った息女、芳春院に対する追善菩提の志をも込められていたものと拝せられます。

また、芳春院の夫である岡山藩主・池田忠雄も同年に逝去しており、この頃、敬台院の身近では立て続けに不幸が起こりました。それより以前にも敬台院は自らの夫である阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮(よししげ)を35歳という若さで亡くしています。敬台院は御影堂建立を端緒として、物心両面において、大石寺の外護に尽くされましたが、その敬台院の篤い信仰心の背景には、護法の念、広宣流布への願いと共に一族の罪障消滅・追善菩提への強い思いがあったように拝察されます。

その後、敬台院は正保2(1645)年に江戸法詔寺を阿波徳島に移して敬台寺(徳島市)を創立するなど、その生涯を宗門の興隆のために尽力され、寛文6(1666)年1月4日、74歳の生涯を終えました。正墓は敬台院自らが開創した敬台寺にあります。

同年6月、芳春院の子息である鳥取藩初代藩主・池田光仲は母の33回忌に際し、鳥府城下(鳥取市)にその菩提として寺院の建立を発願し、大石寺より日興上人御直筆の御本尊をお迎えして、妙囿山日香寺を建立しました。その山号寺号は芳春院の法号である「芳春院殿妙囿日香大姉」に因(ちな)んで命名されたものです。敬台院の寂したその年に日香寺が建立されていることは、この寺院が敬台院に対する菩提の志をも含めた意味があったと考えられます。

昨年、この日香寺は創立340周年を記念し、本堂が新たに新築され、御法主日如上人猊下大導師のもと新築落慶法要並びに御親教が厳粛かつ盛大に奉修されました。現在、敬台院の寄進された御影堂が大改修されていることと考え合わせるとき、仏法の不思議なる因縁を感じざるを得ません。敬台院ゆかりの寺院である敬台寺及び日香寺が今日まで大石寺の末寺として存在し、さらには広布の法城としてますます発展している現実こそ敬台院の御意に適(かな)った姿と言えるでしょう。


御影堂建立に伴う境内整備(日精上人)

さて、当時の記録によれば現在の御影堂建立を契機として、総本山では大規模な境内整備が行われたごとが窺えます。伝承では、御影堂は当初、現在の二天門周辺にあり、この寛永9(1632)年の建立の際に現在地に移築されたと言われています。この御影堂移転に伴い、それまで現在の二天門の東南側にあった蓮仙坊(現在の了性坊)が本境坊の南側に移築されています。

また、6年後の寛永15年には二天門(中門)の建立、総門の再建、さらに鐘楼等が新たに建立されるなど、参道を含む、御影堂から塔中に至る現在の表塔中の原形はこの時の整備によって出来上がったものと考えられます。

この敬台院の建立寄進による御影堂建立から始まった境内整備は、第17世日精上人の御構想によるものであることは言うまでもありません。これらは大石寺開山以来、宗祖本仏義を根本としてきた教義信条と本門戒壇の霊場としての格式をさらに具象化し、広宣流布に向けた機能的な寺院とすべく、荘厳あそばされた御化導が拝せられます。

前回記したように、この日精上人の御化導は宗史上非常に重要な意義を持っています。

下谷常在寺(現在の東京都豊島区常在寺)に移られて後、江戸において本格的な布教活動を展開され、かの有名な金沢法華講衆や向島常泉寺の帰伏、江戸幕府第6代将軍正室・天英院の帰依も、元をただせば日精上人の折伏によるものです。また、第26世日寛上人は日精上人の御説法を聴聞したことが出家のきっかけとなったと言われております。歴史に赫々(かくかく)たる法勲を残された日精上人の御化導の初めに、御影堂の建立があることは広布進展の意味から見ても深い意義が存すると拝するべきです。



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