§古い同窓会誌から |
同窓会報 64 自由寮素描 藤安 義勝(1986)
と手を取り合って歌った友の多くはすでに遠く去り、その誰彼の在りし日を偲びつつ寒灯のもと筆を擱くことにする。 補遺 小使さんはみな年配者で気の練れた人たちだった。寮生の。時には眼に余るような行動もあったろうに小言一つ言わなかった。藤田菊蔵さんは丹那トンネル工事の湧き水で三日三晩腰が水づかりだったとか、腰を痛めていた。同窓会大会に好々爺の姿を見せていた。(昭4・文乙)
編者補遺 会報 79 “三高自由寮の思い出” 西山卯三より抜粋
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同窓会報 21 寮生活の思い出 西谷 喜太郎(1962)
(昭12・文乙卒) |
同窓会報 25 ある夜明け 藤井力三(1964)
「オ・シャレ」のテントの前に立ち、深呼吸をした時のすがすがしさ。そして朝の空気のうまさ。昨日のシャンソンの調べが、まわりの静寂の中にたゆたっているような、何ともみちたりた一時であった。この夜明けの美しさ。私は今もって忘れ得ない。こうしたさわやかな、そして美しい夜明けは、それまでかって味わったことのない、そしてその後今日まで味わったこともない楽しいものであった。自由の学園が持つ、あの雰囲気のうちにこそ、かもし出される味わいである。
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同窓会報 9 スラム街のクリスマス 伊藤 祐之(1956)
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同窓会報 10 国文学に現れた 大文字
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といふのがある。舊暦七月十六日(今は八月十六日)如意嶽の中腹に大文字火の燃える、京都の夜空の美しさはいふまでもなく、山の向側の近江の空もあかあかと見事である、といふ意である。この如意嶽の麓には足利義政将軍の隠居した銀閣寺があるので、蕪村はまた
などと吟じた。相阿彌は足利将軍家の同朋衆で、画技・聞香・花道・造園に秀で、銀閣寺の庭はこの人の手で築造されたといはれるので、この相阿彌の宵寝も、大文字の騒ぎで目ざまされるであらう、といふのである。芭蕉絵詞傳の著者蝶夢も
と詠んでいる。子規にも
の句がある。
の自註に、唐の世の字舞−−舞人が地上に描く人文字−−から工夫したやうに示唆したのも面白い。とにかく大文字火の盛に行はれたのは江戸時代になってからで、その間に中絶したこともあったらしい。
などがある。
などと詠み、俳人虚子も
などと吟じた。吉田山も目前に大文字山をひかへてゐるので、親子づれで登る人も多く
といふ俳人野風呂の句の光景が、よく見られる。
友吉の
素玩の
作者不知の
太々の
や、和歌に小澤蘆庵の「またの夜、舟のかたに火ともせる見て」と題した
など詠まれた妙法や舟なども見事ではあるが、何といっても如意嶽の大文字が最も情趣に富んだもので、筆勢も吉井勇が
とほめた通り、まことにすぐれている。上田秋成も「十六日朝、雨大文字を思ふ」といふ文に(秋成遺文所収)
とあるのも、なるほどと首肯される。句集や歳時記などを見ても、大文字の吟が多きを占めている。たゞ郷土的行事であるために地方的に限界があるので、一般の「送り火」の句とは、數に於いて比較にならぬほど少ない。又俳句的景物たる傾向からか、和歌は特に少い。
といふ俳人宋屋(蕪村と同門の先輩)の句の心が、今もしみじみ感ぜられる。特に季節的に昔と今との著しいちがひは、昔は陰暦の十六日で、如意嶽の背後から−−−やゝおくれてではあるがー−−圓い月が出るので、それが背景となって
など詠まれた(虚子にも「遅月の山を出でたる暗さかな」の句がある)が、今は太陽暦の十六日であるので月の無い夜もある。而も闇夜の場合には却て
といふわびしさが、しんみりと味へるわけである。又先にあげた秋成の文のつゞきには、十六日が大雨で点火されなかった為に、亡き魂も地獄へ帰るのが延びて「雨をたのもし人に思ひしならめ」と戯れてゐる。なほ冬の句としては其角の「望叡山」と題した
薄雪や大の字枯るる山の草
嵐雪の「大文字の句をもとめたれば雪の心の出けるまゝに」と詞書した
などがある。
「碁盤」は整然たる京都の町並をなぞらへ、また人間を「蟻」になぞらへたもの、
「弘法も筆の誤」といふ諺を用ひ、「大ひ」に「大悲」と「大火」とをかけたもの、
嵐雪の「布團着て寝たる姿や東山」によって、如意嶽を東山の隣といったものである。
を借りて、この稿を終ることにする。