§古い同窓会誌から

同窓会報 64 自由寮素描 藤安 義勝(1986)

このホームページの“三高漫画”に入れた西山卯三の“ああ楼台の花に酔う”に、西山の三高での自由寮生活が漫画入りで、いろいろな側面から描かれている。しかし藤安の思い出は、文章だけの描写で、寮生活をさらに彷彿とさせるものがある。それに読んでいて思わず笑いがこみ上げるユーモアや、寮で働く人たちの献身的な姿とその人たちへの温かい思いやりも嬉しい。ヒトは人によって人になる。寮生活のカオスの中から友情が育ち、友の姿に自分の生き方を学んで行く。


(前略)

大正十五年四月十六日朝、夜行列車での眠気が覚めやらぬまま寮に辿り着いて、中寮十番と指定され、通りかかった上級生に「寝室はどこですか」と尋ねたが、その上級生が武島忠義君(池谷)、「寮へ着くといきなり寝室を尋ねるとは、寝るために寮へ入ったのか」と後でからかわれた。仰せの通り、あとの半年寝て暮すどころか、応援団の太鼓の音を聞き乍ら二階でよく昼寝したものだった。

門限なし、舎監なし、消灯なしの上に上級生下級生互いに呼び捨てときかされた。私は浪人して入ったので、少しふけて見えたか付き添いの父兄に挨拶された。

食堂の入口に並べてある自分の箸箱を持って各室の食卓につく。飯と味噌汁、漬物は制限なし。朝の豆腐汁はうまかったが、遅く行くと容器の底に少し残っているだけ。「飯は食いたし朝寝はしたし飯と朝寝の板ばさみ」とデカンショにあるが、寝覚めこそ一刻千金、うまい味噌汁にはなかなかありつけなかった。中寮四番草鹿三郎室長の「賄ッ飯ッ」の一声は凛として湯気立昇る食堂に響いた。待機している炊夫が間髪を入れず飯櫃をかかえて走る。「おい、みんな一杯ずつ余計食えよ」とどこからか指令が伝わる。賄征伐だ。忽ちあちこちから飯ッ!飯ッ!賄の慌てぶり。「俺は五杯余計食った」という者、一体、普通は何杯食ってるのか?米は炊事委員自慢の朝鮮の江州米とか。

その頃、もぐりと称して、下宿を引払ったのが入寮手続きなしで物理的空間的にどこかの室に密入寮するのがいた。夜具なしでも何処かに卒業生の遺留品もあり、全般的に自分の物は他人の物、他人の物は自分のもの、要するに所有権に関してはアンシャン・レジーム(編者注:ancien regime:時代遅れのやりかた)から抜け切れていなかった。ところでもぐり君、飯の時は頃合いを見計らって用有り気に食堂へ入ってきて、選手交代、半分残ったオムレツで飯を済ませ、かくて一日の糧を神に感謝するという次第。米一升二五銭だった。その頃、子連れの母親が大丸の食堂で五銭のライス二つだけを注文して、小さい声で「福神漬を少し多く添えて下さい」と囁いたとか。尤もこの手は我々も列車の食堂車でやったことがある。

炊事は炊事委員によって運営さえ献立も彼らの創作による。さみだれ飯というのが出た。ネギの煮汁を飯櫃の中へ空けたもの、何とも閉口したが暫くするとすき焼きの大盤振る舞い、これでは朝三暮四ではないか。

休暇明けで寮へ帰ると土産で賑わう。情報は流れる。中四の岡本亮一君は和歌山駿河屋の御曹司、しばしば羊羹、カステラのお相伴にあずかった。私の所へ静岡蜜柑が着くと知るも知らぬもやってきて忽ち蚕食の上「紀州蜜柑よりちょっと味が落ちるな」と。市場の仲買人か。

食い物の話はひとまずこの辺にして、炊夫長夫婦はともかく、その他の中年の炊夫三人が炊事室の殺風景な相部屋に同居し、折からの不景気、飯付き寝床付きの上に多少の賃金で最低限度の生活はできたとしても、気持ちは相当荒んでいたのではなかろうか。私なりに時々彼らに声をかけて労を労っていた。ある時何の行き違いか、少し気の荒い炊夫が出刃包丁を逆手に学生を追いかけているのに出遭った。単なる脅しとは思ったが、ものには弾みということもあり、私はかねて親しく言葉を交わしていたことから縋り付いて留め男の役をしたのだった。少し涙ぐんで私に訴えていた。話せばわかるのだ。

話は飛ぶが、炊事委員が府立第一高女の寄宿舎へ視察に行ったそうだが、その時は自称炊事委員が参加して大賑わいだったそうな。コンパの前に丸太町新道の小川堂菓子店へ買い出しに行くときには誘われて参加したことがある。試食と称して栗饅頭、かき餅など店でも心得たもの気前よく振る舞ってくれた。

さて、京の歳末風景を楽しむべく試験が済んでも一人居残ったことがあり、それには緊縮財政の必要からアルミの蒸し器へ残飯と味噌を賄からもらい、鰯の目刺しを加えて小使室で雑炊にして食べた。瓢亭(編者注:京都の有名な料亭)の朝粥には程遠いが空腹には結構いけた。しかし四日目あたりから脂がまわって参った。

次はストーム。大学病院に近いので大型ストームには生徒課へ苦情が来た由、平田先生から御注意があった。校害か。変わったストームでは餅箱へ寿司を並べて配ったのがあった。大歓迎、しかし元手がかかったろうに。ビールの残りにすき焼きの煮汁やら生卵やら交ぜて寝ている口に注いで歩く念の入ったのがあった。私は静岡ワサビの特別辛いのを持っていたとき、酔った連中に一箸ずつ振る舞ったら、目を白黒、一同感涙にむせんで退散した。

一年の九月に室長交代、陸上部の榊原帯刀君が着任した。君は学習院と並び称される暁星中学出身、制服は薄汚れ、兵隊靴を引きずって歩いていたが、物事にこだわらぬ大様な物腰にどことなく貴族的なものが漂っていた。昼はほとんど不在、夜遅くまで勉強し、ついで歯を磨き制服のまま兵隊靴を履いて二階の寝床へもぐり込む。夜具の裾に靴。始業の鐘まで寝て、食堂で立ったまま飯を流し込み、教室へ一目散。その年、秋の紀念祭には「尊い犠牲」と題して裸で交替に十字架へかかったが、榊原君の顔はキリストそっくりだと好評だった。孫を連れたおばあさんが「よう見ておき、悪いことしたらあのようになるのえ」と。教授会から賞金参円也をいただいた。紀念祭のあと、十字架に巻いてあった晒しで彼は越中ふんどしを何枚か作った。ある時風呂に入っていたら彼がやってきて、今はずしたふんどしを手ぬぐい代わりに湯につかるではないか。「それ何や。汚いやっちゃ」「風呂で使えば手拭いさ、腰から上と下と別々の風呂に入るのか、殿様じゃあるまいし」と済ましたもの。

別の話。中一あたりに通称グッツァンという理科二年生がいた。予備陸軍砲兵中尉とか。野外演習の時は軍籍にあるものは軍服着用に及ぶので、体操の安藤先生も特務曹長の軍服姿、陣中でご両人が出会うと安藤先生直立不動の姿勢で敬礼、中尉殿「おうご苦労」と答礼したという伝説があった。

夕食をたっぷり食べても十時頃は腹が空く。三々五々東門へ出れば(三高ホールは未だなかった)おでんや三高屋、上西ホール、オアシスや武蔵野うどんと事欠かない。テーブルの上の菓子を勝手に取って食べて勘定のときは申告制、よき時代だった。オアシスの入口に大きな植木鉢が置いてあったが、夜中にこれが散歩に出ることがあったそうな。吉田七不思議の一つ。

さて、中寮九、十両室の境は新しい杉の板壁になっていたが、私たちの入学前は壁なしの大部屋だった由。
  話は明治に遡る。月見草の歌に登場する三津が浜の乙女の霊が今は亡き恋しの君を慕って夜な夜な寝室をさまようのでたまりかねて、両室の境を取り除いたが、乙女の霊も年老いて来なくなり、そこで板壁にしたとのことだった。嘘のようなホントの話。そのロマンスのゆかりの室に入寮した私達、心中秘かに期待するものが無くは無かったが遂にそのことなく、尤も自ら顧みて女難の相(就職難の難と同義)のせいかと無聊をかこっていた。
ところで悲劇の彼らの霊を慰めるために考えたのがジンジロゲ踊りだったとか。入寮歓迎コンパの重要な催しで、全身を懐炉灰で塗り込め、誰が誰だか全くわからず、腰簑をつけて舞台で踊るのだが、さて宴果てて風呂場で洗い落とすのに、いくら洗っても落ちず、当分は黒い痰や鼻水が出て閉口した。中九、中十へ入るものの前世の罪の償いかと互いに語り合った。

全寮コンパには劇を催すが、科白もろくに覚えぬまま舞台に出るのでテーブルの下の楽屋から大声で教える。それを聞いて役者が語る。楽屋から「頭の悪い奴だな、何回教えたら覚えるのだ」それに吊られて役者自ら「頭の悪い奴・・・・」一同喝采。それから劇の終わり頃必ずビールが出る仕組み、うどんが出る、すると観覧席から飛び出して登場、宴いよいよ酣なり。
ある年の全寮コンパで市川利次君が箱入り娘の父親に扮して登場した。「三高にドテ何たらいう先生が居って、うちの娘に懸想しおってどもならん」と。一同ワーッと湧き立った。来賓席には生徒課の平田、児玉両先生御臨場。あとで市川君曰く「数学は去年済んどるし免疫や」。ちなみにこの名科白は台本になし。

寮に同級生がいるのでドイツ語の予習も分業ができるし、ノートの貸借の便もある。私がノートを読む間、同室の柳 幸君は寝ていて私が寝る時分に起きて交替する。それで柳君の方がいい点を取っている。秘訣はと問えば、私のアンダーラインやサブノートだけ読んで事足りるとのこと。出藍の誉れか。
源氏物語では小竹松雄君と三人合計して六〇点、一〇〇点にはほど遠いが私は三〇点でちょっと得意だった。
このようにして三年も終わりに近付いた頃、柳君が「このまま三年で卒業するのは惜しいし、一年延ばそうかと思うが」と誘いかけた。私も三とせの春は過ぎ易し、一抹の寂寥を感じていたが、彼は学校を休んで中八の壁にミニョンの詩をドイツ語で筆写していた。見事なものだった。ところがある日突然「家へ相談したら叱られたので卒業することにした」と。私は決心したわけではないが、つい吊られてノラクラしていたことで大慌て、教練不合格もあって結局、特及という次第。なお文化財ミニョンの詩は永く残されていたが、室戸台風後の取り壊しで失われた。

落書きでは、ドアの外側に「開けよ!然らば叩かれん」(編者注:『叩けよ!さらば開かれん』のパロディ-)というのがあった。私の室には佐々木 進君の達筆で(広ク懐疑ヲ起シ万事口論ニ決スベシ)(編者注:五箇条のご誓文『広ク会議ヲ起シ万機公論ニ決スベシ』のパロディ-)と大書してしてあった。便所の落書きで記憶に残っているのは「返さじとかねて思へば借金も自分の金と思って使へ」と楠木正行(編者注:『かえらじとかねて思えば梓弓なきかずに入る名をぞとどむる』はクスノキマサツラの辞世)があきれるようなのもあった。何とか商事型か。
佐々木君と言えば、彼は東北岩手の産、訥々と若き日の夢を語るロマンティストだった。マルクスも論じ、留置場へ入ってもへこたれぬようにと冬でも敷布団なしで寝ていた。早く郷里へ帰り腸結核で療養中も切々とした手紙を呉れたが、昭和十五年に世を去った。忘れ得ぬ友の一人である。

秋宵夢は覚め易き、九月末の夜半ふと窓辺に寄りかかり、腰間の秋水を迸らせながら(編者注:窓から放尿するのです)仰いだ如意ヶ嶽の上のオリオン星座の美しかったこと、その感激は忘れられない。庭にすだく閻魔蟋蟀の鈴を振る如き声と共に、また、秋雨の止んだあと、霧の中にかすんだ京大の時計台を寮の玄関から仰いだ夢幻のような光景に思いを同じうする人はいないだろうか。

最後に、卒業コンパのフィナーレに
友よわれらが美き夢の
去り行く影を見やりつヽ
と手を取り合って歌った友の多くはすでに遠く去り、その誰彼の在りし日を偲びつつ寒灯のもと筆を擱くことにする。

補遺 小使さんはみな年配者で気の練れた人たちだった。寮生の。時には眼に余るような行動もあったろうに小言一つ言わなかった。藤田菊蔵さんは丹那トンネル工事の湧き水で三日三晩腰が水づかりだったとか、腰を痛めていた。同窓会大会に好々爺の姿を見せていた。(昭4・文乙)



編者補遺 会報 79 “三高自由寮の思い出” 西山卯三より抜粋

中寮一番には、当時たくさんの「モグリ」がごろごろしていて、おとなしい室長は困っていた。
[ガン坊」こと宇野庄治先輩は昭和二年文甲卒のスポーツマンとして後に有名になっているが、「神陵何年」だったかラグビー、陸上、野球部などの選手をしており、この時すでに卒業していたのに暫く「中一」に盤踞し、部屋の隅で布団にくるまってよく寝言を言っていた。もう一人は馬術部の「ドテ」というやせ形髭面の先輩猛者がいた。本名は堤なので「馬のドテ」といっていた。これに対して「ボート部のドテ」がいた。これはモグリでなく、正式の室員、彦根中学出身の理三乙・堤英三郎君で、色白の美少年だった。一年遅れて卒業したが社会で永く活躍していたのに卒業後会う機会が無かったのは、今にして悔やまれる。

柔道部の寒 琴重君は文乙の猛者で、この寒君がある日夜遅く酒瓶を下げて「寝室ストーム」で中一の部屋に乗り込んできた。秋の頃だと記憶している。寝室ストームというのは夜更けて皆が寝ているところに酒などを持ち込んで枕元に座り込み、無理に酒を飲ませてネチネチ管を巻いてまわるのである。不意に叩き起こされた水上部のドテは余程しゃくに触ったのか、隙を見て下駄でポカリポカリと寒を殴り付けた。この辺は半分寝ながら知っていたのだが、ひどい仕打ちを受けた寒が一旦引き返したあと、今度はバットを持って「殺してやる」と息巻いて乗り込んできた。そして起き上がったドテの体をどやしつけた。酒の上のことであるが、水上部と柔道部の張り合いといったことも絡んでいたのかも知れない。バットがドテの体に当たってボコボコと不気味な音がしたのを覚えている。今度はドテが悲鳴を上げて逃げ出した。寒はなおも追っかけようとしたが、これは止められた。
この一幕を半分寝ながら見ていた私達は、さすがに驚いてこんなことも寄宿舎ではあるのかと怖じ気を振るった。しかし以後はあまりこういう暴力沙汰は目にしなかった。この経過を漫画(編者注:西山卯三著“ああ楼台の花に酔う”)には書いているが、さて大事なことを落としたというのはその後である。漫画はドテが逃げたところで終わっているが、実はそのあと何番か忘れたが中寮の部屋に駆け込んで、ここでずっと匿われていた。というのは時々「寮監」や生徒主事たちが寮を見回ってくる。その時ドテを見つけて経過を聞き出し、この出入りを公にされたりすると生徒自治の自由寮にキズがつくので、寮生たちが必死になって自分たちだけで事を穏便に済まそうとしたことである。だからこの事件は関係者以外は誰も知らないエピソードで済んだのである。(昭和5・理甲)

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同窓会報 21 寮生活の思い出  西谷 喜太郎(1962)

もう一編、寮生活の思い出を掲載しよう。私は自宅通学生であったが、寮生活を経験した人たちには終生忘れられない思い出として、生き続けているに違いない。この時は室戸台風で寮も被害を受け、分寮生活を余儀なくされた時期であったから、常にもまして印象が深いのであろう。まだ高等普通教育を受けられる人が比較的少なく、三高生はいわば将来を約束されていたから、伸び伸びと人生の門出で好きなように修業していたともいえよう。京都の市民もそんな彼らに寛大で、いずれは国の将来はこの人達にかかっている秀才揃いなのだからと敬意を込めて見ていたし、少々悪さをしてもまあ仕方がないというくらいのところであったのかも知れない。生徒にとっては、現在では考えられない誠に恵まれた環境であった。この稿には三高生の散歩レギュラーコースのことも出てくる。


去る九月十六日、珍しく大型の台風が襲来して第二室戸台風と名付けられた。その日の朝、気象台の予報で昭和九年の室戸台風と同じ進路を辿って大型台風が四国の室戸岬に上陸したと聞いたとき、二十七年前の室戸台風の当時の模様がつい昨日のことのように思い出された。その頃文一乙の私らは朝の第一時間目ドイツ語のヘルフリッチ先生の時間であったが、巨躯童顔のヘル先生の講義も上の空、いよいよ吹き荒ぶ暴風に気を取られていたが、折しもひときわ猛烈な風に窓際の大きなポプラがボキッと折れて窓に倒れかかった。この豪快さに思わず師弟同時に「オーッ」と唸った。怒濤のような台風が天地を包んだ感じで、われわれの教室も地震のように左右に揺れた。その直後二階の廊下で講堂や校門脇の守衛室の瓦が、木の葉のように飛び散るのを眺めて、私は初めて知る風の威力に感嘆した。この時の体験から見れば、今度の台風などは物の数ではないように思われた。
しかもこの室戸台風は、我々にとっては単なる自然現象には止まらなかった。いわば我々の「疾風怒濤」時代の幕を切って落としたともいえる。過去の光栄ある伝統を誇った自由寮も哀れや斜めに傾き、ストームの度ごとに今にも崩れナン有様で、幾ばくもなく我々寮生は吉田山の麓に分宿させられることになり、古靴や書物を棒に担いで三々五々懐かしい寮を立ち退いていった。台風から立ち退きまで殆ど一ヶ月ぐらいは傾いた寮に立て籠もり、思い出の大ストームを何回もやらかし、隣室との友情いや増した結果ついには壁をぶち抜いて直接交通をやったり、また近くのおでん屋「満蒙」で何回となく別離の杯を酌み交わしたり、比較的静穏であった寮生活に大きな波紋を生むことになった。時勢の影響もあってか、そのあと一年ほどの間に自殺したり事故死を遂げた生徒も二、三にとどまらず、また不幸にも退学の不運にあった友人も私の身辺に何人かいたのである。
余人は問わず、私自身にとっては台風がまるで体内のエネルギーを解放してくれたようなもので、勉強はしないが手当たり次第、本は読む酒は飲む、友人と徹夜で話し合うかと思えば京極に出かける、ストームに熱中するという調子でまったく生きのいい生活が始まった。

神楽ヶ岡の分寮に暫くいてから吉田山の西麓にある吉田寮に移ったが、私の部屋は三畳の小間で一人居り、両隣にそれぞれ六畳間があって、東隣に知念宏一、小林貞雄の両君が居り、西側には松本音次郎君と河野健二君が居た。また南は吉田山上の東洋花壇に通ずる道に面し、二階建ての民家と向かい合っていた。その南側のガラス戸には前住者の桜井徹良君が筆太に「満蒙大総統」と大書していたが私は文句が気に入ったのでそのままにして置いた。夜、東洋花壇から帰る酔客が部屋の内側から電灯の明かりを受けてくっきりと浮かび上がっている「満蒙大総統」の文字を仰いでは「ヘェー、えらい人が居やはるのやなあ」などと妙な声を出していた。後年、私が満州に渡ったのもこの大文字と無関係でなかったかも知れない。

自由寮生活で私の一番気に入ったのは寮雨であった。月の出る晩に雨が降るなどと歌いながら寮の二階からジャージャーやっていたが、吉田寮に移ったからといってこの好き習慣が改まる筈もなく、依然二階からやっていた。或る日学校を休んで寝ていると前の家の主人が大八車の野菜売りと世間話をしていたが、「向かいの三高はんは元気がええ人やが、二階からやられるのだけはかないまへんなあ」と話しているのが聞こえた。天を仰いでやる関係上、時には気がつかずに、下を通る京美人に飛沫がかかって怒鳴り込まれたり、櫻井徹良君に至っては武専(編者注:大日本武徳会武道専門学校。京都岡崎にあった。)の某六段から追いかけられたりしていた。自ら顧みて冷や汗ものだが、「若きヴェルテルの悩み」などに辞書と首っ引きで取り組んで、微妙な恋愛の心理に熱中しながら、一方ではこんな野蛮なことを平然とやる若者は如何に解すべきか。ただ私はこの静かで穏やかな京都の町と意気盛んな三高の寮生活に限りない愛着を感ずるのみである。

この時分寮生の放課後の散歩には代々受け継いできたレギュラーコースがあった。東一条から西に賀茂川の岸に出、荒神橋を渡って丸太町から寺町に出、京極の「正宗ホール」に沈没してから四条通りを祇園に至り、知恩院、平安神宮前から熊野神社前に出るコースであった。この途中の「正宗ホール」についてはどうしても一言しなければならない。國木田獨歩の「號外」にみる東京の「正宗ホール」はいかにも物悲しい気分に誘われるが、ここ 京都の「正宗ホール」では湧くような三高生の歌声がどよめいていた。(中略)一年生の終わり頃、次期の総代部屋が成立したとき先輩の早川、平山、井下らの諸豪がこの「正宗ホール」へ我々を招待してくれたことがあった。後半のことは私は何も記憶がないが、板倉君や河野君の話では、仰向けになったまま鯨の如く吐いたということで、その後当分の間は「熊の噴水」といってからかわれた。 後藤基夫君の持っていた吉井勇の祇園歌集の一句をもじって、「舞姫に笑われながら酒を呑む、丹後の熊も床に涼みぬ」などと誰か悪い奴が歌ったのもこの時分である。

レギュラーコースの後半に当たる知恩院の石垣は傍を通るたびに故平松一郎君を思い出す。秋の一夜この傍を通ったとき、平松君がやにわに下駄のままこの石垣を登りだした。すると知恩院の請願巡査と思われる人が突如現れて、平松君をものすごい剣幕で怒りだした。平松君は石垣の真ん中にへばりついたままで「天下の三高生を知らんか]と一喝、その勢いには、ここをしばしば舞台にする「鞍馬天狗」もびっくりしたことであろう。レギュラーコースの道中では圓山公園の「枝垂れ桜」にも登ったし、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像にも上った。この頃は何でも高いところに登るのが好きだったようで、寮の写真を見ても塀の上とか、屋根の上で並んで撮ったものが多い。大志おのずから高所を望むといった趣きがあるので甚だ愉快である。

寮生活が忙しく遺憾なく悪童ぶりを発揮していたので、学校の方はとかく留守がちで一月以降ともなると欠席日数の限度を睨みながら、せっせと教室に入った。学年初めになると新しく余裕ができるので、気宇自ずから広大なものがあった。入学当初は「特別及第」という張り紙をみてこれを優秀な生徒のことと勘違いして、俺も「特級」になりたいなどと思ったが、どうにかこうにか「特級」になったことはなかった。

私の保証教授は内山貞三郎先生で温顔なうちにも厳しく、私も先生には一言半句の口答えをしたことはない。下鴨の先生のお宅に呼びつけられて御説教を受けたことも何回かあるが、今だにその時の模様はよく覚えている。ただ先生がウスイ頭髪を丁寧に撫でつけられているのをみていつも気にしていたが、私もこの数年来急に頭がウスクなったので、どうやら正当な判断ができるようになってきた。ただウスクなりついでに散髪屋にも行かないことにしたので、先生のような身仕舞いには到底及びつかない。その頃何か暴発事件があると大抵私も一役買っているので、先生も呆れておられたことであろう。

近頃アフリカのゴリラやチンパンジーの研究に日本の人類学者が進出して面白い本が出ているが、私はこれを読んで、気質的に見ればゴリラとチンパンジーのそれぞれの特徴を合成できれば優れた種になるのではないかと考えている。その心はゴリラのように貴族的というか、いわゆる誇りを持つと同時に、チンパンジーのように「ガラが悪い」というか換言すれば環境への適応性に富むということである。貴族は斜陽に通じ、道は一般的に没落へ続く傾向が強く、さりとて「ガラがわるい」ことだけでは一向に取り柄がない。一本筋金の通ったものが、あらゆる環境に対応して「立処みな眞」というのが最も望ましい。三高生活はそういう意味でも秀れた教育の場であったと思うが、残念ながら本人自らは、或いは無理にゴリラ的になったり、また逆にチンパンジー的であったりして「立処あまり眞」とはいえないのが瑕である。(後略)

(昭12・文乙卒)

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同窓会報 25 ある夜明け  藤井力三(1964)

三高最後の生徒の人たちの経験した学校の姿も記録に留めておこう。学制切り替えのため女性の入学が起こったことも三高開闢以来の出来事であった。また、落第のあり得ない僅かに一年でしかなかった三高生活を精一杯味わった人たちの充実した姿を確認出来る貴重な記録でもある。一年かぎりの三高生だったが充分に三高の伝統を掴んで人生に乗り出していったと想像されるのが嬉しい。


さわやかな黎明であった。空はようやく白み始め、星々は名残の光をそっと消していった。吉田の山の緑が目の前にくっきりと迫り、三高の学舎のクリーム色、自由の鐘の静かなたたずまい、それらすべてが鮮やかであった。そうして静かであった。それは秋の紀念祭の一暁。前日は文丙による模擬喫茶「オ・シャレ」(フランス語で山小屋にてとの意だったと記憶する)に「パリ祭」のメロディーが、日がな一日、繰り返し繰り返し流れ、そうして招待の女学生達の笑い声さざめき、そのなかを、われわれ一年生は、コーヒー等の接待に忙しく走りまわった。夜ともなればファイヤストームの熱い情感に酔い、その夜始めて煙草はバットを友人とのみ、また百万遍の小さな居酒屋でカストリの乾杯をした。そのまま友数人と、「オ・シャレ」で語り明かし迎えた夜明けであった。
「オ・シャレ」のテントの前に立ち、深呼吸をした時のすがすがしさ。そして朝の空気のうまさ。昨日のシャンソンの調べが、まわりの静寂の中にたゆたっているような、何ともみちたりた一時であった。この夜明けの美しさ。私は今もって忘れ得ない。こうしたさわやかな、そして美しい夜明けは、それまでかって味わったことのない、そしてその後今日まで味わったこともない楽しいものであった。自由の学園が持つ、あの雰囲気のうちにこそ、かもし出される味わいである。
それまで中学校の折、学徒動員でかり出され、三週間のうち一週は徹夜労働を強制され、その度ごとに経験した学校工場の夜明けは、その度ごとに憂鬱なものであった。また、今、会社の旅行などの徹夜マージャンで味わう夜明けの味気なさ−−それは勝負に勝った時でさえ、まして負ければ更にみじめで、うつろな夜明けである。

三高生活での、ただ一度の紀念祭での夜明けの美しさ、すべてが詩であり、すべてが青春であった。

ただ一度の紀念祭、われわれはこの学園に僅か一年の滞留より許されなかった。二十三年四月、敗戦下、わが国の政治経済の混乱は、その極に達していた当時、また学制も六三制より次の三がその年より実施されることとなっていた時である。幸いにして三高へすべりこんだわれわれは高校生活は一年だけと言うことは入学当初より知らされ、また覚悟していた。次に来たるべきものは新制大学であることも知っていた。とすれば僅か一年。また一年という短期であればこそ、何にも換えがたい貴重な時間であった。三高の事情としても、我々の入学直前に寮は焼失、春の紀念祭も自粛という、まことに残念なこともあったが、我々にとってあの一年の楽しさ、貴重さは先輩諸兄の三年に比して決して見劣りするものではあるまい。最近の大学受験生は夜を日に次ぐ勉強とか。それは常識となっているが、我々の三高生活は、大学受験など殆ど念頭にないままに、学生生活を楽しむことが出来た。
それは入学式当初、落合校長が「諸君のことは引き受けた。後は心配せず、大いに青春を楽しめ」との温かいご訓辞によったものと思う。こうした親切なご訓辞がなければ、一年後に迫った不安定な新制大学受験が念頭をはなれず、せっかくの三高生活も味気ないものになっていたかも知れない。もっとも、三高での落第はありようがないと青春を過度に楽しみすぎ、新制大学受験に失敗した同期生も若干はあるにはあったが、しかしそれ以上に、落合先生のご訓辞のもと、自由な学園生活を楽しめたことは貴重な賜物であった。そうした短い一年の年月、それは三高開校以来の、そして最後の突然変異であった。

それと共に有史以来の突然変異もわれわれ同期は持っている。それは三高の男女共学、それまで三高といえば、黒マントの男一色であったはずである。お色気の異性といえば、かっては祇園であり、また裏寺町であったはずである。処がわれわれと共に、うら若い女性が見事に難関を突破、三高生となった。初めは可愛いいセーラー服に三高の桜の徽章をつけて、しかし堂々と入学してきた。それも才媛お一人で、正に紅一点、有史以来のそして最後の突然変異であった。残念ながら理科へご入学となり、文科のわれわれは拝顔の栄には浴しても、口はきいてもらえなかったが。

敗戦のインフレの陰惨な世相のもとだった。人はパンのみにて生きるものにあらずというが、三高生活はまさに心の糧を与えてくれた。しかしパンは与えてくれなかった。食糧難−−行列の末、やっと買ったパンを教室に持込み、かじりつつ飢餓をしのいだ者もいた。

しかしともかく楽しかった。われわれにとって、それが人生の夜明けの如き感を抱かしめた。それまで狭い世間に閉じこめられていたわれわれは、三高で始めて世界−−知識の世界に脚を踏み入れることが出来た。伊吹先生、生島先生の流麗なフランス語の講義、あるいは、興に乗り話される外遊の話は、フランスという国をわれわれに彷彿とさせてくれた。フランス語は劣等生であっても、私にはフランス映画−−時に戦前のフランス映画は見るもの見るものが楽しく、またスタンダール等のフランス小説類を読みあさらせた。フランス−−それはわが国に次ぐ親愛感を抱かしめるに充分であった。
また心理学の佐藤先生の座禅も忘れ得ない。講義開始前十分間程、教授が自身、机の上で座禅され、われわれも臍下丹田に力を込め、これに従ったこと、勿論、今でも私は禅には門外漢であり、その精神はわからないが、あの雰囲気は何とも懐かしい。

先生方の講義は脱線が多かったが、脱線されることによりわれわれの眼を広い世界に向けさせられた。三高の一年、わずか一年が、何ともいえない光を闇黒の心にさし入れてくれた。その後われわれは新制大学に移行し、京大分校として三高の校舎に二年いたが、それは既に三高生ではなく、あの独特の気風とは変わったものとなっていた。

美しい夜明け、あの紀念祭の夜明けと共に、あの三高生活一年が楽しく思い出される。(昭二十四年三月文丙一年修了。京都銀行勤務)

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同窓会報 9 スラム街のクリスマス 伊藤 祐之(1956)

先日(1999年2月14日)のラジオ深夜便“こころの時代”の時間に三高出身の日野原重明先生が香川豊彦先生のことを話して居られた(再放送)が、次第に香川先生と言ってもご存じのない方が普通になってきた。たまたま同窓会誌に伊藤さんが香川先生の事を書いて居られるので、ここに収録しておく。この頃はテレビでアジアの国々の貧民窟を“何とひどい”と思って私達は見ているが、香川先生のかっての神戸の貧民窟はそれ以上の惨めな所であった。こういう場所は神戸だけでなく、私の住む京都の町でも同様の状態のところが昭和20年代でもいくつもあったものだ。この稿には河上肇、水谷長三郎、高山義三(後年京都市長)、大宅壮一、間島カン(注: :ユタカ?)、平塚雷鳥といった昔懐かしい名前も散見される。


(前略)

香川豊彦先生−−と云うよりも香川さんと云う呼び名の方が私達には親しみ慣れています。それでそう呼ばさせてもらいましょう。私が香川さんを識ったのは大正七年のことで未だ私が京都大学の一年生の時でした。香川さんも当時は未だ無名の一伝道者にすぎませんでした。たまたま香川さんは京都にお見えになりまして、明治学院以来の無二の親友であり、我が国ダンテ研究の権威であった中山昌樹先生が牧師をしておられた吉田教会の応援伝道をされました。この教会は三高の東隣にあって、当時私は附属中学からのクラスメート堀経夫君(三高)に導かれてこの教会に出入りしておりましたので、自然香川さんにお目にかかる機会が与えられたわけです。

話は少しその以前に遡りますが、当時東大の新人会と並んで京大には我が国、学生社会科学研究会の魁であった労学会がありました。それは労働問題を研究する学生の会で、河上博士を中心とし、古市春彦(五高)、高山 義三(五高)、水谷長三郎(三高)、小林輝次(二高)、松方三郎(学習院)、赤松五百麿(三高)の諸君が相共に携えて組織していました。その研究会であるとき、香川さんの処女作『貧民心理の研究』を河上先生から紹介され、私は非常な興味と深い感銘、感激とをもってこれを読みました。新人会には指導者としてクリスチャン吉野作造博士がおられ、会員も東大YMCAのメンバーが多かったのですが、一方労学会には、一大のヒューマニストであり、当時は極めて宗教的であられた河上肇博士がおられ、京大YMCAの会員が大部分を占めていたということは、不思議な一致でありました。その労学会の連中は休暇になると、いつも香川さんの神戸新川の貧民窟に押し掛けたものです。ある時、私はそこで一人の白線帽をかぶった三高の生徒に会いましたが、それが今日なお健在の大宅壮一君でありました。
この貧民窟 は、香川さんが口癖のように東洋一といっておられただけに実にひどいところでありました。マッチ箱を並べたような家並みは実に粗末で、今にも壁の落ちそうな、いわゆる貧民長屋でありまして、新川一帯を幾筋も幾筋も占めているのでありました。八幡の藪知らずといいますか、迷路といいますか、とにかく実にひどい路地が長屋の間を縫っています。家の広さといってもようやく二畳敷きくらいのものでありますが、その中に一家族十人くらいが折り重なって住んでいるという有様であり、そうした家族の夜の状態はどんなものであったか、申し上げるまでもありますまい。そのスラム街の不衛生なことは言語に絶したもので、汚物は便所の汲み取り口から溢れ、路上に遠慮なく氾濫しているという有様。その路地を通り抜けるには一苦労も二苦労もしたものです。ここに香川さんは二つ家を持って居られて、一つは「イエス団」という看板の掛かっている二階建ての伝道所で、スラム街の入り口に隣接していました。二階は二間あって、当時間島カン(注: :ユタカ?)氏が香川さんの事業を助けて医療伝道に奉仕して居られました。もう一つはそこから少し離れたスラム街の真っ只中にあって、マッチ箱のような数軒の家の壁をぶち抜いた態の家でありました。ここが香川夫妻の住宅で、外来者は皆ここに泊められました。私達の泊まった数日前、平塚雷鳥さんが泊まられたというようなこともありました。
とにかく私達の驚いたことは、夜を込めて、あちらこちらから、ゴホン、ゴホンの咳声の喧しい事、香川さんの言葉によって、このゴホン、ゴホンはみな結核にやられているとのことが判ったのでありました。このスラム街の人は沖仲仕が多いということでありました。

さてクリスマスの当日、私達は朝から神戸元町のデパートに子供たちに贈るクリスマス・プレゼントを買いに行きました。それは楽しい買い物でありました。いよいよその夜、イエス団伝道所の下の間−−といっても、二畳敷きくらいの畳の間と二坪くらいの土間とにすぎませんでしたが、そこは瞬く間に貧民窟の子供たちで一杯になりました。クリスマス・ツリーは畳の間に美しく飾られていました。小鳥の巣のような髪の女の子、眼のただれた男の子、禿のある男の子・女の子、会場はムッとする嫌な臭気で充たされていました。場外には大人がたくさん立っています。賛美歌、聖書朗読、お祈りのプログラムは進んで、二、三人の若い兄弟たちのお話の後で、やがて香川さんの身振り手振り面白い長い長いお話があり、子供たちはヤンヤと喝采を送って熱心に聴いていました。そのお話が終わって、サンタクロースのお爺さんからのクリスマス・プレゼント!子供たちは眼を輝かし、頬を真っ赤にして、いかにも楽しそうでありました。私は今でもその夜の光景を想い起こします。それはもう四十年近くも隔たったことですが、昨日のことのように瞼に鮮やかであります。

そのクリスマスが終わってから、香川さん夫婦と私達は寒空に爛々の星を仰ぎつつ、山の手のかなり遠い風呂屋に行きました。何しろ貧民窟の近くの風呂屋では風眼になるおそれがあるからです。香川さんはその頃はすでに眼を悪くされ、その後一時失明を伝えられたこともありましたが、思えば香川さんの生涯には、パウロのように肉体的な刺が負わされていったのであります。その風呂屋で香川さんに背を流していただいたことは、終生の思い出です。

香川さんの日曜学校の生徒の中に、一人の女の子が年頃になった時、身売りされていく場面が『死線を越えて』の中にあります。「イエス様のことと香川先生の事は、一生忘れません」と言って泣いて去って行きます。香川さんが、ああして貧民窟で涙と共に播かれた種は決して空しくなっていないと私は信じます。

大正九年洛陽の紙価を高めた『死線を越えて』が改造社から出版されて、香川さんは一躍有名になられました。そして今や世界的な存在にまでなられましたが、『死線を越えて』が世に出るまでの十年間は全く世間からは顧みられず、社会のドン底に埋まって、貧しい人々の力となり、友なき者の友となって、純愛無私の奉仕にいそしんで居られたのであります。栄光の座を棄てて、わびしきこの世に来たり給い、世の罪を負うて十字架に懸かり給うたイエス・キリストの朽ちぬ愛が、香川さんをして失われた者を尋ねしめたのでありましょう。また世の重荷を負うて、キリストの艱難の欠けたるを補うて、あの愛の労苦を求めさせるに至ったのでありましょう。香川精神はイエスの精神であります。いつの時代、どこの社会でも一番要するものは、この精神であると思います。智識は廃り、富は失せゆき、事業もまた消えゆきます。しかし永遠に残るものは朽ちぬ愛であります。クリスマスは最大の朽ちぬ愛を神様から賜った感謝の日であります。(大正6・一部乙)

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同窓会報 10 国文学に現れた 大文字
  
阪倉 篤太郎(1957)

阪倉先生は明治三十五年、三高一部文を卒業され、東京帝国大学文科大学国文科へ進まれた。明治三十八年銀時計で卒業され、大学院研修後、明治四十年から退官される昭和十九年まで三高から動かれなかった。また、昭和二十八年から亡くなる昭和五十年まで同窓会長であったから、まさに先生の一生は三高と共にあった。私は謡曲の手ほどきを阪倉先生からしてもらった。先生は名誉教授であったが、稽古日には放課後我々の集まる教室に欠かさず見えた。二十人くらいのメンバーがいわば合唱(連吟という)するので、少々曖昧でもごまかしながら稽古を受けたが、後年片山門下の武田欣司師の許に入門したとき、「さすが阪倉先生に習われただけあって基礎はできていますね」と評して頂いた。先生のお宅にも伺ったが、大きなケースの中に立派な人形浄瑠璃の人形が飾ってあったのが印象に残る。

先生が『日本文学圖會』を上梓されたとき伊吹武彦先生が一文を寄せておられる(同窓会報 11(1957))。引用させていただく。

われわれ三高に学んだものの多くは、阪倉篤太郎先生の国文法の時間を、おそらく終生わすれることはあるまい。それほど先生の講義は微に入り細をうがち、しかもそれが超人的スピードであったから、ノートの整理にわれわれは大汗をかき、まして試験の前夜には、巻を伏せて、いたずらに長大息したものである。先生のご在職は明治四十年から昭和十九年まで三十八年間にわたっているから、長大息組の数はけだし相当なものであろう。
しかし、苦しかった思い出とならんで、先生から拝聴した「源氏」や「増鏡」の講義は簡潔しかも明晰無比で楽しかった。いささかも曖昧さを残さぬ歯切れの良い名調子は、いまも私の耳にはっきりと残っている。長大息組もきっと感を同じくされるであろう。
苦しかった思い出、こころよい追憶をこうしてたどってくると、私の眼前にはあの頃−−私がお習いした大正十年ごろの先生のお姿がありありとよみがえる。ところが不思議なことに、過去の中に浮かぶ先生の面影と、今も時たまお目にかかる先生の御風貌とは、ほとんど寸分の狂いもなくぴったりと重なる。つまり先生は、俗ないい方をすれば「ちっとも変わって」おられないのである。先生はむかしのように髪が黒く、むかしのようにお元気で、失礼ながらむかしとおなじ数だけしか皺がない。
あまり不思議なので、あるとき私は先生に「どうして先生はいつもお若いのですか」と無遠慮な質問を発した。先生のお答えはこうであった。「私は過ぎ去ったことを考えない。いつも明日はどうしょうかと考えるだけだ」−−なるほど、昨日を悔い、一昨日を悔いている私など、頭髪とみに薄きを加えるのは当たり前だと悟ったが、時すでに遅かった。(後略)

挿し絵は同窓会報9(1956)の巻頭に掲載され、上村松園筆大文字屋旅館蔵とある。以下の文章はこの絵の解説の為に執筆された。 先生の講義を聴くつもりで京都を代表する「大文字」のお話を伺おう。漢字も旧字、かなづかいも旧仮名遣いになっている。


daimonji
俳人蕪村の句に

大文字や近江の空もたゞならぬ

といふのがある。舊暦七月十六日(今は八月十六日)如意嶽の中腹に大文字火の燃える、京都の夜空の美しさはいふまでもなく、山の向側の近江の空もあかあかと見事である、といふ意である。この如意嶽の麓には足利義政将軍の隠居した銀閣寺があるので、蕪村はまた

銀閣に浪花の人や大文字

相阿彌の宵寝起すや大文字

などと吟じた。相阿彌は足利将軍家の同朋衆で、画技・聞香・花道・造園に秀で、銀閣寺の庭はこの人の手で築造されたといはれるので、この相阿彌の宵寝も、大文字の騒ぎで目ざまされるであらう、といふのである。芭蕉絵詞傳の著者蝶夢も

大文字や一筆山を染めはじめ

と詠んでいる。子規にも

夜の露もえて音あり大文字

の句がある。

そもそも大文字火は、盂蘭盆會に亡き魂を迎ヘるために、陰暦七月十三日に焚く迎へ火に對する送り火(施火)に當るもので、如意嶽の大文字の外に、松ヶ崎大黒山の妙法、西賀茂明見山の舟、金閣寺裏大北山の左大文字、愛宕曼陀羅山の鳥居などもある。−−−その他。西山の竿の先に鈴、鳴瀧の一の字、市原のいの字などもあったが、如意嶽のが代表的で、その造り創られた時代も最も古いものであらう。しかしその起源については諸説あって、或いは平安朝初期に始まって文字は弘法大師筆と(もとは「火」の字であったらう)とも傳へられ、或いは室町時代中期に義政将軍の發意で相國寺の景三(號は横川)が、将軍の侍醫芳賀掃部(山州名跡志によると横川和尚筆道の弟子)に字を書かせたともいはれ、更に下って慶長頃に造られ、字は近衛三院信尹の筆とも説かれる。又儒者伊藤東涯の「七月十六日観火詩」と題する作

青山爲紙火爲墨  点々綴成象物形
  
日暮峯頭何所似  却疑字舞列唐廷

の自註に、唐の世の字舞−−舞人が地上に描く人文字−−から工夫したやうに示唆したのも面白い。とにかく大文字火の盛に行はれたのは江戸時代になってからで、その間に中絶したこともあったらしい。

但しこの大の字の意味については、或いは悪魔退散の呪文に五芒星 ☆を象るとも、四大即ち萬物構成の四種の成分で、人體を表はすともいはれ、その七十二の火坑は一年の七十二候を象ると伝へられる−−−吉井勇の歌に

かしこくも五芒の星にかたどるといふ大の字燃えにけるかも

あめつちの五塵のなかの火もて書く大といふ字の焔かなしも

などがある。

さてこの大文字は麓の村民の手で焚かれるので、その準備については雍州府志などに詳しく記されているが、近松門左衛門が關八州繋馬(享保九年初演)に
毎年七月十六日東山の大もんじ、都では珍しからず
と書いたやうに、我が京都のなつかしい郷土的年中行事の一つで、洛中洛外の老若男女は夕食後、戸外の適當な所に出てその點火を待つのを樂しみとし、賀茂の堤など絶好の場所は相當の人出である。歌人吉井勇も

加茂川の河原の石にこしかけて大文字の火を待つはたのしも

大文字を待つとし立てば巳にさく賀茂の堤のつゆ草の花

などと詠み、俳人虚子も

大文字や人うろつける賀茂堤

大文字を待ちつゝ歩く賀茂堤

などと吟じた。吉田山も目前に大文字山をひかへてゐるので、親子づれで登る人も多く

大文字兒によびあふや草の間

といふ俳人野風呂の句の光景が、よく見られる。

大文字の外の送り火にも、俳句に嵐雪の「松ヶ崎妙法の火」と題した

経を焼く火の尊さや秋の風

友吉の

妙の字や松ヶ崎に生ふる箒木かと

素玩の

妙法の火をともしけり露ながら

作者不知の

舟の火の消え行く方や霧の海

太々の

舟の灯のたゞよふ影や夕嵐

や、和歌に小澤蘆庵の「またの夜、舟のかたに火ともせる見て」と題した

なき魂をおくる御法の舟なれば西の方へは向ひける

吉井勇の

妙法も弘誓の舟もともりけり京送り火の夜空あかるく

など詠まれた妙法や舟なども見事ではあるが、何といっても如意嶽の大文字が最も情趣に富んだもので、筆勢も吉井勇が

大の字の字がしらあたり火のにじみ焔の筆のきほひよろしも

とほめた通り、まことにすぐれている。上田秋成も「十六日朝、雨大文字を思ふ」といふ文に(秋成遺文所収)
是大文字に倣ひて、北の山丘のべに物の形なせれど、船岡の船のみそれ
と見定められて、其餘りは稚あそびのしわざぞかし
と皮肉ってゐるが、藤井紫影の句に

妙法も舟もやゝこし大文字

とあるのも、なるほどと首肯される。句集や歳時記などを見ても、大文字の吟が多きを占めている。たゞ郷土的行事であるために地方的に限界があるので、一般の「送り火」の句とは、數に於いて比較にならぬほど少ない。又俳句的景物たる傾向からか、和歌は特に少い。

俳句の季題では秋の部に属してゐるが、残暑のきびしい年などは

山の端に残る暑さや大文字

といふ俳人宋屋(蕪村と同門の先輩)の句の心が、今もしみじみ感ぜられる。特に季節的に昔と今との著しいちがひは、昔は陰暦の十六日で、如意嶽の背後から−−−やゝおくれてではあるがー−−圓い月が出るので、それが背景となって

月しろにかゝる烟や大文字     南浦

大文字に月一点の光かな     五雲

ともす火は消えてあやなき高嶺より光をかへて月ぞ出でくる   小澤廬庵

など詠まれた(虚子にも「遅月の山を出でたる暗さかな」の句がある)が、今は太陽暦の十六日であるので月の無い夜もある。而も闇夜の場合には却て

大文字のあとの闇夜に親しめり

大文字の消えたるあとの如意嶽はたゞ一片の北の土       吉井勇

大文字の火も漸くにおとろへてはかなくなりぬ京の夜空も      同

といふわびしさが、しんみりと味へるわけである。又先にあげた秋成の文のつゞきには、十六日が大雨で点火されなかった為に、亡き魂も地獄へ帰るのが延びて「雨をたのもし人に思ひしならめ」と戯れてゐる。なほ冬の句としては其角の「望叡山」と題した

      薄雪や大の字枯るる山の草

嵐雪の「大文字の句をもとめたれば雪の心の出けるまゝに」と詞書した

山の端を雪にも見ばや大文字

などがある。

次に川柳を見ると

大の字で碁盤を蟻の這ふも見え

「碁盤」は整然たる京都の町並をなぞらへ、また人間を「蟻」になぞらへたもの、

誤の筆に尊き大ひの字

「弘法も筆の誤」といふ諺を用ひ、「大ひ」に「大悲」と「大火」とをかけたもの、

大の字なりは布團着て寝た隣

嵐雪の「布團着て寝たる姿や東山」によって、如意嶽を東山の隣といったものである。

最後にまた吉井勇の詠

大文字の火影うつれば夜の縁の忘れ浴衣もあはれなるかも

大文字の送り火燃ゆといふ声す酒はや盡くと寂しみ居れば

を借りて、この稿を終ることにする。

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