アメリカ合衆国を考える〜V
もうしばらくアメリカを考える旅を続けたい。一九八七年に、アラン・ブルーム著「アメリカン・マインドの終焉」という本がアメリカでベストセラーになったことがあった。著者はシカゴ大学の無名の哲学教授である。このような決して気楽に読める類でない大部のノンフィクションが突然ベストセラーになったことは当時ちょっとした話題になったものである。この本は、トクヴィルの観察から一五〇年ほど経った二十世紀後半のアメリカの精神状況を考察し、建国の英雄たちが打ち建てた「自由」と「平等」の理想がいかに変容したか、いかに悪しき相対主義に毒され精神的な徳が失われ欲望のみが膨張して来たかを解き明かす。ブルームの提起した問題は、当時、心あるアメリカ人の胸に漠然とわだかまっていた「我々の生き方はこれでいいのか」という問いを心に呼び覚ましたが、彼の指摘したアメリカの(そして広くは日本も含む民主主義社会の)精神的な難題は今でも解決されておらず、その問題意識は今日でも新鮮である。
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近代社会の礎を築いた啓蒙哲学、或いはアメリカ建国当初の自由、平等の理念においては、自由、平等の意義は、王政や貴族政に対するアンチテーゼとして政治的な意味あいに慎重に限定されていた。しかし、自由と平等の適用される分野はあっという間に広がり、その理念は、いつの間にか、ホモにも結婚を認めよ、ドラッグも人間性の解放であり容認せよ云々という方向にどんどん進んで行き、何でも認めてしまう放縦な相対主義に変容してしまった。どんな行動、どんな思考にもそれなりの「価値」があり、それらを比較することはできず、唯一信頼できるのはどれだけ売れたかという貨幣価値、市場価値だけとなった。
こうした価値の相対化に深く与かったのがマルクス主義とフロイト主義である。マルクスは経済という下部構造が人間の精神という上部構造を規定すると言い、フロイトは性的衝動が人間の精神を動かしていると言う。こうした人間精神についての解釈によって、人々は、あらゆる価値は相対的であって、価値はそれを信じている人の私的な経済活動ないし性的衝動によって形成されているにすぎない、と教えられ、人間の魂などその程度のものとたかをくくるようになった。人々は、自分の魂の「解釈」にすぎない考えを魂の「真実」であると受け取るようになる。こうした観念に囚われた人々は、我々が本来持っている、善き存在でありたいという素直で深い人間的欲求を押し隠され、忘却させられる。真剣な希求を失った人々は、ただその時限りの流行に身を任せ、それに乗り遅れまいとして右往左往しながら一生を終えるのである。こんなニヒリズムと化した「自由」や「平等」がアメリカ建国の英雄たちの理念であったはずがない。
そもそもここ半世紀のアメリカでは、建国の父たち自体がその欠点を暴かれ相対化されてきた。「独立宣言」の起草者であるジェファーソンについても、自分が大統領になると言論を弾圧したとか、黒人奴隷との間に子どもを作ったとかいう否定的な面が「究明」され、左翼的な立場からは彼ら独立期の英雄たちは単にブルジョアジーの利害の擁護者だったことになった。人々は、自国の歴史を否定的にしか見ないようになり(最近の日本の言葉で言えば「自虐史観」!)、歴史上の人物をすべて相対化し、観念とスキャンダルの枠の中でしか見られないようになってきた。大統領のプライバシーを暴き立て、非難の的にしようとする異様なまでの「権威の相対化」はクリントン大統領の女性スキャンダルで頂点に達した感がある。僕はクリントンが決して信頼すべき偉大なリーダーとは思わないが、リーダーのプライバシーを暴くことで彼の資質の全てを否定するようなマスコミや反対党のやり口には大きな怒りを覚える。クリントンはともかく、ジェファーソンは、素直な目で見て、あの困難なアメリカ独立という事業を不屈の意志の力で成し遂げた不出世の英雄の一人であったことは動かし難い。多少の行状、性格の傷があったとてどうしてその功績を否定できようか。英雄とは、その悪も大きいがその善もとてつもなく大きい人なのである。マスコミは、高校時代の初恋の女性と結婚しそれ以外に女性とのつきあいを知らず、あとは謹厳に仕事に邁進するだけ、といった、味も素っ気も無い男が最もリーダーにふさわしいとでも言うのだろうか。現代のマスコミに見られるのは、「言論の自由」を勝手気ままに濫用し、英雄や成功者や偉くなった人への大衆の嫉妬心や覗き見的な好奇心におもねる精神の病理である。一五〇年前既にトクヴィルが懸念したデモクラシーに潜む精神的病理は、今日一層の暴威を振るっているのである。
近代合理主義、啓蒙主義は、人間の利己心や欲望を肯定し、そのエネルギーによって科学技術と経済の発展を促す一方で、他人の利己心も認め、一人の欲望が無制限に拡散しないように、つまり利己心と社会秩序とを調和させるために、社会契約による規範の確保を図る。「自由」や「平等」は勝手な解釈をされてはならないものだ。アメリカ建国の原点においては、それらの理念は、それを用いる人間に対して「徳」や「共通の善」をも要求していたのである。「徳」「共通の善」とは、ブルームの言葉を借りれば、正直で、法を守り、家族に献身する、理性的な働き者であることであった。「自由」や「平等」は、「徳」や「共通の善」を前提に理性的に慎み深く行使されなければならず、無制限な「放縦」や「嫉妬」に変容させられてはならない。同様の趣旨で、トクヴィルは、キリスト教の習俗を前提としてアメリカの民主主義は機能すると言う。もしそうなら、キリスト教が人々に示してきた、気高い行為の規範や他人との触れ合いに含まれる深い意義や勤勉と節約によるほどほどの物質的満足といった徳や善を欠き劣化した魂は、民主主義を担い得ないことになる。
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アラン・ブルームはアメリカにおける小林秀雄、福田恒存である。歴史と古典に対する敬虔な心持ち、恋や愛に対する新鮮な感性、人間性の不可知に対する畏れ…こうした感受性がこの本を性格づけている。アメリカにこのような古典主義者がいることに僕はおおいに驚いた。何とブルームは古典の「素読」を大学の教養課程で行うべきだと言う。
「一般に認められた古典文献を読むこと、とにかく読むことである。そして問題が何かを、また古典に近づく方法を、テクスト自身に語らせることである――つまり古典を出来合いの範疇に押し込んだり、歴史の産物と扱ったりせず、作者が望んだ通りの読み方をしようとすることである。」(「アメリカン・マインドの終焉」第三部の『学生と大学』より)
「古典崇拝」に対する様々な反対意見をよく承知した上で彼は言う。
「しかし確かなことがひとつある。古典のカリキュラムが中心部を形づくっている教室ではどこでも、学生は夢中になり、満足しているということ、自分たちが独自な、自らの希望に沿ったことをやり、他のどこからも得られない何物かを大学から得ていると感じている、ということである。」(同上)
ブルームの語る、アリストテレス「氏」を同時代人だと信じて疑わなかった一九四〇年代のアメリカの学生の素直な心は実に好もしい。アリストテレスの思想はまさにこの学生にとっては生きた思想だったのである。一九六〇年代の学生運動とそれを支えた悪しき相対主義(左翼思想、フロイト主義等)が、こうした瑞々しい感性を学生たちから奪い去る過程を、彼は、怒りを込めて描く。一九六〇年代に日米欧で生起した学生運動については、僕も極めて否定的に考えている。あんなものがなければ大学と学生の関係はこれほど白けたものにはなっていなかっただろう。
学生運動後の世代はどうか。ブルームによれば、一九八〇年代のアメリカの学生は、「率直さに好感は持てるが、何か足りない」存在である。その特徴は次のような点にある。
第一に、彼らは、英雄や偉人に対して率直な驚嘆、憧憬の感情を持てない。彼らは「偉大さを否定し、誰もが不快な比較をこうむらずに自分だけの世界の中で快適な思いをする」ことが民主主義の目的であるかのように思わせる悪しき平等思潮の影響下にある。ブルームは言う、「彼らは(人生の)目標を自分で設定したと考えているけれども、自分の内部のいかなる源泉からそれを引き出したというのだろうか」と。恐らく源泉は豊かな過去の遺産ではなく、身近な医者、弁護士、実業家、テレビタレントといった存在なのである。「賞賛の対象として尊敬できる人物や人に対してそう公言できる人物を持たない若者、大いなる徳目に対する情熱を人為的に抑えつけられている若者、彼らこそ憐れむべき存在ではないだろうか」とブルームが喝破する若者像は日本にも共通である。
彼らの日常生活の中には、いかに善き人生、気高い生き方を見出すか、といった精神的向上心がない。科学や技術や経済といった専門性にこもった日常生活と、単に情欲や安っぽいセンチメンタリズムを刺激するだけの流行の音楽や映画を享受する気晴らしとに人生は完全に分離しており、その間を取り結ぶべき自省や価値観の鍛練(そうしたことは古典に触れることによってのみ可能である)が抜け落ちている。ブルームは言う、「かつての学生にとっては、人文科学や社会科学で出会う全ての書物が、自分たちの苦悩について学ぶ拠り所となり、苦悩を癒すための通路となることができた。彼らの目には、彼らが教師を必要としているという形跡がありありと窺え、教師を喜ばせたものだった」と。こうした、かつて日本の旧制高校生にも熱く存在した精神的向上心は今の学生にはあまり見られない。
第二に、性に対するタブーが無くなり「自由化」が進んだ結果、若者は恋の情熱を知らないのにセックスだけ知るようになった。世阿弥が「秘すれば花、秘せざれば花ならず」と言ったとおりで、慎みを失った性には魅力がない。安易に性を知る機械のような学生たちを見て、ブルームはこんな空虚で無感動な性があろうか、と嘆く。僕も、人を愛したり愛されたりすることの苦しみや悲しみを交えることのない、恋なき性しか体験しない若者は不幸だと思う。彼らの乾いた恋なき性には、古来の詩歌や小説が描く、激しい渇望と葛藤を経た精神の浄化を見出すことはできない。恋愛を通じた自己発見という得難い経験はそこにしか宿らないというのに…。
そして第三に、カネが全ての浅ましい拝金主義。「金銭への愛情を動機とする学問があってもいいが、富そのものは動機として決して最も崇高なものとは言えない」「学問と強欲とがこれほど完全に一致している例は、大学では他のどこを探しても無い」とブルームが皮肉る経営大学院(ビジネス・スクール)は、今日ますます隆盛である。
何故アメリカはこんな国になってしまったのか。いろいろ美辞麗句で飾っているが、金融産業と情報産業で飯を食う戦略をとるこの国は、欲の皮のつっぱった我利我利亡者の集団になり果てている。金融や情報は人間にとって「手段」であって「目的」ではないはずだ。
二〇〇〇年一月六日付日本経済新聞「地球回覧」に面白い報告があった。それは、アメリカのある教育懇談会における「インターネットの功罪」についての報告だ。曰く「生徒に本の感想文を書かすと、インターネットで要約を引き出して持って来てしまい、本を読まなくなった」「フランスの歴史を課題にすると、多くの生徒がインターネットで取り出した凱旋門やエッフェル塔の写真を貼り付けて旅行案内のようなレポートを書き、体裁はいいのだが、フランスがどんな歴史を持った国かは勉強してこない」つまり、ネットで断片的な情報を手っ取り早く採ってしまうため、知識が深くならず、対象の全体像を把握する力は身に付かない生徒が増えているということだ。
ブルームは、ベトナム戦争世代以降の若者がヨーロッパの文化的深みや伝統から乖離し、古典を味わう術を喪失しつつあることを嘆いたが、その後のネット社会化により、アメリカ人はますます過去への関心を失い、世界観や生き方への問いを喪失し、ただ金銭欲という崇高ならざる動機に動かされて、目の前にあるマニュアルとカタログの中の断片的な「情報」で人生の時間を埋めるようになってしまっているのではないか。
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デモクラシーの極まった相対主義時代である現代の人間の魂は、あらゆる思想、趣味を採り入れることができる。ブルームの言葉によれば「魂は、定期に出し物を替える芝居の一座の舞台になる。――ある時は悲劇を、ある時は喜劇を演じ、またある日は愛を、別の日には政治を、最後には宗教を取り上げ、また今はコスモポリタニズムを、今度は土への忠誠心を演じ、また都市を演じ、田舎を演じ、個人主義に赴いては共同体に戻り、感傷を取り上げ、残虐を取り上げ、という具合である。こういった全てのものに位階秩序を課す原理も無いし意志も無い。魂は、あらゆる時代とあらゆる地域、あらゆる民族とあらゆる文化の人物を、この舞台で演じることができる」のである。この魂の状況は、豊かさと緊張により、新たなより広い世界観の基礎となる可能性をはらむが、同時に世界観を構築するのに不可欠な統一的な人格の解体とニヒリズムや刹那主義の招来という負の面を持つ。相対主義には、傲慢を捨て寛容な態度と知的好奇心で異質を容認しようとする良質な面と、過去の価値を相対化して軽蔑し、よく吟味されないその場限りの思いつきや流行を追うだけの空虚な自己を正当化しようとする悪しき面とがあるのだ。
ブルームによれば、現代アメリカの相対主義は本当の寛容ではなく、自己正当化と裏腹の他人への本質的な無関心なのである。アメリカでも日本でも、我々二十一世紀に生きる人間がなさなければならないのは、相対主義に耐える強い知性を磨くこと、悪しき相対主義とは断固闘う勇気を持つことである。そうした力は、古典を素読し古典に感動できる感性を養うこと、先祖の営みに共感を持てる良き歴史感覚を身につけること、それらによって、動かしてはならない絶対的な規範やアイデンティティが人間には存在するのを感得するといった経験によってのみ身につけることができるように僕には思われる。真実の他人への共感や社会的関心もこうした感性からしか生まれはしない。
「王侯にふさわしい優雅な衣服をつけ、古代の人々の宮廷に入り、彼らと話をするために」多忙な一日の数時間を、古典や歴史書の読書に充てたマキャヴェリが持っていたような本当の歴史感覚を我々も持ちたい。古典や歴史書は「情報」を得るために読むのではない。情報を生かす「知恵」や「思考力」やそれらを支える「感受性」を身につけるために必要なのである。若い人に記憶や解釈のためではない感性のための古典や歴史の教育を施すことは社会の責任であると僕は信ずる。ブルームとともに僕も言おう。高等教育とは技能や知識を伝授することだけであってはならず、従って市場価値でその効用を測定してはならない。そこでは「リベラル・アーツ」即ち人類がこれまで蓄積してきた文学や哲学や生きた歴史や芸術が主要な位置を占めていなければならない、と。
(二〇〇〇年一月三〇日)
〈参考にした文献〉
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」菅野盾樹訳(みすず書房)