次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ2001年〜2002年編」目次へ戻る
表紙へ戻る

 

なぜ古典派音楽か

 

 古典派音楽の最大の功績は「形式の完成」ということである。これは、自然科学や自由平等思想と同様に、一八世紀の合理主義、、啓蒙主義が生み出した成果物であった。古典派音楽は、基礎的でかつ最も広範に使われる数学の公理のような存在である。中でもヨーロッパ音楽の諸形式を純化、大成したのがヨーゼフ・ハイドン(一七三二年〜一八〇九年)であった。私たちは、音楽の基本に立ち戻りたい時、「バッハに還れ」ではなく「ハイドンに還れ」と言うべきである。バッハは汎用的な音楽を確立した人ではなく、かなり特異な音楽の作り手だったのだ(詳細は拙文「バッハからイエスへ」を参照)。

 古典派の源流は、イタリアのナポリ楽派(ポルポラ、レオ、ペルゴレージ、ガルッピら)やサンマルティーニ弟、フランスのボワモルティエやモンドンヴィユ、ドイツのマンハイム楽派(リヒター、ヨハン・シュターミッツ、ホルツバウアーら)やベルリン楽派(C・P・E・バッハ、ベンダ兄弟ら)、それにオーストリアのウィーン前古典派(ヴァーゲンザイル、モンら)であるが、僕の独断では、古典派の終わりはベートーヴェンではなく、シューベルトも古典派であり、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニまでのイタリア歌劇作家もナポリ楽派の後継者であり集大成者であると思う。ドニゼッティの「愛の妙薬」は、まさにナポリ派以来の古典派オペラ・ブッファの集大成作品である。ドニゼッティ自身、ハイドンを敬愛していた作曲家マイヤーに拾われ育てられた弟子であった。

 

 古典派に続くロマン派の音楽家たちは、自身ユニークな音楽形式を創り出せず、古典の枠組みをそのまま使った。二〇世紀初頭から現代までの無調、無形式のいわゆる「現代音楽」は、古典形式を桎梏と感じ、そこから何とか脱しようとする苦し紛れの試みであったが、現代音楽の作曲家たちが残したのは、結局、誰も繰り返し演奏しようとしないガラクタばかりであった。むしろロマン派から派生した映画音楽やその後のあらゆる大衆音楽の方が、古典派の音楽形式をそのまま借用することで広く人々の心を捉えている。古典派は今日の大衆音楽の構造をも規定しているのだ。西洋音楽の構造はハイドン以来今日まで基本的に変わっていないと言える。

 古典派はワンパターンの音楽であり、どれを聴いても同じ様式で出来ている。一八世紀後半は、どの国の音楽家も同じような様式で作曲していたのだ。この頃、いろいろな国に天才音楽家が出現し、彼らの多くがモーツァルト(一七五六年〜一七九一年)に擬せられた。フランスのモーツァルトと呼ばれたのはフランソワ・ドヴィエンヌ(一七五九年〜一八〇三年)であり、スウェーデンのモーツァルトと称せられたのがヨゼフ・マルティン・クラウス(一七五六年〜一七九二年)である。イギリスのジョージ・フレデリック・ピント(一七八五年〜一八〇六年)、デンマークのヴァイゼ(一七七四年〜一八四二年)、スペインのアリアーガ(一八〇六年〜一八二六年)もその国のモーツァルトと言われた。確かに彼らの音楽はモーツァルトに似ている。フランスらしさだとかスペイン的だとかいう民族の独自性はあまり感じられない。ヨーロッパの音楽史の中でも、これほど民族的な差異のない時代も珍しい。

 

 さて、なぜ僕はそんなに古典派をひいきするのか。古典派音楽は僕にとって日々の食事のような存在である。三度の食事に突飛なものは要らない。いろいろと珍味やごちそうを食いかじっても、結局人は家庭料理へ帰って来るのである。構造が不明確になり、情緒や自己主張や標題や物語性に依存するロマン派音楽の「珍味」に、僕は精神の脆弱さを感じる。知性に統御された均衡と構成美――これらこそ、僕が日々必要とし、日々楽しんでやまない音楽なのである。

 本当は僕が体に刷り込みたいもうひとつの音楽体系がある。それは、日本音楽の体系である。雅楽、仏教声明、能楽等々、これらは単に鑑賞するだけではなく、できれば自分でその一節を唸ることができるように「体化」したいものだとひそかに念じている。

平成一四(二〇〇二)年一月三〇日