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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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私の音楽鑑賞メモ(二〇〇三年〜二〇〇四年)

 

古典派音楽のもたらすもの

 CPOから出たアーベルのピアノ協奏曲集について、矢澤孝樹氏がレコード芸術四月号で書かれた評は、古典派音楽が私たちにもたらしてくれる楽しみを的確に表現してくれている。曰く、

「ここで音楽が目指しているのは、非日常的な驚きや興奮ではなく、微笑みや寛ぎを聴く者にもたらし、喜びと共に日常に回帰する手立てを優しく示すことだ。」

平成一五(二〇〇三)年三月二二日

 

パユとベルリン・バロック・ゾリステンの演奏会

 大阪、福岡、東京に先立って、一一月二九日に、ベルリン・バロック・ゾリステンが石川県立音楽堂にやって来ました。ベルリンフィルのトップたちによるバロック音楽の合奏団で、小生は去年も東京で聞いたのですが、今年は金沢に来るというのでさっそく出かけました。リーダーのライナー・クスマウルがメリハリあるヴァイオリン・ソロを聞かせてくれましたし、いかにもフランスのフルート奏者らしい美男のエマニュエル・パユのフルートも華麗でした。この団体はほんとに皆が演奏を楽しんでいるのがいいですね。演奏会の最後に、若いドイツ人のヴァイオリン奏者が、達者な日本語でアンコールの説明をしてくれました。本当に自然な日本語で驚きました。観客も大喜びで、演奏と同じくらいに受けていました。

 ベルリン・バロック・ゾリステンは、メンバーのライマー・オルロフスキーがテレマンの研究家であることもあり、テレマンの埋もれた名曲を発掘しては演奏会やCDで取り上げています。この日も、ターフェルムジークの中の協奏曲のほか、ト長調のフルート協奏曲(TWV五一―G二)という珍しい曲が演奏されました。テレマンの音楽は、ソロの掛け合いがあったり、意外な所で低弦楽器が大胆な旋律を弾いたりと、必ず観客に見せ場を用意してある一流の娯楽音楽です。見て楽しく聞いて心地よい音楽と言えましょう。しかし、この日の最後に演奏されたバッハのロ短調の管弦楽組曲を聞くと、バッハはやはり音楽の緻密さが別格だと感じます。それは対位法や細かな装飾音をふんだんに詰め込んでいて、まるで精密な織物を見るような音楽なのです。また、音楽に込めた精神がテレマンとは全然違うと感じます。テレマンは人々の心を慰める娯楽として音楽を書いていますが、バッハは神への捧げ物として音楽を書いています。どちらが高い低いという問題ではなく、音楽に込めた精神が違うのため、私たちが受ける感動の種類が違うのです。

平成一五(二〇〇三)年一二月七日

 

ブラームスの初期にも佳曲あり

 ブラームスについて、「バク」さんから、次のような投稿をいただきました。

生方さんの「ブラームスは初期より後期」(管理人注:「私の音楽鑑賞メモ(二〇〇一年〜二〇〇二年)」をご参照下さい)を拝見して、私の愛してやまないピアノ四重奏曲が駄目との印象を受けましたので反論を。たしかにブラームスから一曲を取れと言われましたら作品一一八の二を取るかも知れません。しかし若いという事は何らかの欠点を持つものですが、それを凌駕する美点をこれらの三曲は確かに持っていると思います。少なくともピアノ五重奏にはない旋律美を四重奏曲は持っています。三曲の緩徐楽章を是非もう一度寛容の気持ちでお聞き下さい。第一番の讃歌あるいは感謝の歌には胸が熱くなる思いはしませんか? 第二番のさえざえとした北の風土を感じさせる歌、再現部でヴァイオリンに歌われる時、懐かしさで心が一杯になります。第三番の対位法の綾の美しさ等々…普段ピアノ五重奏(私は良いと思った事が無い曲)の陰に隠れてあまり評価されないこれらの曲を愛してやって下さい。以前は演奏の難しさからか、なかなか感心できるディスクが有りませんでしたが、スターン、マといったアメリカの連中のとても美しい演奏でこの三曲の本当の良さを教えられたように思います。

 とかく晦渋なブラームスですが初期の曲にはこうした本当に美しい旋律を持った曲があるんです。おまけですがピアノ四重奏と同じ頃の作品二三シューマンの主題による変奏曲も良い曲です。ピアノ連弾という特殊な形態をしていますのでブラームス通の人でもあまり知られていませんが。

 バクさん、ご指摘ありがとうございます。確かにブラームスのピアノ四重奏曲の緩徐楽章には美しい旋律が出てきますね。小生は特に第三番(作品六〇)の第三楽章が好きです。この曲も、両端楽章のハ短調の力みかえった情熱は好きになれませんが、ホ長調に転ずる第三楽章は天国的な美しさです。晩年の作品とはまた違う、ブラームスの憧れに満ちた青春叙情です。昔、好きになった女性に、小生の愛好する曲や楽章を編集した「私の名曲集」のテープをプレゼントしたことがありますが、その中にもこの楽章を入れたはずです(汗)。

 もうひとつ付言すれば、ブラームスの初期作品では、二曲の弦楽六重奏曲の渋さと暖かさも愛好しています。いずれにせよ、「ブラームスは初期より後期」といった具合の総論やタイトルには危うさがありますね。「神は細部に宿り給う」と言いますが、ブラームスの初期作品についても、総論で全部ダメと誤解されないように、まず子細にその美点を渉猟する必要がありました。

平成一六(二〇〇四)年二月七日(土)

 

シューマンのピアノ協奏曲のファンです

 シュタイヤーが当時のピアノで弾くシューマンのピアノ協奏曲のCDを聴く。それは大袈裟な身振りの無い簡素な美しさが特徴である。シューマン独特の揺れと移ろいの表現も美しい。「間」も見事に活かして、一瞬の沈黙から限りない音の言葉を引き出している。古今のピアノ協奏曲の中でも僕はシューマンの協奏曲を特に愛している。

平成一六(二〇〇四)年二月九日

 

シューマンのチェロ協奏曲も好きです

 今日、石川県立音楽堂でのオーケストラ・アンサンブル金沢の定期演奏会に出かけた。指揮はこのオケと相性が良いと僕が感じているギュンター・ピヒラーさん。石坂団十郎さんの独奏によるシューマンのチェロ協奏曲が素晴らしかった。

 シューマンの同じイ短調でも、ピアノ協奏曲は、構築性に富み、誰にも親しみやすい叙情的な旋律に満ちているのに対し、このチェロ協奏曲は、決してまとまりのいい作品ではない。むしろ、切れ切れの旋律が宙にさまよい、心が幻想の中を泳いでいるかのようである。しかしそれだけに、シューマンの優しさと脆さがない混ぜになった繊細さ、彼の人間像があからさまに出ていると感じる。ピアノ協奏曲が堂々たる伝記ないし楷書の書体だとすると、チェロ協奏曲は私小説ないし草書の書体である。この曲では、第三楽章に至ってようやく簡潔で明快な旋律が現れ、私小説に堂々たる終結を鳴り響かせるのである。僕は、叙情性と構築性が見事に融け合っているピアノ協奏曲も大好きだが、この「幻想的私小説」であるチェロ協奏曲もなかなか好きだ。

 今日ソロを弾いた石坂団十郎さんは、日本人の父とドイツ人の母の間に生まれた人とのことだが、さすが「団十郎」という名前だけあって、堂に入った役者振りだった。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲の一節を独奏してくれたが、東欧民謡風のメロディも出て来る舞曲を、メリハリのある演奏で楽しませてくれた。シューマンではなかなか歌えなかった「歌」をチェロが喜ばしげに歌っていた。

平成一六(二〇〇四)年三月二五日

 

オーケストラ・アンサンブル金沢のハイドン

 今日はオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のハイドン特集の演奏会に出かけた。指揮はビュンター・ピヒラーだったが、この人とOEKのハイドンは演奏は、古楽器奏法も適度に消化して、メリハリある好演だった。

 中でも二曲目の協奏交響曲は出色で、人々を楽しませ微笑ませ喜ばせる最高のエンターテインメントだと思った。本当によくできた曲で、ヴァイオリンに歌劇のレティタティーボのような歌を歌わせたり、最高音まで駆け上る旋律をヴァイオリンに弾かせて、何とそれと同じ音型をチェロにも奏させたり、オーボエとチェロが歌い交わしヴァイオリンとファゴットが挨拶を交わすなど、音楽の楽しみが随所に溢れている。それでいて、刹那的な楽しみだけでなく、形式もきっちり引き締まっていてメロディも豊かだ。ハイドンのこの協奏交響曲は演奏される機会はさほど多くないが、ベートーヴェンやショパンやチャイコフスキーなどの何度も演奏され尽くしている有名協奏曲を聴くより、はるかに心豊かになれる気がする。ハイドン当時のロンドンの聴衆たちが大喜びする様子が手にとるようである。

 一曲目の「時計」交響曲もOEKの演奏は引き締まった好演。この曲を聴いて改めて気づいたのは、ハイドンは本当に必要な時にしかティンパニやトランペットの破裂音を使っていないということだ。これに比べると、ベートーヴェンはティンパニや金管に依存し過ぎており、彼の交響曲には時にしつこさを感じることがある。三曲目の「軍隊」交響曲は、当時流行りのトルコ風軍楽も巧みに取り入れて、まさに娯楽のテンコ盛り。しかも作りが簡潔なので嫌味が無い。今日の演奏会を通して、OEKのハイドンは、まさに「寿福増長の基、加齢延年の法なるべし」(世阿弥「風姿花伝」)と感じた。

平成一六(二〇〇四)年三月二九日

 

良き音楽の師たち

 ベートーヴェンやリストを教えたアントニオ・サリエリ。ベルリオーズやセザール・フランクを教えたアントン・ライヒャ。マーラーを教えたロベルト・フックス。音楽の革命家たちを育てた良き教師たちには、いずれも温厚な性格であることや保守的で堅実な作風であることといった共通点がある。革命的音楽家が保守的音楽教師から生まれるというのは不思議な現象だ。

平成一六(二〇〇四)年五月七日

 

古典派の忘れられた巨匠、ヴァンハルの交響曲を聞かせる演奏会−主宰者への手紙−

ハイドン・シンフォニエッタ東京 広實様

 生方史郎と申します。さる一〇月二三日の「府中の森」での「モーツァルト同時代作曲家シリーズ第九回」のコンサートにおじゃまさせていただきました。ヴァンハルの二曲の交響曲は大変印象的でした。「テンペスト」と題された変ホ長調の交響曲(Bryan Es1)は、第二楽章で弦楽器だけの短調に転じたり、フィナーレでは激しくめまぐるしく展開したり、変化に充ちた聞きごたえある曲だと感じ入りました(それにしても何故「テンペスト」なのでしょうか? ヴァンハル自身が名付けたのでしょうか?)。

 一方、ト長調の交響曲(Bryan G6)は、第一楽章の展開部での強引とも思える転調や第二楽章の牧歌的なオーボエ・ソロや第三楽章で短調に転ずる中間部やマンハイム・クレッシェンド風のフレーズが出て来るフィナーレなど、これも聞き所の多い印象的な曲でした。一時間ほどの短いコンサートでしたが楽しませていただきました。

 それにしても、失礼かもしれませんが、三年ほど前に小生が市ヶ谷ルーテルセンターで聞かせていただいた頃と比べて、ずいぶん演奏が安定してこられましたね。広實様はじめ、皆さまの精進に心から敬意を表します。

平成一六(二〇〇四)年一一月九日

 

(追記)このメールに、主催者の広實さんから、以下のような知見に富んだお返事をいただきました。

 ご無沙汰しております、広實です。一〇月はご来場有難うございました。来春二月からは、いよいよ未出版交響曲復活公演へ入ります。先ずはヴィーン国立図書館および楽友協会図書館所蔵一八世紀写筆譜の曲からです。現在、スコア入稿、校訂作業を開始しておりまして正月休み中に徹夜し公演に間に合わせる予定です。 (折角なのでスコア出版なども予算が合えば思案中です)

 その演奏会の前座は、ディッタースドルフのオラトリオ「エステル」序曲へ長調にしました。彼の作は現代ではオラトリオ「ヨブ」がレーベルCPOにより復活公演録音され超名演ですね。特に「ヨブの嘆きのアリア、イ短調?」(CD二枚目第一曲)は世界一悲しいアリアの一つで、当団一〇月公演ヴァンハル「Bryan Es1 第四楽章展開部の裏メロ」にも引用されているくらいですから。(旧約聖書にあるヨブ記が底本のようですけど、無宗教の日本人には想像のつかない世界ですね。これでは宗教戦争が止まない訳も少し解る気がしました。)

 先の一〇月ライヴのCDは上手く行けば来春には、プレスしてタワレコなどで販売開始の予定です。是非比較試聴されては如何でしょうか? 残念ながら二年前の録音ではここまで聞こえないと思います。「エステル」の方は、更に後期の作のようで、幕間にはあのモーツアルトのピアノ協奏曲二二番変ホ長調が初演されたとか。「全オラトリオを聴かずしてディッタースドルフを語るなかれ」といったところでしょうか。

 「テンペスト」に戻りまして、直訳すると「海の嵐」のようです。良くフランス映画などで「海を見たことある?」とか会話が出てきますが、正に内陸のドイツ人やヴィーン人が始めて海を見に行く工程が描写されているようです。わくわくする鼓動や、嵐に直面した体験など。ただヴァンハルの作は、それだけに留まらず人間の自然(神)に対する無力さなどまでも、先の「ヨブのアリア」などを引用して表現しているところが恐れ入ります。モーツアルトが大先輩として慕ったのも頷けます。一刻も早くヴァンハル全集を聴いてみたいものですけど…。

平成一六(二〇〇四)年一二月二九日

 

ベルリン宮廷のメロディ・メーカー

 ベルリンのフリードリヒ大王の宮廷に仕えていたフルート奏者、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(一六九七年〜一七七三年)が作曲したフルート協奏曲やフルートの入った室内楽をいくつか聴いた。僕の美の嗜好に食い込んで来るメロディがいくつも出てきて心動かされた。クヴァンツは相当なメロディ・メーカーである。ずっと前、ランパル、ピエルロ、オンニュ、ラクロワといったフランスの名人たちの演奏によるクヴァンツのハ短調のトリオソナタが入ったCDを持っていた。そのハ短調のトリオソナタは、フルートとオーボエが絡み合ってメランコリックで印象的なメロディを奏でる、僕の大好きな曲だった。今回聴いたのは、主に、英国の女流フルート奏者、レイチェル・ブラウンの演奏による協奏曲集とフルートソナタ集(いずれも英シャンドス)だが、木管の古楽器フルートの柔らかな音色がとても心地よかった。また、日本のリコーダー奏者、花岡和生さんの演奏による無伴奏リコーダー曲集(日トラウト・レコード社)も、お伽の国の音楽のような不思議な魅力に充ちていた。

平成一六(二〇〇四)年一一月二〇日