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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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年の瀬の能を楽しむ

 

 

先週の土曜日、宝生能楽堂で催された「五雲会」に出かけました。「五雲会」は、宝生流の中堅・若手のシテ方能楽師を中心とした月例の会です。この日は、「和布刈(めかり)」「葛城」「天鼓」「乱」の能四番などが演じられました。最初の「和布刈(めかり)」は、長門の国(現・山口県)早鞆(はやとも)明神の神事を主題にした脇能(=神を主人公とし、神社の縁起などを説き国土繁栄を祝する、演劇というよりは祭祀性の強い能。能会の始めに演じられることが多い)です。早鞆明神の年末晦日(みそか)の夜まだ明けぬ早朝、龍神が出現して海の潮を引く奇跡を現し、それを見計らって神官が海中の水底から和布(わかめ)を刈る神事を描いています。前場は、早鞆明神や和布刈の由来が型どおりに語られますが、中入以降は非常に華やかな舞台に転じます。間狂言(早鞆明神に仕える男)が祝言の小舞を舞い、後場では、天女が現れてしっとりと舞ったあと、龍神が潮を引く勇壮な所作を見せます。これだけでも充分華やかな舞台なのですが、この曲ではさらに、ワキの神官が松明(たいまつ)を振り立て、実際に潮の引いた海に入って和布を刈る所作さえ見せてくれます。冬の早朝の神事の張り詰めた清涼感が心地よく、年の瀬を強く感じさせられました。シテ(老翁のち龍神)は渡邊荀之助師が演じられました。

 

 さて、この日の演能で最も印象に残ったのは「天鼓」でした。「天鼓」は、唐土・漢の国を舞台に、妙なる音を発する鼓を朝廷で打つことを拒否したために殺された天鼓という少年の父、王伯老人が、勅命により、天鼓の死後鳴ることの無かったその鼓を打つことを命ぜられ、懊悩しながらも参内して鼓を打つと、妙音を発し、帝も感じ入って亡き天鼓の菩提を弔う管絃講を催します。すると天鼓の亡霊が現れ、ようやく許されたことを喜び、両手に撥を持って歓喜の舞を舞う、というお話です。王伯老人が息子の死を嘆き、勅命とはいえ自分が鼓を打たなければならない宿命に逡巡する心理を描く前場の最後で、意を決した王伯老人が舞台前面に出された鼓台に向かい、万感の思いをぶつけるように撥を振るってただ一度だけ鼓を打つその瞬間の姿から、老人の悲しみと執念がシテの気迫に乗って見所に電流のように伝わります。それほど迫力あるシテの所作でした。そして、息子が許されると聞いて安堵し、精根尽きた姿で官人に寄り添われて去ってゆく姿も印象的で、あたかもその背が老人の思いを語りかけて来るかのようでした。後場は打って変わって、童子の面(おもて)を掛けた天鼓の亡霊が、喜びの舞を舞います。天鼓が両手に撥を持って鼓を打つ姿は、前場の老父とは対照的に、生き生きとしてリズミカルで、また、晴れ晴れとしたものでした。シテ(王伯老人のち天鼓の亡霊)は田崎隆三師が勤められましたが、舞姿がとても柔らかで美しく感じられました。三川淳雄さん率いる地謡も明瞭で力強く、感激しました。亀井広忠さんの大鼓ほかの囃子方も充実していて、小生は、この日の演能で、この曲の静と動の妙趣を教えられました。

 

 この日最後に演じられた「乱」は、「猩々」と同じ内容ですが、舞が別バージョンになります。通常の「猩々」の「中の舞」と違って、この「乱」の舞は、足を振り上げたり、首を振ったりと、珍獣が酒に酔ってご機嫌になった姿をより直接的に表象しています。シテの小倉健太郎さんは、よく通る声の謡も若々しく、舞も危げなく舞われ、酒宴の多い年の瀬にふさわしい猩々の舞を楽しませていただきました。なお、「猩々三題」(平成一六(二〇〇四)年一一月二八日付)もご覧ください。

平成一七(二〇〇五)年一二月二四日