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自由主義イデオロギーに囚われた「ダメな議論」

 

 

自由主義イデオロギーに囚われた「ダメな議論」の典型が、「日本経済新聞」今年六月八日、九日の「経済教室」欄に“邦銀再生の視点”と題して二回連続で掲載された、文教大学学園理事長の渡辺孝氏の論文と、マッキンゼーの本田桂子氏の論文である。両者に共通するのは、政府の金融への関与を出来るだけ減らして自由化を進めるべしという議論である。

 

その上で、渡辺氏は、地域金融機関の不良債権処理の遅れを問題としている。渡辺氏は、地域金融機関の不良債権処理が遅れているから「本来他のより有利な案件に資金を振り向けた場合に得られたであろう利益(機会利益)を勘案すると、地域金融機関の大きな桎梏となっている」とするが、そうした「不良債権処理の遅れによる機会利益喪失」説は、1990年代末から2000年代前半についての実証研究によって否定されている。例えば、岩田規久男氏の所論は既に拙文「『新銀行東京』の失敗」において紹介してあるのでご参照いただきたい。[i] また、貞廣彰氏の定量モデル分析によれば、1990年代後半以降に民間設備投資の伸びが低迷した原因は、企業のバランスシート調整にあると言えるが、銀行借り入れが原因となって投資を制約していたという因果関係は無いと推測され、むしろ、企業の内部資金となる経常利益が投資に有意に先行していた、という。[ii] 

 

私の実感としても、地域金融機関は優良貸出先の発掘には血眼になって努力しており、機会利益など地域経済にはそもそも存在しないのである。渡辺氏の議論はまさしく現実を見ない自由主義的観念論である。

 

また、渡辺、本田両氏共に、欧米銀行と比べ邦銀の利ざや率の低さを難詰し、自由化によって利ざやが大きくなると信じているようである。しかし、そもそも日本の市場金利全体が超低金利なのに、なぜ銀行融資で大きな利ざやを取れる余地があるのだろうか。また、企業格付における対国債スプレッドの低さは、日本の貸出市場の借入人の信用リスクの二極分化(4%市場と15%市場)の低い方を反映しているのであり、これは日本経済の構造的な問題であって、4%と15%の中間市場というものは存在しないのである。このことは、既に、拙文「『新銀行東京』の失敗」において、私の体験をもとに「例証」したとおりである。

 

地域金融機関は、地域が衰亡をたどる限り、それと共に縮小均衡を円滑に行ってゆくしかあるまい。すなわち再編・統合である。商圏が縮小する中で、自由化→競争激化→破綻を伴う自然淘汰という結末に至る「自由化政策」は、何万人もの地域住民が預金口座を置いている金融機関に対する政策としては、正しいとは言えないだろう。こうした衰亡に逆らって一か八かの無理な投融資を行うのは傷口を大きくするだけだったことは、既に一九九〇年代後半から二〇〇〇年代初頭に破綻した地銀や信金の事例を見れば明らかであろう。

 

いずれにせよ、日本の貸出市場の実態を調査もしないで、ただ観念的に自由化しろだの利鞘を取れだの主張するのは、無責任で不見識と言うべきである。渡辺、本田両氏の論文を「ダメな議論」の典型と断じた所以である。


平成二一(二〇〇九)年六月一六日

 



[i]  岩田規久男「日本経済を学ぶ」ちくま新書(2005年)、p220〜225

[ii] 貞廣彰「戦後日本のマクロ経済分析」東洋経済新報社(2005年)、p118〜123