近況メモ(平成一七[二〇〇五]年三月〜四月)
平成一七(二〇〇五)年〜「天候不順な春」から「躑躅(ツツジ)の季節」へ
三月五日(土)曇り時々晴れ時々みぞれ
ここ金沢は三月に入っても寒い日が続いています。一日の最低気温が0℃〜1℃、最高気温が4℃ほどです。雪やみぞれが散らつく日も多く、昨夜も、わずか数時間宴席を過ごしている間に香林坊の表通りは数センチのべた雪が積もり、帰り道を歩くのに難渋しました。
さて、今年は何年かぶりにNHKの大河ドラマを毎週見ています。というのは、源義経は能の世界でも頻出する人物なのですが、今度の大河がどういう義経像を描くのか、能の様々な「義経もの」との対比で興味があるからです。今のところ、今年の大河、なかなかよくできているな、と思います。牛若丸時代の義経を、「武術に抜群の才能を示すけれども、自らの出自について思い悩む純粋な心を持った少年」に描いているのは説得力があります。能「鞍馬天狗」に出てくる大天狗のイメージを活かした神秘的な山伏(美輪明宏さんがうまく演じていました)を登場させたのも効果的でしたし、能「橋弁慶」で有名になった五條大橋での牛若と弁慶の対決の場面も、画面いっぱいに桜の花を散らした美しい演出が素晴らしかったです。また、常盤御前を演じている稲森いづみさんという女優の美しさには心惹かれますし、組み紐屋のおかみを演じる白石加代子さんも、何やら予言者めいた神秘的な魅力を湛えて好演です。一方、平清盛役の渡哲也さんにはもう少し覇気と生命力を感じさせてほしい気がします。物語は、平家から警戒され始めた牛若丸がいよいよ鞍馬山を出て奥州藤原秀衡のもとへ旅立つところです。能にはこの間の逸話を描いた「烏帽子折(えぼしおり)」という曲があります。いずれにせよ、牛若丸は母・常盤御前に別れを告げたわけですから、稲森いづみさん演じる常盤御前がもう出なくなるのがとても残念です(^_^;)。
ところで、我が故郷・愛知県では、常滑沖に中部国際空港が開港し、長久手・瀬戸・豊田に渡る丘陵地帯でもうすぐ「愛・地球博」も始まりますが、「セントレア(中部のセンターと空港のエアを合成した人造語)」の愛称を持つ中部国際空港の南隣でちょっとした事件がありました。二月二八日付日経新聞の見出しを引用すると、「『南セントレア市』の市名どころか、合併自体も破談に。愛知の美浜・南知多両町の住民投票で反対多数」というものです。つまり、合併に向けて準備していた両町の協議会でいったん決めた「南セントレア市」という名称に対して、あまりにも住民の反対の声が多かったため、改めて合併の是非と新市名についての住民投票を行なったところ、合併自体が反対多数で流れてしまったのです。この事件は、事前の公募の中に「南セントレア」の名前が無かったにもかかわらず両町長をはじめとする協議会が「勝手に」この名前に決めてしまったことも反発を招いた一因とされていますが、根本的には「地名」に対する住民の誇りの問題ととらえるべきでしょう。美浜町も南知多町も美しい海岸と海水浴場と離れ小島を持つ知多半島先端の町です(ちなみに哲学者・梅原猛氏は南知多町の出身です)。こんなわかりやすくしかも先祖から受け継いできた美しい自然環境を基調にしたアイデンティティがあるにもかかわらず、町長ら両町の指導者たちは、自分たちの故郷を「セントレアの南の市」にしようとしたのです。「空港の南隣」ということでしか自らの出自を表現できない恥かしさ、カタカナ人造語を自分の故郷の名にしなければならない情けなさ…。いくら実利的な愛知県民でも、この名前はあんまりだ、御免被るということです。最後の土壇場で住民がしっかり自らの意思を示し、「南セントレア市」の実現が阻止されてほんとうに良かったと思います。それにしても、いつまでも「産業主義」「経済至上主義」を奉ずる地方の指導者たちには困ったものです。住民の意識はとうに自然と歴史を基調にした自らの出自を慈しむ方向に傾いているのに、愚かな指導者たちは相変わらず土木工事と箱ものによる経済浮揚しか頭に無いようです。
小生の少年時代(昭和30年代)、故郷の町が自動車会社の名前に変えられ、「豊田市」になりました。もともとあそこは、万葉集で「衣の里」と呼ばれたり、都とのつながりを思わせる「加茂」という地名であったり、近世は城下町だったり、徳川家発祥の「松平」という地名が残っていたり、と、自然や歴史が豊かなところだったのですが、当時は高度成長時代で、苦も無くこの「産業主義」の市名変更がまかり通ったのです。小生は思春期の頃、この市名がいやでいやでたまりませんでしたし、今でも抵抗があります。出自に対する誇りを感受性豊かな青少年から奪うような地名変更は、人間への冒涜であり自然と歴史への犯罪行為です。平成の大合併でできる町が、自らの出自をよく表すことを切に願っています。また、残念ながら新しい町の誕生で旧町名が消えざるを得ないとしても、かつての町の歴史を一層青少年には教え、駅名や建物名や通称地名などにできるだけ旧町名を残してゆくべきだと思います。
三月一二日(土)雨のちみぞれ(風強し)
今週金沢は週央ずいぶん暖かくなり、四月中旬の気候(一日の最高気温が18℃くらい)でした。今年はスギ花粉の飛散が昨年の何倍も多いとのことですが、小生も、暖かな空気と共にアレルギー性の花粉症や皮膚炎の症状が現れてきましたので、医者で薬をもらったり、知人が奨めていたキリンの「体質茶」というのを買ってみたりしました。しかし暖かさも束の間、今日は強風吹きみぞれ舞う真冬の気候(最高気温8℃くらい)に逆戻りです。明日は雪も積もるとの予報です。せめて春の面影を求めようと、桜の葉の入った煎茶を買って飲んでみると、口一杯に甘い香りが広がりました。
三月二一日(月)晴れ
先週初、金沢は雪が降り積もりました(写真上段参照)。今年の「なごり雪」でしょうか。気温も下がり、傘がさせないほど強い風が吹き、真冬に逆戻りでした。しかし季節は確実に春を深めつつあります。金曜日の昼、ある会合の後、我がオフィスに程近い尾山神社に立ち寄ると、境内には紅梅が見事に咲いていました(写真下段参照)。3月ももう半ば過ぎ、今下期の我が金沢支店の営業成績もそろそろ大勢が判明しつつあります。正月に管理職で目標必達を祈願したこの神社に、少し早いですがお礼参りをしておきました。
尾山神社と境内の梅=3月18日(金)撮影
週末の三連休は東京に帰っていました。昨日は、家族三人で谷保天満宮へ娘の大学入試のお礼参りに出かけ、今日は、娘の高校の卒業式に出席してから金沢に戻りました。娘の高校は理科系の大学進学に力を入れている女子校ですが、大変礼儀正しく美しい卒業式でした。生徒たちが卒業証書などを受け取る姿勢や型もきちんとしており、冒頭には「君が代」と校歌、最後には「仰げば尊し」と「蛍の光」も歌われました。校長先生は歴史研究者らしく、徳川家康の言葉を引いて、「人間に対しては、その悪いところは気づいても捨て置き、善いところを見て接するようにしよう」という趣旨の爽やかなご挨拶をされました。こうしたきちんとしたセレモニーで送られる卒業生は幸せです。式が終わってから、それまでの緊張した雰囲気から解放された生徒たちが、自発的に代表を何人か決めて先生方にお礼を述べ、全員で「未来」という歌を歌ったのも力強くて素晴らしく、小生は不覚にも涙があふれてきました。小生ばかりでなく、我が妻も含めかなりの父兄の方が涙ぐんでいました。いい卒業式でした。
この季節、日本中で卒業式が行なわれています。ある人からのメールに、「きょう、卒業式がありました。社会で生きるにはあまりに小さな人たちが、大きな祝福に包まれて巣立っていきました。」という美しい一節がありました。小生も、自分の娘やその同級生のたちの卒業式を見て、彼女たちが社会の荒波に揉まれるにはまだあまりに小さな力しかないと感ずる一方、若い人たちだけが持ち得る、「善に向わんとする純粋で強い力」或いは「全ての宿命を受け入れる覚悟」をも感じ、それが大変力強くたくましくも感じられました。我が娘も、大学受験にはてこずったようでしたが、小生は、結果よりもこれからの人生のための良き経験にしてくれればいいと思い、彼女にメッセージを送っておきました(「涙の数だけ強くなれるよ」参照)。東京の多摩地方は、至るところで紅梅白梅が見事に咲き誇り、春の香りを楽しむことができましたが、金沢への帰り道の越後湯沢から直江津に至るあたりはまだ雪が1メートルほど積もっており、春未だ遠し、でした。
三月二六日(土)曇りのち晴れ
今晩は満月が美しい旧暦の「如月(=二月)十七夜」です。春も半ばなのに、今年の金沢は今頃になっても雪やみぞれが散らつく不順な天候です。職場でインフルエンザが流行っていたので注意していたつもりだったのですが、ついに小生もやられてしまいました。鼻水と鼻詰まりがひどく微熱を感じたので掛り付けの医者に行くと、鼻水でインフルエンザの検査をしてくれ、A型インフルエンザと判定されました。薬を服用していますが、今も微熱がある状態です。皆さんもくれぐれもお気をつけ下さい。
さて、今週、京都は南禅寺に程近い「碧雲荘」という庭園を拝見する機会がありました。「碧雲荘」は、野村証券・大和銀行の創業者である野村徳七(号を得庵。1878年〜1945年)が築きました。野村徳七は、実業家であると同時に当時の代表的な趣味人で、茶道と能に造詣が深く、茶の湯の場所として、十一年の歳月をかけて京都東山の地に約七千坪の「碧雲荘」を築きました。庭は七代目・小川治兵衛、建築は北村捨次が担当しました。小川治兵衛は、平安神宮の神苑、京都府庁舎の庭園などを手がけた近代日本の代表的な庭師で、「碧雲荘」の近隣に、彼の手になる、十五代・住友吉左衛門の別邸「清風荘」「鹿ケ谷別荘」「有芳園」などもあります。
「碧雲荘」は、東山連峰を借景し、池水を中央に大小九つの茶室が配され、往時の茶会の様子が偲ばれる佇まいです。池は疎水から直接導水しており、池に浮かぶ屋形船も茶室になっているなど、「藤原時代の絵巻物を見るような豪壮快闊なる庭園」と評される所以を強烈に感じました。春は枝垂れ桜、新緑の頃は赤松、秋には二百五十本の紅葉がいっせいに紅葉するそうです。今の季節は梅や馬酔木(あせび)が見事に咲いていました。
野村徳七は金沢にも縁が深く、銭屋五兵衛ゆかりの灯篭もありましたが、そこで、同行の金沢の代表的茶人である大島廣靖先生が、ご自分の祖父に縁のあったこの灯篭を感慨深げに見ておられたのが印象的でした。「碧雲荘」隣設の「野村美術館」では、立礼席で抹茶を賞味させていただき、徳七が収集した茶道具や能面を鑑賞しました。空き時間に南禅寺を散策すると、学生時代のクラブ活動で、大学から南禅寺まで往復8キロをランニングしたことを思い出しました。懐かしい風景です。
ところで、今週はまた、金沢に文楽(人形浄瑠璃)の公演が来たので、これも鑑賞しました。この時の感想を「文楽鑑賞記」に記しましたのでご覧ください。
四月三日(日)曇り時々雨
そろそろコート無しで通勤できそうな季節になりました。まだ少し寒さは残りますが、コートを脱いで外を歩くと開放的な春らしい気分になりますね。小生のインフルエンザは直りましたが、職場はまだ風邪とインフルエンザが猛威を振るっています。A型、B型のインフルエンザに加え、普通の風邪に罹っている人もおり、何人かが休まざるを得なくなっています。仕事は期末ということで忙しい時期でしたが、皆のチームワークで何とか乗り切ることができました。業績面では、お蔭様で事業法人営業部門が好成績を挙げた模様です。新しい期に入り、気分も一新して今期の施策を練りたいと思います。
四月九日(土)快晴
この週末は、取引先が新しく開業したホテルの竣工式に出席するため京都に出かけました。小生も祝辞を述べることになっていましたので緊張しましたが、何とか無事に役回りを演じることができました。華やかな竣工式の後、どうしても会いたかった関西在住の二人を訪問しました。ひとりは、某銀行で大阪堂島地区の個人部門の営業部長を務めている小生の大学時代の同級生です。彼とは大学受験の時に受験番号が隣り合っていて、なぜか馬が合って親しくなりましたが、二人とも現役受験に失敗して二年目でようやく合格したという仲です。学生時代やその後の社会人生活の中では意外に会う機会が無く、年賀状のやりとりだけになっていましたが、今回二十数年振りに彼と親しく話が出来ました。懐かしくうれしい一時でした。
もうひとりは、小生の遠い親戚に当たる叔母様(小生の父方の祖父が彼女の母上の兄に当たります)で、ご夫婦とも立命館大学で教鞭を執っておられます。この叔母様ご夫婦が一年ほど前に西陣の旧い商家を買い取って住んでいると聞いていましたので、この機会に見学させていただくことにしました。西陣あたりもバブルとその崩壊の過程で昔ながらの家屋はどんどん無くなり、街の品格もかなり失われたようですが、何とかその一部でも残したいとの志から、取り壊される予定だった物件を買い取り、近代生活が可能なように最低限の改修を加えて住んでおられます。京都の家屋独特の、入り口は狭く、奥行が深々としている構造で、吹き抜けのある開放的な家です(写真参照)。入り口には現役で使える井戸もありました。この叔母様ご夫婦は二人とも愛知県三河人で、京都は仕事の場所に過ぎませんが、「よそ者」である二人の、旧き京都を残そうとの志には頭が下がります。この叔母様は、小生が生れた時から幼少時期の様子などもよくご存知で、全く頭が上がりませんが、この日も、さんざんごちそうしていただき、小生の「たわごと」もいろいろ聞いていただいた挙げ句、アカデミズムの世界からのさまざまなアドバイスもしていただきました。ますます頭が上がりません(笑)。西陣の奥深い構造の家の居間で楽しく語り合っていると、外の物音が全く聞こえて来ないことに気づきました。街中なのに不思議な静謐な世界でした。
さて、明けて今日は、京都から北陸へ抜けるのに、「鯖(さば)街道」を通って帰ることにしました。「鯖街道」とは、小浜や高浜など若狭湾で採れる鯖などの魚介を一昼夜で新鮮な状態で京の街まで運んだ道で、いくつかのルートがあります。小生が今日辿ったのは、現在の国道367号線、八瀬・大原から朽木(くつき)を通って小浜へ抜ける道です。まずは朝早起きして出町柳から朽木までの長距離バスに乗ります。バスは山登りやハイキングの格好をした人たちでけっこう賑わっています。出町柳は小生が学生時代下宿していた所から程近く懐かしい場所ですが、当時通った名曲喫茶は無くなったようで、かなり開けた所になっていました。出発したバスは鴨川が分れた高野川に沿って上って行きます。川の土手には満開の桜並木が並んでいました。三千院や寂光院のある大原を過ぎ、花折峠を越えると、南に流れていた高野川に代って、今度は安曇川(あどがわ)が北に向って流れるのが見えます。大原から北上すること約一時間、バスは朽木村に辿り着きます。朽木は昔から街道の要衝で、近江源氏である佐々木氏の一派が鎌倉時代にこの地で朽木氏を名乗り、勢力を持っていました。
この街道を通った歴史上の有名人物がふたりほどいます。ひとりは曹洞宗の開祖、道元です。宋から帰国してしばらく京で教化活動のかたわら自分の道を模索していた道元が、越前の有力地頭・波多野義重の勧めで永平寺を開闢するのですが、道元が京から越前へ向う時に通ったのがまさにここ朽木なのです。時に嘉禎3(1237)年のことで、その時に道元の勧めによって朽木氏が建てた興聖寺が今も残っており、小生も訪ねてみました。今では普通の山寺といった風情で昔の栄華を偲ぶことはできませんが、ここの旧・秀隣院庭園は素朴な味わいの良い庭園でした(写真左参照)。何でも、戦乱で追われた室町幕府十三代将軍・足利義晴をここに保護していた朽木氏や朝倉氏が将軍の徒然を慰めるために作った庭園とのことでした。さて、朽木を通ったもうひとりは織田信長です。元亀1(1570)年のこと、越前の朝倉氏を攻めるために敦賀まで進軍した信長は、そこで近江の浅井氏が寝返って敵方に回ったとの情報を得ます。挟み撃ちにされて絶体絶命の信長は、密かに数名の共を連れて敦賀を脱出し、人づてを頼って朽木街道を南下し、朽木氏の協力を得てかろうじて京に逃れることができたのです。信長の生涯でも、桶狭間に今川義元が進軍してきた時と並んで最大級の危機だったといえましょう。ここの郷土資料館には、その時に信長が朽木氏に与えたといわれる皮製の袴が展示されていました。朽木には、こうした歴史の遺構がいくつも残されています。街の中心街のレトロな雰囲気も捨て難いですし(写真中参照)、安曇川を渡った向こう岸にある、邇々杵(ににぎ)神社の多宝塔も均整の取れた美しい塔でした(写真右参照)。
朽木からは、いったんバスで安曇川町へ出、湖西線で近江今津まで行き、そこからまたバスで小浜へ向いました。近江今津から小浜に向う街道の途中に、若狭熊川の宿場町があります。この山あいの宿場町は、かつて街道一の賑わいを見せたそうで、近年街並みが整備され、電線の地中化もされ、街を清流が流れ、昔のたたずまいが蘇っています(写真参照)。熊川の名物は、特産の葛(くず)で、小生も、昔のお蔵をそのまま利用した喫茶店で葛入りの冷しぜんざいをいただきました。今日は好天で爽やかな暑さが心地よく、葛のあっさりした感触とぜんざいの冷たい甘さが溶け合って旅の疲れが癒されました。金沢に向う列車を待つ小浜線の「上中(かみなか)駅」付近の桜は今が盛りでした(なお、熊川についての詳細は、熊川宿のHPをご覧ください)。
四月一六日(土)快晴
旧暦では弥生(3月)8日の今日、まさに金沢は、「桜 桜 弥生の空は 見渡す限り 霞か雲か 匂ひぞ出づる」の世界です。好天に誘われて、昨日は兼六園の夜桜を、今日は卯辰山から東山界隈の桜を眺めに出かけました。北陸地方は冬が厳しいだけに春のありがたみがひとしおです。夜桜の季節、兼六園は無料開放されています。昨日19時頃に広坂側から園内に入ると、屋台が軒を連ねて人々が隙なく行き交っています。しかし園内は意外に静かで、数多い見物客もゆったりと桜に見入っている様子でした。兼六園から石川門をくぐって金沢城址へと歩きましたが、城の中は人通りも少なく、だだっ広くて静寂の支配する空間が街中とは別世界のようでした。
今日は、金沢城の東に位置し城に向かい合う卯辰山に登りました。頂上の望湖台と呼ばれる展望台からは、北には浅野川から金沢市街、その背後の金沢港や大野灯台や日差しに輝く日本海を、また、南には今だ冠雪した白山連峰を一望できます。山には鶯(ウグイス)をはじめ様々の鳥のさえずりが響き渡り、セキレイたちが梢に遊び、トビが悠然と大空に浮かんでいます。まさに「面白の春の眺め」です。望湖台から山を下る途中に卯辰山三社と呼ばれる神社があります。そのうち豊国神社は、加賀藩祖・前田利家の親友であった豊臣秀吉を祭った神社ですが、江戸時代には徳川家に遠慮して別の名前にしていたそうです。あまり人も来ない静かな境内で、散る花びらを見ながら、しばし時の流れに身を委ねました。
卯辰山を下り、浅野川に架る天神橋のたもとから東山方面に歩くと、観音院への参道である旧・観音院町や武士系の屋敷が並んでいた旧・御徒町の街並みに出ます。ここは、板塀や土塀が残る迷路のような小道が入り組んでおり、今日のような長閑(のどか)な日には、時間が止ったかのような気分になります。たたずんでいる飼い猫に近寄っても逃げようともせずのんびりと座っています。
さて、今週日曜日の金沢定例能で演じられた能「籠太鼓(ろうだいこ)」が素晴らしかったので、その感想を「私の能楽メモ(二〇〇五年)」に書き記しました。ご覧ください。
四月二四日(日)晴れ
先週は週初と週末、東京にいました。週初は出張のついでに会社の健康管理センターで一年半ぶりに人間ドックに入りました。小生は来る四月二六日に満四九歳になりますが、今のところ体調に異変なく、この冬引いた風邪のおかげ(?)で体重も一時期より三キロほど減り、その後もほぼベスト体重の状態を維持しています。食べ物もお酒もおいしい北陸にいると、自然体で暮らしているつもりでも体重は増えがちなので、できるだけ運動をしてこの状態を維持したいと思います。この日のドックの過程では特に悪いところは出なかったのですが、各種検査の結果が判明するのは連休明けになります。人間ドックのあと歯科で歯垢取りをしてもらいました。小生は虫歯というものを患ったことがほとんど無いのですが、「その分歯茎などが傷み易く歯周病になりやすいので、本当は半年に一度くらいは歯垢取りをするといいですよ」と、歯科の先生からアドバイスをいただきました。確かにこの日歯垢を取ってもらうと、歯と歯茎が蘇生したようにすっきりした気分になりました。
この週初の東京出張で、金沢ではすっかり影を潜めていた花粉症が猛烈に再発しました。今年、東京の各種花粉の飛散は並大抵ではありません。せっかく人間ドックですっきりしたのに、金沢に戻る頃には、ティッシュペーパーを常に持ち歩かないといけないくらい鼻や喉や眼がズタボロの状態になりました。それでも春の眺めはいいもので、家の近所を歩いていると、いろいろな草木が花盛りで、妙なる色香が人を楽しませてくれます。写真は、我が家の近くに咲いていたツツジとドウダンツツジを携帯で撮ったものです。ドウダンツツジは、ツボ状の小さな白い花をたくさんぶら下げた木で、名前に「ツツジ」を冠していますがツツジとは全く違う花を付けています。金沢の我が単身赴任者用マンションの食堂でも春を感じさせるメニューが出てきました。それは、ワサビの葉や茎を漬けた「せんな」という菜っ葉です。一見野沢菜に似ていますが、口に入れるとワサビの強烈な刺激が口と鼻を襲います。でもお茶漬けにして食べるとその刺激がけっこうおいしいのです。この日出された「せんな」のワサビは金沢郊外の山で採れたものだそうです。春の山の澄んだ空気と清らかな水を感じさせてくれる食べ物でした。
週末は再び東京の我が家に帰り、大学で必要だというので娘にパソコンを買ってやり、ついでに小生のパソコンも買い換えました。今日の昼には家族でささやかな小生の誕生祝いをしてもらいました。桜が散ったあとはたちまち新緑が萌え出づる季節となり、我が家の近くには、白とピンクのハナミヅキの木が交互に花を咲かせて眼を楽しませてくれます。金沢に着くと、薄曇りの空に弥生の満月が輝いていました。